◆4-144 何処にでもいる平凡な女
マリアベル視点
「手伝おうか?」
声のした方を向くと、知らない女がすぐ横に立っていた。
見た目は、とうの立った平凡な女性。
そんな女に、これ程まで近付かれていて気付かなかった事に戦慄した。
マリアベルは反射的に粘性魔素を自身の周囲に展開し、鞭を振るう動作に入る。
しかし、彼女が手を振るよりも先に粘性魔素が爆ぜた。
経験したことの無いような強烈な衝撃を受け、気が付くと錐揉み状態で空中を飛んでいた。
粉々になった棚や文机、散乱した瓦礫が眼下を通り過ぎ、物凄い速さで遠のいて行くのを見て、考えるより早く身体が動いた。
マリアベルは、瞬時に粘性魔素を再展開し、身体を丸めて衝撃に備えた。
「ぐっ……!」
粘性魔素が緩衝材となり壁に激突する時の威力を軽減したが、急な加速と制動は、鍛えていない彼女の身体を強く痛めた。
リリンの本気の連撃でも動かせなかったマリアベル。
それを、たったの一撃で壁際まで殴り飛ばした謎の女性。
「手加減が難しいね…
つい、力を入れ過ぎちまった…。
防いでくれて助かったよ。
流石に、子供の残骸だけは見たくないんでね」
再度、彼女の姿を確認する。
20代後半位の何処にでも居そうな平民の女性が、さっきまで自分が居た場所に立っていた。
その様子はとても自然体。
たまたま、買い物の途中で気になる人に会ったから声を掛けただけ…そんな、警戒も何も無い自然な接触。
日焼けのせいか、元からか、明るく抜ける様な赤茶髪。
髪の毛は自然に巻き上がり、手入れ不足のせいで、雑に縮れてボサボサ。まるで絡み合う針金の様。
日焼けした頬と鼻の頭には皮の剥けた跡があった。
彼女のあばたや日焼け染みの量が、彼女の人生における外仕事の割合を教えてくれる。
平民然とした彼女は、この場が農村ならば誰も気にしないし、恐らくは居た事にすら気付かない。
農作業でも始めるかの様なツナギが非常に似合う反面、この建物との違和感は酷い。
そんな場違い女が、街区外れとは言え高級宿泊施設の高位貴族用の部屋に、突然現れた。
そんな極普通な女性の、極普通ではない行為に、流石のマリアベルも混乱した。
「貴女は…いったい…?誰?」
マリアベルは、混乱した中でも正確な判断を下す為に情報を集めようとした。
「アタシ?
アタシはしなびた村に住む、今度お婆ちゃんになる予定の平凡な平民の女さ」
「???」
暗号か隠喩?それとも混乱の誘発?
言葉の訛りは正教国南方と南国近辺地域の物に近い。
都市部ではない農村の平民訛り。
だがそれも、教育程度によっては意図的に欺瞞を混ぜる事は可能。
わざとらしい話し方から、教育程度を意図的に隠している可能性が高い。
外見は年増を多少過ぎた程度に見える事から、孫云々は嘘くさい。
今判る情報はその程度。
それよりも、どうやって此処に入って来た?
入口を見ても瓦礫に埋まったまま。
万に一つ、リリンが戻って来る事を警戒して、窓は常に視界に入れていた。
「…どうやって此処に?」
「何故、空いてたかは知らないけどね。
この部屋、屋根に新しい入口が出来てたからね。
風通しは良いけれど、雨漏りは心配だねぇ」
彼女は腕組みしながら、開いた天井に視線を移した。
…やはりそうよね。
一見した所、ルディの魔獣みたいな奴は居ない。
本人の力のみで屋根に上がり、開口部から入って来た。
ならば先程の一撃は、何かしらの魔導具や兵器では無い。
彼女の異常な身体能力と身体強化から発せられた、ただの一撃。
ルディが魔獣にやらせた『突撃』に匹敵する威力を、この平凡に見える女が一人で出したと言う事実。
これは…まずいわね。
「此処はわたくしの部屋ですのよ?
平民がいきなり入って来て…一体なんの狼藉ですの?」
嘘をついて牽制してみる。
「おかしいね?
この部屋はヴァネッサの部屋だと聞いたけど?」
まぁ…当然、知ってたから来たのでしょうね。
次に彼女の顔以外を観察。
彼女の手を見ると、先程殴った時に粘性魔素に直接触れた様な跡がある。
直前に私が仕込んだ腐蝕性の毒に素手で触れたみたい。手の甲が赤くなっている。
高濃度の魔素は効かないが、毒は効くらしい。
ならば…『不可視の鞭』も効く筈。
密かに新たな毒瓶を割り、粘性魔素に馴染ませた。
「私が、私の部屋にヴァネッサ様を招待したのです。
誰ですか?そんな見え透いた嘘をつく人は?」
「アンタよりは遥かに信用出来る猫さね」
「…猫?」
会話の最中、マリアベルは手の動きを最小限にして、『不可視の鞭』を操作した。
足元から突如跳ね上がった鞭が、女の喉元目掛けて振るわれた。
「おっと…何か嫌な感じがしたぞっ…と」
軽口を叩きながら、女は上体を反らして鞭を躱し、手ではたき落とした。
叩かれただけなのに、鞭は千切れて霧散した。
「おっ?なんだかピリッときたね。
おー!?感覚が鈍い?
動かし辛いね。これは面白い。
これがアンタの『手』かな?」
一時的に痺れた様に動きが鈍ったが、それだけだった。
手を開閉したり肩を回して体調を確認しているうちに、動きは元に戻っていく。
…麻痺毒の効果は極小…か。
セルペンス中佐に対してよりは効いてるけど…誤差ね。
そもそも、見えてはいない様だけど…何故避けれるの?不可視なのよ?
セタンタといい、セルペンス中佐といい…この街は化物だらけ?
喉や横隔膜辺りに当たれば一時的な呼吸不全にはさせられそうだけど…感が鋭すぎる。
さて、残りの毒瓶はごく僅か…どうしようかしらね…?
女性は、倒れているヴァネッサとイルルカを見て眉根を寄せた。
「やっぱり此処はヴァネッサの部屋だよね?
そして…どうやらアンタ、アタシの可愛い妹達を虐める悪い子…だね?」
そう言いながらニコリと笑った。
…ヴァネッサの姉?
彼女に姉が居たのか?
そんな情報は入ってない。
「それとさぁ…さっきリリンと一緒に部屋から飛び出して行った狼…見覚えがあるのよね。
ちょっとお話しようか?お嬢ちゃん」
女のこめかみに、血管が浮き上がる。
爽やかな笑顔とは裏腹に、ドス黒い何かが彼女の背後に立ち昇るのを、マリアベルは感じ取った。
………!!
その直後マリアベルは、今迄感じた事の無い感覚を感じ取った。
脊髄を電気が一気に貫く感じ。
圧倒的な暴力が来る事を予感した。
…これが…恐怖?死の予感?
巨大な大砲が目の前で発射される直前の様な感覚。
経験した事など無いのに、そう連想した。
身体は強張り、緊張で手足の筋肉が固くなる。
…そうか…これが恐怖か…ふふ…
マリアベルは歓喜していた。
歓喜と恐怖。
今晩だけで、人生で初めての感情を複数経験出来た。
知識ではなく、表情筋・心拍・体温・発汗等、複数の情報を纏めて受けて、真に理解出来た気がした。
その感情とは裏腹に、常に冷静な頭の中では、既に次の対応に移っていた。
咄嗟に両手を前に突き出し、粘性魔素を前方に集中させて粘度を上げた。
残った魔獣の黒毛を盾状にして何枚も重ねた。
ドゴンッ!
それは拳撃の音では無かった。
落下する巨岩が別の岩に衝突する様な、鈍くて重い音。
一瞬、どうなったのかが判らなかった。
浮遊感と目に入る光景に気付くまで、しばしの間があった。
目の前に拡がるのは雲。
濁った薄黒い雲が空を覆っている。
…此処は外?
目の前に空が見えるという事は、姿勢は仰向け。
そして、この浮遊感。
私…落ちている…?
…痛っ…!?
落ちている最中、自分の両手を見た。
皮膚が裂けて血が出ていた。
何箇所か骨折しているらしく、酷く痛む。
無意識に前へと出していた右腕の方が傷が酷い。
…私の全防御を貫くか。
ほんの僅かな浮遊感の後に、急激な制動と和らげきれない衝撃が背中に走り、肺の中の空気が吐き出される。
「かはっ…」
纏っていた背後の粘性魔素越しに、地面の硬さを感じた。
見上げると、空いた壁の穴からこちらを見下ろす女の姿。
追撃に来る事を予測して身構えると、横から来た何かによる体当たりで景色が振れた。
一瞬で、先程まで居た宿泊施設が遠く離れていく。
「魔獣を呼んだ。此処は引くわよ」
ルディクラが冷静に声を掛ける。
途中でクララベルを拾い上げると、魔獣は速度を落とさずに疾駆した。
道のガス燈と街壁上に立てられた魔導灯の照らす光が、厚い雲に覆われた街の中に僅かな道標を知らせてくれた。
ルディクラはそれを見て、予定していた逃走経路へ向かう様に魔獣を操作。
光を避けながら、浮浪者と孤児と死体が静かに眠る暗がりを駆け抜けた。
魔獣は、風の様に暗がりを駆け抜けて建物の屋根に跳び乗ると、一足飛びで街を囲む高い壁を飛び越えた。
自分達の頭上を、音も無く通り抜ける黒毛の魔獣を、立哨中の兵士の誰も気が付かなかった。
「…この街は化物だらけね」
「はは…お姉ちゃんにそう言わせるなんてね。
帝国も…まだまだ捨てた物でも無いのかもね…」
「ルディ…後は任せたわ。
流石に疲れた…」
「…寝てなさい。朝には着くわ…」
姉妹は、魔獣の背中の黒毛を布団代わりに、抱き合って横になった。
マリアベルは、身体の操作権をルディクラに渡す。
ルディクラは横になったまま、魔獣を自動操作にした後、自分も目を閉じた。
彼女達の背後へと、遠く離れて行く帝国の街。
それは、今晩も何事も無く平穏な1日だったと呟くかの様に、静かに大きく、始めと変わらぬ姿で佇んで居た。
…第四部…予定していたよりもかなり長くなった…(-_-;)
主人公の活躍が一番大人しかった様な気がする…




