◆4-148 瓦礫の中の蛇
マリアベルが逃走した直後のお話
ハンナは、漆黒の闇の中を滑るように進み、建物の陰に消えて行くマリアベル達を見下ろしながら、軽く息を吐いた。
「さて…と、無事だと思うが…」
そう呟きながら、マリアベルを吹き飛ばすついでに開けた建物の穴から一歩踏み出し、空中に身を投げ出した。
ガゴン!!
大きな硬岩が地面に落下した時の様な音が、夜の街に響いた。
ハンナは、地上10数メートルの高さから階段を降りる様な気軽さで飛び降り、片膝をつくような格好で大通りの石畳の上に着地した。
その衝撃で道は凹み、石畳はハンマーで砕かれたかの様に粉々になった。
「しまった…壊しちまった…。
少し太ったかいねぇ…?
………あのお嬢ちゃんが全てやった事にしてしまおう…。うん」
周囲に聞こえない様に、小声で独り言ちた。
ハンナは立ち上がると、向かいの建物に出来た大穴に向けて声を掛けた。
「お~い、アンタ!大丈夫かぁ!?」
通りに彼女の声が響き渡った。
◆
リリンが突っ込んだ建物は、貴族御用達の陶磁器類を扱う大商店。
魔獣と一緒にお邪魔した際に穴を開けたのは、其処の2階の外壁。
大理石で出来た緻密な外壁装飾も、高級ガラスをふんだんに使用した外窓も、見事に粉砕。
崩落した瓦礫が、1階正面入口前階段や地階併設の馬車停留所等、広範囲に散乱していた。
砕けた巨大な石材が大通りの真ん中辺りまで散乱している現状が、突入時の衝撃の激しさを物語っている。
運が良いのか悪いのか、大穴が開いた階層はこの店の接待や商談、会議や事務に使う部屋ばかりが並ぶ階なので、閉店しているこの時間には誰も居ない。
建物の地階には住み込みの使用人や下男達は居るだろうが、1階より下の階は無事な様子。
酷いのは、2階と正面側の大通りだけだった。
◆
この街の多くの商店は7の鐘で閉まる。
居酒屋や違法営業の店を除けば、飲食店でも8の鐘。
既に8の鐘から大分過ぎ、ほとんどの店は閉まっていた。
付け加えて、この大通りは貴族や豪商しか使用しない。
道路に出て椅子と机を拡げ、夜中まで呑んで踊り騒ぐ様な輩は、この辺りでは皆無だった。
そのお陰で人的被害は無かった。
しかし、立て続けに大きな音が発生。
当然、野次馬も発生。
金属の擦れる音や、瓦礫の崩落する音を聞いた近隣の人々は、建物の窓に顔をくっつけながら、恐る恐る外を確認している。
そんな中、建物から飛び出し脇目も振らずに駆けていく人達。
恐らくは命じられて、治安維持の兵士を呼びに出たのだろう。
それ以外で外に居るのは命知らずな野次馬数頭。
そんな彼等でさえ、いつ再び崩落が起きて瓦礫が自分の方に飛んでくるか分からない状況を恐れている。
その巨大な瓦礫が散乱する中心に一人の女。
高所から飛び降りて道を凹ます、普通の女。
厚い雲がかかり、ガス燈しか無い夜の街は非常に暗く、少し離れれば顔も見えなかった。
当たり前だが、近くまで行けば彼女の顔は確認出来る。
しかし当然ながら、誰一人として近寄る者は居なかった。
「だいじぉっかぁ〜?」
大通りに、彼女の訛った大声が響き渡った。
命知らず達も彼女の大声に恐怖し、建物の陰で鼠の様に毛を逆立てていた。
◆
「出てこん…まずいか?」
暫くの静寂。
ガコン…石の剥がれる音。
突然、外壁の一部が落下した。
それは正面階段にぶつかり、力の方向を変えて大通りへと跳ねた。
大きな瓦礫はハンナに向けて、まっすぐに飛んで来た。
「ふん!」
飛んできた100キロを超える石の塊を、彼女は拳一つで叩き落とした。
響き渡る、石が石にぶつかり砕ける音。
叩き落とした彼女の拳には傷一つなく、叩き落とされた瓦礫は、石畳に衝突して双方が粉々に砕けた。
「しよがねぇ…見に行っか…」
ハンナは軽く屈伸をすると、いきなり駆け出した。
助走をつけながら巨大な瓦礫を踏み台にして、向かいの建物へと跳ぶ。
一歩目で1階正面入口の大階段の最上段を踏み込み、二歩目で2階の大穴に飛び込んだ。
◆
「ありゃ…これは酷いねぇ」
建物の2階は、崩れた壁や天井の石材が散乱していた。
当然、中は真っ暗だったが、闇に慣れているハンナの目には、現場の惨状がハッキリと見えた。
据付家具や高そうな大テーブル、特注の建具等、希少な調度品類は廃材と化していた。
内装壁も床木部も剥がれ、各種収納や高級だったであろう椅子も粉々。
帳簿類は散乱し、足の踏み場がない。
「おるか〜?何処だ〜?」
「…ここ〜…」
真っ暗な部屋の瓦礫の下から彼女の声が聞こえた。
「生きてるかい?」
片手で瓦礫を持ち上げると、彼女の顔が見えた。
ハンナは、手に持った瓦礫を建物の外に放り投げた。
「一応ね…」
ぐったりと横になったまま動かないリリン。
返す言葉も小声で不明瞭。
左の腕と左あばら複数箇所を骨折している様子。丁度、魔獣に不意打ちを受けた箇所。
魔獣の針金の様な真っ黒な毛が、彼女の鱗模様の肌に何本も突き刺さっている。
「やわこいな。鍛え方が足らんか?」
「私は貴女と違って普通の人間なの。
可憐で虚弱な美女なのよ。
無茶言わないで…」
「…元気そうじゃな…」
彼女の脚の上には天井から落ちた厚い石材が乗っている。
「アイツは?」
「…逃げた」
「逃がしたのね。相変わらず優しいことで…こほ…こほ…」
喋る口から血が垂れる。
肺か気管支にも損傷がある様子。
「アタシが頼まれたのは正教国の子供達の警護だよ。
子供と鬼ごっこして遊ぶ暇なんて無いんよ」
そう言いながらしゃがみ込み、彼女の脚の上に落ちていた石材を片手で拾い上げた。
「中央のホテルの警護?
ハンナさん…此処に居て大丈夫?」
「庭にはアゴラ達を放って警戒させているからねぇ…多分大丈夫やろが…。
姿も隠す様に言ってるし…見られなきゃ騒ぎにならんね」
お喋りしながら、手に持っていた石材を後に向けて軽く放り投げた。
石材は、空いた穴から外の闇へと消えて行く。
表の大通りから、ドゴンという鈍い音と共に誰かの悲鳴が聞こえた。
「…当たったんじゃない?」
「知らないね。
全部、あのお嬢ちゃんがやった事」
脚の上の重石が無くなり、リリンはゆっくりと立ち上がった。
「まだ寝てたら?」
「そういう訳にもいかないのよね…。
中佐という立場の者が人の家で勝手に寝泊まりすると、エレノア様と怖い王女様に怒られちゃうの」
ハンナは、ふらふらと立つリリンを見て軽く溜息をつく。
キョロキョロと周りを見渡し、壊れていない書類保管箱を見つけて手に取った。
「…?どうしたの?」
「アンタはゆっくり休んでな。
今、救援呼ぶから」
ハンナは、保管箱から書類を全部抜き取ると、再び箱を閉めてブツブツと呟いた。
箱がガタガタと揺れたかと思うと、突然蓋が開き、中から黒猫が飛び出した。
「んにゃー!
また仕事か!?
猫使いが荒い!!」
「まぁまぁ…後でクラウディアを貸してあげるから。
この場所に救護を呼んでくれ。
重傷の死にかけ?が一人だ。至急な」
「ニャ…?
ギャー!ヘビー!ヘビニャー!」
黒猫は、血だらけのリリンを見て飛び上がって逃げ出そうとした。
ハンナはその首根っこを素早く掴み、持ち上げた。
「早く救護を呼ばないと、セルペンス姉妹の餌にするよ?」
「ひー!悪名高いセルペンス姉妹!?
行くから!呼ぶから!食べないで!
ボクは美味しくないよー!」
そう叫ぶと、ニグレドは霞の様になって消えた。
「…何?今の…。消えた…?」
リリンは力が抜けた様に、その場に座り込んだ。
「…黒の森の魔…聖獣?…らしいね。
抜けた子だけど、物探しや人探し、連絡要員としては便利だよ。
ヴァネッサを監視していて、彼女の危機を教えてくれたのも、あの子」
「なんだ…私が頑張らなくても大丈夫だったんだ…」
「そんな事はないさ。
アンタがアレを押さえ込んでくれていなかったら、流石に間に合わなかったよ」
そう言って、ハンナはニコリとしながらリリンの頭を優しく撫でた。
リリンはくすぐったそうにしながら目を細め、頭を振った。
「それに…」
急にハンナの瞳が暗く深く沈み込んだ。
「ようやく…掴んだよ」
彼女の声音は静かに落ち込み、感情を無くす。
「この巡り合わせに…感謝を…」
彼女は笑う様な、しかし泣く様にも見える表情で小さく呟いた。




