◆5-1 ゆめのような
クラウディアの過去
まだフレイスティナと呼ばれていた頃の話
…此処だけが私の楽園、私の舞台。
天窓から真っ直ぐに伸びる光の帯。
それの達する先には大きくて白い円卓。
まるで回転舞台の様なその台の上、主役を張るのは人では無い。
うず高く積まれているそれは、偉人たちの魂の表現。記憶の塊。
獣の皮革や木皮の果てを織り上げて、宝石と岩絵具で着飾った知識の檻。
その檻の鍵を開け、顔を埋めている独りの少女が居た。
円卓を中央に据え、拡がる空間と高い天井。
落ちる光の束が明る過ぎて、反比例する様に周りの影は濃く、暗さを増している。
周囲は防壁の様に本棚が立ち並び、棚の間々に薄暗くて狭い迷路が形成されていた。
北国特有の短い夏でも長い冬でも。
太陽が高く在っても低く落ちても。
東西中央に設えられた縦長の窓は、常に円卓だけを照らしている。
本棚に光は入らない。
白く塗られた柱にぶつかった反射光だけが、光を弱めて通路を照らす。
此処は、緻密な計算と設計の元、遥か昔に建てられたホーエンハイム領主館に併設している大図書館。
棚に並ぶは、この国の長い歴史を表す数多の本。
希少本や古書の蔵書量では、帝国や正教国をも凌ぐと謳われている。
円卓に積み重ねられた本の山には、千年以上昔の古書も数冊混じっていた。
◆
少女の住処は、本を用いた壁の内側。
周囲と隔絶した空間の中で、古書に書かれた文字を一心不乱に描き写し続けている。
時折、彼女は虚空に向けて独り呟いていた。
「…姉様、姉様。
素晴らしいわ、ガラティア姉様。
この本に纏められている言語…とても不思議。
たった一つの文字だけで、要となる意味を有しているのね」
『これは表意文字と呼ばれている非常に特殊な古代文字ね。
絵のような文字に、人の行動や現象の場面を封じ込めている。
旧い時代に東国で使われていた言語よ』
「…帝国辺り?」
『いえ…帝国よりも向こう。…ずっと遠く』
相槌を打つ様に返答する謎の声の主は、何処にも視えない。
少女は暫く東側の窓の外に顔を向けた後、再び本に目を落とした。
「面白いわ…とても興味深い」
『私達の使う表音文字とは文字数も文法も全然違う文字よ。
しかも、この言語…表意文字と表音文字が混ざっているようね…。
面白い言語だけれど、習得する事は非常に難しいと思うわよ?』
「…発音も特殊みたいだし…すごく発声し辛いわ。
舌が縺れちゃう……!
こんな言語を纏めるなんて…凄い。
デリア様は、一体どうやって発音まで解読出来たのかしら…?」
小声で応える声は尋ねる声と同じ、一人の少女の口から発せられていた。
一見すると、独りで受け答えする奇妙な姿。
『この文字の発音記号…あら…?
見てみて、彼女の家名…この文字と同じ読みよ?』
「シモバナ…霜華…。
意味は…あら、フロストフラワーね。
湖などで、冬によく見かけるあの綺麗な華ね」
『彼女の故郷の発音のようね。
異邦人?若しくは、移民の子孫かしらね。
だから、この言語の基礎知識を持っているのかしら?
シモバナ家…あら?私の検索には掛からないわね。
鍵が掛けられているようね』
「別の読み方でソーカ…。こちらは言い易いわ。
ああ…!
私がもっともっと…ずうっと昔に産まれていたら!
一目お逢いして、ご挨拶くらいは出来たでしょうに…。
討論をしたかったです…。残念です…」
『女性の学者は珍しいからね…。
貴女とは気が合いそうよね?』
「ええ、きっと…。本当に残念…」
少女は独りで項垂れた。
そんな一人二役をしている少女を、離れた椅子に腰を掛けながら静かに眺める老女が居た。
少女のおかしな様子を訝しがる事も怪しむ事もなく。
見つめる彼女は愛おしそうに目を細めている。
膝に乗せていた小さな本を閉じ、口に手を当てて小さく欠伸をした。
◆
少女が此処に閉じ籠もってから、既に数刻が経っていた。
少女は毎日、朝日が昇ると同時に朝食の入ったバスケット片手に図書館に飛び込む。
昼は館に戻らず、使いの者が食事を届けに来る。
午後も変わらず本に齧りつき、貪る様に頁をめくり、掻き集めた高級紙に黒鉛を固めた細い棒で文字を書き散らす。
そうしている間に日が落ち、手元の文字が読めなくなる。
そこでようやく彼女は立ち上がり、施錠して図書館を後にする。
それが、この少女の日課。
貴族としての仕事がある時と、湖にある教会に行く時以外は、ほとんど此処に籠っている。
時折その日課に、彼女の小さな弟が交じる事がある。
その時には自分の書き散らかしを中断して、弟に本を読み聞かせたり、勉強を教えたりしている。
少女は貴族の令嬢であったが、貴族という物に興味が無かった。
少女は本にばかり興味を持ち、貴族としての嗜みである魔術の履修や、茶会や踊り、礼儀作法等の習い事に関心を示さない。
周囲は、そんな彼女の態度に眉をひそめた。
朝から晩まで本に齧りつくという、令嬢ではありえない日課。
時々行われる、独りで虚空に向かって喋り続ける不気味な行為。
その為、少女の元を辞す使用人は多かった。
雇われた者達は、快活で聡明な少女の兄や、異母姉兄達の方を好んで異動願いを出した。
独り言ばかり言う気味の悪い少女や、無表情で、何を考えているのか分からない彼女の弟は嫌厭され、ほとんどの使用人はひと月と経たずに去って行った。
しかし、そんな彼女達の側に残る老女が居た。
本を閉じたその老女は、ニコニコしながら少女の行動を観察していた。
彼女は良く知っていた。
皆が押し付けようとする『貴族の常識』が、彼女達には何の意味も無い事を。
老女の名は、カーラ筆頭側仕え。
幼い頃からの長い年月、この家の為に仕えてきた。
平民の出ながら頭が良く、当時の当主の援助でホーエンハイム領の大学部まで卒業した。
そして、その際取得した『側仕え』と『教師』の資格と、修めた『経営学』の知識を、この家の為に役立ててきた。
彼女は現当主が子供の頃に家庭教師を務め、大人になってからは執務の補佐までもこなした。
当主の子供達が産まれた後は、長兄の筆頭側仕え兼、家庭教師となった。
兄が異母姉達と共に学校の宿舎へと移った為に、お役御免となる。
次いで、当時まだ4歳だった少女の家庭教師へと任じられた時、彼女とその弟の異常さを目の当たりにした。
少女が魔力の検知器に触れた時、周囲から聴こえた声は驚きと落胆の声。
少女には魔力が無かった。
正確には、『僅か』に在る。
検知器に点る光の弱さ。
平民よりも少ない魔力の発露。
弟が魔力の検知器に触れた時、周囲から聴こえた声は驚きと叫び声。
弟には膨大な魔力があった。
3歳で検知器を爆発させた。
この二人の姉弟には、誰も『魔術』を教える事は出来なかった。
前任の家庭教師はさじを投げた。
片方は無意味で片方は危険。
そもそも相性が悪く、姉が彼を警戒し、教師も二人を嫌っていた。
カーラが直接教えようと考えて少女達と面談し、仲良くなった。
彼女達に『魔術』を勉強したいかを尋ねた。
少女は一言、『必要ない。全て覚えた』と言った。
少女は、既に魔術式や魔法陣に関する膨大な知識を持っていた。
そして、それを教わった弟も、綿が水を吸い上げる様に覚えていった。
魔力を持たない姉が教えた魔力の制御方法で、弟は自分の溢れる魔力を完璧に制御した。
カーラが教える事の出来る『魔術』を、二人は既に超えていた。
少女は貴族に必要な知識を既に識っていた。
茶会での挨拶から礼儀作法、それに伴う言葉遣い。
複数種のダンスの足運びまでも、いつの間にか習得していた。
時折この図書館で、少女は弟とダンスの練習をした。
少女は数字にも強かった。
大学部の教授クラスの数学や経営学は、既に識っていた。
領内の各貴族家の名称・統治区域。
その所持兵力に馬の数、武器の種類と質。
特産品や毎年集める税金の額までを、資料として纏められた過去の帳簿を一読して覚えていた。
更に、帳簿の中の不審な数字を拾い上げて、危険だと判断した貴族の名を当主に報告した。
10日もしないうちに、その貴族家はこの国から消えていた。
少女は魔導具が好きだった。
高度で複雑な立体回路図面を高級紙に描き、それを領内にある大学部魔導学課へと匿名で送り付けた。
たまたま来校していた専門の教授が、それを採点した。
その教授からは、描いた者の正体を尋ねる手紙が何度も送られて来た。
一度は館に押し掛けられた事もあった。
ホーエンハイム辺境伯は、魔導具士として名が知れ渡った。本人のあずかり知らぬ所で。
カーラは少女と雑談する機会があった。
その時に、少女がその知識をどこで知ったのかを尋ねた。
少女は、『お姉ちゃん』と図書館の本が教えてくれると答えた。
少女に姉は居ない。
少なくとも現在、この家には。
異母姉は既に家を出ているし、そもそも少女とはほとんど接触が無い。
『お姉ちゃん』は空想の姉だと判断した。
カーラの良い所は、他者が色眼鏡で見るだろう空想の人を否定しなかった事。
なので、カーラは少女から信頼された。
しかし、少女が此処の本を一読するだけで暗記している事は事実。
少女の行動を間近で観察して、カーラは自分のやるべき教え方を決めた。
この少女を孤独にしない事。
この少女とは一定の距離を保って接する事。
少女にとって、圧倒的に足りない物を補う事。
カーラは一息吐き、虚空に向けて喋り続ける少女から目を離して、再び本の頁をめくった。
今、並行してジェシカの話も構想中。
そちらは『神代の魔導具士』ではなく、別枠のお話として投稿する予定です。
ブックマーク通知をしておいて貰えると、そちらの更新もお知らせ出来る…のかな?
仮題『ジェシカ=ルブラムの小さな野望』
近日中に投稿…出来るかなぁ…




