◆4-160 異空の漕ぎ手 クサントス
ヴァネッサ視点
『久しいのぉ、雪帽子。
…それとキサマは雷小僧か?
大きくなったのぅ…。見違えたぞ』
「お久しぶりで御座います。クサントス様」
「あの時…僕達を助けてくれた聖獣様…」
『二人とも無事に生き延びたのぅ…善き哉』
「全ては貴方様のご助力の御陰で御座います。
その節は……」
自分より上の身分を持つ生徒達や、帝国の王族とその側近達にすら雑な態度をとるクラウディアが、突然現れたクサントスと呼ばれる『何か』に対して恭しく接している。
クラウディアのクサントスに対する感謝の心情と、クサントスのクラウディアとデミトリクスに対する慈愛の心根が、二発する『音』を通して私に伝わって来た。
「こらこら、子供達より先に私に挨拶をせんか。我が友よ」
二人の会話にメンダクスが横入りした。
『ああ…まだ居たのか?キロン。もう帰って良いぞ?』
「クサントス…言い草!」
『ははは…冗談だ。友よ。
…しかし、また入れ物を変えたのか?
昨日の今日で、落ち着きの無い奴だな』
「長く入ると染まるのだから仕方無かろう…?
気を遣っているのだよ。私はヒトが好きなのでな」
「はっはっはっ…相変わらず奇特な奴だ。
善いぞ…善い善い…」
メンダクスとクサントスは、クラウディアを挟んで談笑しだした。
…現実味が無い…
さっきまでは女神様で、今は何?
メンダクスさんも人間じゃない。
マリアベルと同じなの?
中に二人…居るのを感じる。
メンダクスの流した血から酷く濃い魔素が溢れたと思ったら、それが撚り合わさって紐状に成り、空中へと伸びた。
彼がその紐を手綱の様に引っ張ると、クサントスと呼ばれる『何か』が突然現れた。
…その様に、私には視えた。
クサントスの声は私の鼓膜を通らず、直接眼球の裏側に届く。
対して、二人の声は鼓膜から入る。
頭の中を介して3人が会話している様で、混乱する。
周囲からも、彼等の会話に困惑する感情が聴こえてきた。
「黒い馬の…魔獣…?」
「メンダクス様と対等に話せる魔獣など居るのか?」
「聖獣クサントス様だ。
決して失礼の無い様に…」
「あの御方が伝説の…?」
背後から聞こえるざわめきが、それの形と立場を教えてくれる。
…馬…?…皆には馬に見えているの?
これが?…いえ、この御方が?
皆の見えている彼と、私の視えている『彼』とはまるで違う形らしかった。
皆の見る世界は物質の形。
私の視る世界は精神の形。
魔力の形は精神に依存している。
そして力ある者達は、特に異質な形を持っている。
これまでに私は、幾度も自分の眼を通して『力ある者』を視た。
ルティアンナに始まり、昨夜はマリアベル。
日を跨いだだけで、ガラティア様に、メンダクス、クサントス…。
私の直ぐ側に居るルティアンナ。
初めて彼女を視た時に『力ある者』の存在を知った。
彼女は、人の形を持つ『無限の蛇が這い出る底無しの沼』。
彼女を直接視ると鳥肌が立つ。
相対する時は、彼女の本体からは眼を逸らして末端だけを視るようにしている。
パエストゥムの村で遭ったレクトスとニグレド。
眩しくて美しい角を持つ一角獣と、猫に似た形の柔らかな球体。
彼等は『暖かな日差しの中の布団』。
思わず抱きしめたくなる。
マリアベルの中身は『溢れ出る粘体』。
ガラティア様は『荘厳な碑を抱く霊廟』
メンダクスは『透けて歪む人形』。
そんな彼等とクサントスは違う。
より、ルティアンナに近い感情。
そして、彼女とは違う恐怖の体現。
彼は『一寸先も視えない深い洞穴』。
空中に空いた深淵に視える。
気をしっかり持たないと、落ちてしまいそうになる程に濃い奈落。
私の魔術式が吸い込まれてしまう様な感覚に陥る。
…彼は普通の魔獣や聖獣じゃない。
クラウディアは彼の本質を知っているの?
デミトリクスは?
彼等にクサントスの本当の姿を知らせるべき?
そんな事を考えていたら、クサントスがこちらを視て笑った気がした。
私は反射的に眼を逸らし、俯いた。
◆
…面白い娘だ…実に…
雪帽子や雷小僧とはまた違う…
ヒトより我等に近しい娘か…実に…興味深い。
長生きはするものだ…
私の頭の中にクサントスの声が響いた。
驚いて思わず顔を上げた。
…ひっ…!
深淵の中に人の顔が浮かんでいた。
白髪白髭の好々爺がニコニコしながら私を見つめている。
身体は無く、黒い円の中に老人の顔だけが浮かんでいた。
…うん?キサマは雷小僧の縁者か?繋がっておる…
老人の目が私の眼を固定する。
…逸らせない…
…そう怖がるな。
とって食ったりはせんよ。
彼は優しく声を掛けてくる。
けれども本能が私の身体を震わせる。
…逃げてちゃダメ。
彼の本質を視定めないと…
私は意を決して口を開いた。
…貴方は何ですか?
クラウディアは何故貴方を呼んだの?
デミトリクスは貴方の本質を理解しているの?
彼は、面白いと言いながら口を開いた。
…怯えたかと思えば喧嘩腰。
猫を前にした鼠の様に愛いのぅ…
キサマは雷小僧の伴侶か?ヒトの成長は早いものだのぉ…
道理で、雷小僧が見違えた訳だ。
成る程、成る程…
私は気圧される心を奮い立たせ、彼を正面から見据えた。
…善い善い。
別に隠す事でも無し。
ワシはつまらぬ案内人。
異界を渡る舟の漕ぎ手。
ただ…それだけの存在。
私は本能的に理解した。
彼の背後にある穴。
それは通路なのだ。
この世では無い世界へと続く道。
…ほぅ…見えぬ者程、視えるのか。
善き娘だ、気に入った。
キサマを我が眷属にしてやろう。
…えっ?何?
考える前に彼が一声吠えた。
突然、私の眼の前に魔法陣が現れて強い光を放った。
我を喚ぶ法、授けよう。
雪帽子すら知らぬ禁呪故、決して他言無用。
遭いたければ喚ぶが善い。
…キロンには内緒でな…
◆
「……など…という事が御座いまして…」
『ほぅほぅ…成る程なぁ。
つい先日の如く感じるが…人の時間は早いものよ』
クサントスとクラウディアの会話で、私の意識が引き戻された。
彼等の会話は先程迄の続き。
時間は数瞬と経っていない様だった。
…夢?…じゃない…
頭の中に刻まれた魔法陣がハッキリと視える。
見たことの無い文字で装飾された円陣の意味が解る。
私がクサントスを視ると、彼は私の頭の中で微笑した。
…眷属…?私の意思は…?
「雑談を愉しむのも良いが、穴を維持し続けるのも疲れる。
そろそろ本題に移るとしよう」
メンダクスが会話を止めてクラウディアの背を押した。
「この雪帽子には望みがあるそうだ。
私に免じて聞いてやってくれ」
クラウディアの頭に手を置き、ポンポンと軽く叩く。
彼女は嫌がる素振りを微塵も見せず、静かに頷いた。
『望みは理解しておるよ。
雪帽子…キサマも数奇な運命に絡まっておるなぁ…。
平穏無事な生活を望めばヒトとして死ぬる運命を辿れるのに、わざわざ難所に挑むとはな。
ワシが助けた意味が無くなるではないか…』
クサントスは、溜息の様な黒い息を吐きながら愚痴をもらした。
『それに…キサマの望み、叶えられるか否かは別の話だ』
彼は、昔馴染みだろうと手心を加える気はないぞと、釘を刺した。
「それも承知の上で御座います。クサントス様。
どうか、私に新たな『試し』を…」
クラウディアは、真剣な面持ちでクサントスの瞳をじっと見つめた。
『ふむ…仕方無いのぅ…。
ただし一度だ。失敗したら終わりだ。
その時は、今迄通りキロンの庇護の下で一つしかない命を繋ぐが善い。
北の魔導具も諦めろ…ガラティアには悪いがな』
クラウディアは、彼の言葉に黙って頷いた。
クサントス




