◆4-149 王女の私室にて
イルルカ視点
フワフワした様な、立っているのか寝ているのか判らない様な感覚の中、意識が少しずつ浮かび上がった。
張り付いた様に動かない、己の重い瞼。
ガンガンする頭。
まるで、耳の中で鉄鐸を振り回されている様に五月蝿い。
窓から射し込む朝日が、僕の瞼の僅かな隙間をこじ開けて忍び込み、目を刺激する。
光の刺激に目が痛み、自然と涙が溢れ出た。
あ!…朝日だ…まずい、早く起きないと…。
パン焼き竈の列が混んでしまう。
いつもならスッと頭が晴れるのに、何だろう?…何かおかしい…痛む。
いや…?ああ…そうだ、鍛冶水を用意しないと…。井戸に…綺麗な上澄みがあるうちに…
…違う…僕、今は学生だ。
そうだ…友達に危険が…助けないと…
…頭が痛い…。
「ううっ…く…イタ…」
「おはよう、イルルカ…大丈夫?」
声に反応して、僕は無理矢理目をこじ開けた。
鼻がくっつく程の位置に突然現れたデミトリクスの瞳が、僕の瞳を真っ直ぐに覗き込んでいた。
デミ…あれ?
デミに危険が迫っていたんだっけ?
何か違う…?
…この瞳の揺らぎ方は…彼が誰かを心配している時に行う『焦り』のリズム…。
誰を心配して?…僕か?僕に何が起きた?
少しずつ、混乱した自分の記憶を整理・統合していった。
…焦る…そうだ!
僕とヴァネッサは、他の子達と別のホテルに案内されていた…。
そこで…何か焦る様な事があった?
デミがこんなに心配そうな瞳をするのは、遠征時の時以来か?
心配…。
彼はいつも無表情。何を考えているか分からない…と、皆は言う。
でも、特定の感情に関しては、骨さえ掴めば判り易い。
付き合いは…まだ然程長くない。
だから彼の全てが解る訳では無い。
遠征授業を通して数日の間、彼と寝食を共にしたお陰かな?
結構解る様になった気がする。
彼は感情豊かだ。表に出ないだけ。
以前、クラウディアが言っていた通り。
「おはよう?デミ…。何故此処に…?」
痛む頭を抑えながら周囲を見渡した。
僕の居たホテルとは全然違った。
…何処だ…ここ?
僕は痺れの残る手で目をこすり、良く見える様に頭を持ち上げた。
目に飛び込んで来た内装は、豪奢の一言。
床には、艶のある毛足の揃えられた真っ赤な絨毯。
黒い蔦花模様で飾られた重厚な扉。
腰壁、長押、廻り縁…細部に至るまで、黒い蔦と小さな華の装飾。
絡み合う様子が細かく彫り込まれた見事な仕上げ。
それが真っ白な壁や天井に映えている。
重厚、且つ、精錬。
膨らむ白と、引き締める黒。
見事としか言いようの無い細工。
目の上端にチカチカする様な気がしたので、思わず見上げる。
天井材の中に散りばめられた小さな銀粒が、朝日を反射してキラキラと光輝いていた。
隅々に至るまで手の抜かれたところが無い。
金銀色を一切使用せずに、目立つのは床の赤と壁の白黒。
ただそれだけなのに、とても豪華で華美に思えた。
◆
「どこ…?ここ…?」
メディナ公爵の養子となり、与えられた自室よりも。
帝国の高級中央ホテルの部屋よりも。
今居るこの部屋が一番美しい。
案内され、僕が居たはずの無骨なホテルとは似ても似つかない。
僕は唖然として見回した。
焚かれている香料の優しい香りが鼻腔をくすぐる。
そのお陰か否かは分からないが、僕の頭痛はいつの間にか治まっていた。
「ここは、エリシュバ王女の私室の一つよ」
僕の質問に応えたのは、デミトリクスの声ではなく女性の声だった。
僕は、反射的に視線を向けた。
向かいの長椅子では、横になって寝息を立てているクラウディア。
彼女の頭を膝に乗せ、愛おしそうに撫でながら座すのはエレノア司教。
膝上で寝ている少女を見つめる彼女の眼差しは、貴族の家族間にすら無いものを感じる。
確か、ただの保護者と被保護者の関係だった筈なのに。
まるで自分達と同じ平民家族の様な光景だった。
「おうじょ…さまの…ししつ?」
寝起きは良い方なのに、まだ上手く思考が出来ない。
身体を起こそうとしても、関節が痛くて動けない。
「そのままで…。無理しないで下さいませ」
自分の足元の方から声が聞こえた。
◆
下座にある個人用肘掛け椅子には、赤紫色の髪に漆黒の瞳を持つ美しい女性が腰を掛けている。
同じ赤紫の髪色の男の子を膝に乗せて、エレノア司教がクラウディアにやるのと同じ様に、男の子の頭を愛おしそうに撫でていた。
「初めまして…よね?
わたくしは、王帝ベルンカルトルの娘、エリシュバ。
この子はファーディア第四王子」
「えりしゅば…?…エリシュバ…王女…様!?…に、第四王子…!…うっ!!」
驚いて起きようとして、身体の痛みで倒れ込んだ。
「ああ…起きずにそのまま…。
報告では、マリアベル=イメディングにやられたそうですね。
我が国の民が英雄様に対して大変な失礼を致しました」
王女はそう言うと、申し訳なさそうに頭を下げた。
…英雄…様?誰が?
横で聞いていたエレノア司教も、彼女に併せる様にゆっくり頭を下げて、口を開いた。
「エリシュバ様…今回は私の失敗です。
万一のリスクを分散させる為の隔離策になると考えた、私の責。
万が一が裏目に出てしまいました」
彼女は僕の横に視線を移す。
その視線につられて僕もそちらを見ると、隣の長椅子にヴァネッサが寝かされていた。
彼女はまだ目を覚ましていない。
さっきまで僕の頭の横に居たデミトリクスは、いつの間にかヴァネッサの傍に移動して彼女の顔を覗き込んでいた。
「あれは…夢ではなかったの…?」
僕の呟きに反応して、エレノア司教は小さく頷いた。
頭の靄が段々薄れてくる。
それと同時に、昨夜の出来事が鮮明に成ってきた。
最初に思い出したのは、破壊された天井から逆さまに覗く真っ黒な魔獣の顔。
自分の足を噛み千切った魔獣と姿が重なり、自然と身体が震える。
「その事も含めて、幾つか話し合わねばならない件が御座います…。けれど…
もし辛い様でしたら、詳しい事情は後程…」
エリシュバ王女が心配そうに僕を覗き込んだ。
「…いえ、大丈夫です。今、お願いします」
僕は、椅子の背もたれにしがみつきながら上体を起こした。
◆
身体中の関節は痛み、肺は熱を帯びた様に息苦しい。
本当は、もう一度目を閉じてしまいたくなる。
でも、今を逃すと友達との距離が更に拡がって、二度と追い付けない様な気がした。
「大丈夫…ですから…。教えて下さい」
僕の返事に真摯に向き合うかの様に、エレノア司教は真剣な顔になって、口を開いた。
彼女は感情を表に出さず淡々と、冷静に、且つ、客観的な報告を聞かせてくれた。
昏倒させられた後に何があったのか?
どうやって助かったのか?
また、自分達がこの数日で処理してきたものは何だったのか?
そしてそれは、今回の歓迎会の裏で帝国を混乱に陥れようとしていた何者かが設置した物だと言う事を。
ただ肝心な事は口にしない。
上手く躱しながら話している。
何故、反乱軍の設置した箱をヴァネッサが知っていたのか?
何故、帝国にとって部外者であるヴァネッサと僕が箱の処理を任せられたのか?
マリアベルとは何者か?
そして、クラウディアやデミトリクスがこの部屋に居る理由。
そこを口にしない。
…少し考えれば分かる。
考えない事が吉であると、敢えて言わない事で示唆している。
これはエレノア司教とエリシュバ王女からの警告と、僕に対する観察。
「やっぱり爆弾だったか…」
僕はキラキラ光る天井をボーっと見つめながら独り言ちた。
エリシュバ王女は静かに頷く。
「ええ…今迄に無いくらいに強力な。
貴方達の手によって処理されていなければ、大勢の人達が亡くなっていたでしょう」
「今回、貴方達の活躍を考慮して、それに見合う褒賞を与えたいと存じます。
我が大公家が叶えられる事でしたら、何でも構いません」
王女は指折り具体例を提示した。
市民権に加えて、帝国貴族の地位。
一生遊んで暮らせるだけの財産。
帝国内領地の一部割譲など。
帝国民なら喉から手が出る程に魅力的な提示。
続けて、エレノア司教も口を開く。
「正教国内での同じ条件でも構いません」
彼女は王女と同じ条件を提示した。
平民の身としては恐れ多い価値の引換券。
ただ僕は、正教国内では既に貴族身分を手に入れている。
なので代わりとして、実家の家族達が貴族身分を手に入れる条件が追加された。
メディナ家から独立し、一家で一緒に過ごせるという魅力的な引換券。
信じられない様な幸運…普通の人なら迷うこと無く飛び付く言葉。
「…僕の望む事は……」
だけど…僕の述べた希望は、彼女達の提示した条件の中には無いものだった。




