◆4-133 彼女の能力と愚痴
アデリン視点
強い風が頬を打ち、私のドレスと髪をなびかせる。
街の方からは、路上で馬鹿騒ぎする呑んだくれ達の喧騒が、風に乗って耳に運ばれて来た。
その風に水の匂いが混じり、遥か遠くから雷鳴に似た音が響きわたる。
雨が近付いて来る事を予感させた。
…雨はまずいわ。
私の波形魔術式の威力が落ちる。
降り出す前に片をつけないと…
私はテーブルに手をつきながら、二人の居る方に顔を向けた。
彼等はテラスの入口付近から動かず、私を凝視していた。
お互いに、視線を動かさず微動だにしない。
…何故追撃に来ない?
ナイフがズレた事を気にしている?
それとも、筋肉馬鹿の時に思わず見せてしまった私の『恐慌』を警戒しているのか?
…もしそうなら、奴等が取る手段は飛び道具か、それとも…
◆◆◆
私の左手後方には、中庭へと続く細い階段が、緩やかなカーブを描きながら延びている。
廊下や控室から漏れ出る光が階段まで届いて、踏み面を僅かに照らし出してくれている。
しかし階段自体に灯りは無く、光の届かない下の方は真の闇。
とはいえ、崩れ落ちている訳でもない。
泥や葉のせいで足は取られるだろうが、恐らく、駆け下りるのには問題無い。
対して、右手直ぐ側は腰丈高の手摺。
中庭までは結構な高さだが、身体強化をすれば飛び降りる事の出来る程度の高さ。
しかし、固化治療が完了する前に飛び降りれば、体内の刃物が動いて内臓が切り裂かれる。
そうなると、逃げるどころではなくなってしまう。
固化治療と同時進行で、細菌・毒の耐性向上に自己免疫強化も行っているので、今はまだ、激しい動きは控えたい。
チェルターメン達とは違い意識は一つなので、術式の同時使用が難しい。
…私に麻痺毒は効かない。…けど、もし溶血毒を使われていたら厄介。
血流操作…腎・肝の機能向上…
傷口周辺は血の巡りを緩やかに…異物除去に注力。
同時に内臓炎症にも気を付けて…
交換神経・副交感神経を意図的に操作。
治療に必要な酵素・基質を活性化。
血管の拡張と収縮を、望む箇所に。
私にとって、体内操作は難しくない。
薬無しで殆どの治療が出来る。
「うっ…」
神経に魔術式を流した時に、いつもと違う痺れと痛みを感じ、思わず呻いた。
…何か違和感が…
魔術式を操作し、脳内麻薬を分泌。
痛覚を調整。伝達を鈍化。
痛みがほぼ消えた事は相手に知られない様に気を付ける。
その為に自律神経を操作して発汗を誘発。
演技と併せて苦しそうに見せ、まだ動けないと思わせる。
固化はまだ不十分。
行動開始には、まだ少し時間が欲しい。
猶予を稼ぎつつ情報収集を…。
◆
行動の前に、幾つか知らねばならない事がある。
その一つが、目の前のコイツ。
…私を欺いたコイツは何だ?
最低限の事を知らねば、警戒のしようもない。
常時伝達解放状態を維持。
受け取ってくれると良いけれど。
私は次へ繋げる事を考えながら、口を開いた。
「…どうやって…レータに?
貴女…今もレータにしか、見えない…」
ダメ元で聞いてみる。
返答は期待しない。
いつでも私を殺せる様に思わせ、油断を誘う。
「…ふぅ…」
リヘザレータの姿をした者は、口を開くのも億劫そうに溜息を吐いた。
そして、空を見上げてから再び溜息を吐き、私に視線を戻した後、徐ろに口を開いた。
「…脳をいじくり…洗脳する魔術…ある…。
なら…当然、…誤認させるのも…ある」
期待してなかった返答を受けた事と、その内容に驚いた。
誤認…?私が?
今も誤認させられていると言うの?
私は、深く息を吸った。
他者の脳潜入を解く為に、自分の脳に魔力を強く叩き込む。
『傀儡化』や『隷属』を外す為に行われる、一般的な方法。
格上の魔力でやられると昏倒するそうだが、自分の魔力ならば大丈夫…な筈。
やった事は無い。
潜入された事が無いから。
…ふっ!
吐き出すと同時に、己の魔力を自分の脳にぶつける。
一瞬強烈な目眩と吐気を感じたが、視界に変化は無かった。
解けない…。微かな揺らぎも無い。
つまり、脳干渉は嘘。
…なら、各感覚器官への干渉?
左手に触れている金属製の机は、夜風と湿気で酷く冷たく感じる。
表面に張り付き腐った葉が、ぬるりと滑って気持ち悪い。
風に吹き上げられた髪の毛が頬を叩き、私の意識を引き起こす。
…触覚に違和感は…ある様には感じない。
なら、視覚?聴覚?嗅覚?
私の神経は、今も弄られているの?
周囲の環境に意識を向ける。
強い風に押された枝が、バシバシと互いにぶつかり弾ける音。
ガサガサと激しく揺さぶられる葉の動き。
吹き上げられた小石が屋根の瓦にぶつかり、カーン…と鳴る高い音。
鼻腔をくすぐる水の香は、空気に含まれる湿気か、噴水の溜まり水か。
遠くから響く雷鳴と、微かに聴こえる雨の音。
視覚・聴覚・嗅覚にほんの僅かな違和感がある様に感じるのだが、ハッキリとは判らない。
つまり…注意しても、僅かな違和感しか感じない。
これが、どの位異常な事か。
私は身震いした。
…私の脳に届くコイツの情報だけが、『常に』書き換えられている…
各感覚器官から脳に繋がる神経は膨大。
それらを選別し、違和感無い様に信号を入れ替えている。
本当にそうなら…化け物…。
違和感を感じると言う事は…そうなのね…。
それは、脳の海馬を書き換えるより難しい技術。
私は、目の前の小さな少女に擬態した『何か』に強く恐怖した。
◆◆◆
脳に血流を集めて思考を加速させる。
何時から入れ替わっていた?
感の鋭いルディなら気付けた?
いえ…ルディは普段のレータを知らない…
私が気付くしか無かった…
私の失敗だ…
誤認させる能力は凄い。
でも、逆に言えばそれだけ。
透明に成れるわけでも無い。
もしそうなら、此処まで来る前に、私は既に殺されている。
…恐らく、彼女は自分の能力に魔力の殆どを使用している…!
つまり、ただ他人に化けるだけの能力。
ナイフでの直接攻撃がその理由。
今迄、誰に化けていた?
王女か司教の侍女?
あの無愛想な医者の助手?
最初からリヘザレータ自身に化けて、昏倒した振りを…?
直接肌に振れていたのに…気付けなかった…?
治療室に運ばれたのは誰?
判らない…
オマリーは知っていたの?
いや…彼が気付いていたなら、声の振動から嘘は判る。彼は判り易い。
彼も知らなかったと思われる。
知っていたなら、攻撃の手を止める訳が無い。
だから…私は疑いもしなかった。
私を攻撃した手段…
その後に近付いても来ない…
そして魔道銃も取り出さない…。
私とオマリーの戦闘を見ていたのかしら?
控室には多くの侍女が居た…。
その中に紛れ、私達の戦闘を見ていた可能性もある。
私がレータを呼んだ時の魔力波長を受け、私が何をするかを理解し、すぐに部屋を抜け出す。
そして、レータの魔力波長を再現し、彼女に成り代わって部屋に戻った…という事も想定しないと。
…何処まで知っていて、何を知らないのか…判断のしようが無い。
未だに振りほどけない能力の強さから、彼女は私に匹敵する波形魔術式の使い手だと判る。
私が脳の前頭前野や海馬に影響を与える熟達者なのに対して、彼女は感覚器官や神経系統に影響を与える熟達者。
近しくて遠い能力。
理解して、意識して、初めて解る。
視神経や聴覚神経に、痺れる細い棒で触れられている様な僅かな違和感。
力が強く、介入波長も捕らえられないので、干渉を強制解除出来ない。
…とても…気持ち悪い…。
吐気がするのに吐けない様な…。
一番の問題は、彼女の能力は私に届いているのに、私の能力が彼女に届かない理由。
…二人が言っていた、『近付くな』『容量』『壊れる』という言葉。
それが何か分からないと…。
僅かな時間の中、激しく思考を巡らせた。
◆
「本当…は…」
暫く黙っていた彼女は、突然口を開いた。
「私……護衛…だったの…に…」
相変わらずボソボソと喋り、言葉は遅い。
…好都合だわ。時間をかけて頂戴。
傷と刃の固定が出来るまで。
意識を階段に向ける。
中途半端な治療でも、走って降りる事が出来る。
…懸念材料が一つ…というか確信…。
単なる援軍としての待ち伏せなら、私の波形魔術式をぶつけて昏倒させられるのだけれどね。
傷に響くけれど、手摺から飛び降りる方が逃走確率は高い。
問題は、この風。
突風で着地位置がズレると、身体強化しても危険。
私にクララベルの様な反射神経は無い。
もう少し…凪になってくれないかしら…
「彼女が…私は…要らないっ…て…。
エースは…もう…あるから……
アンタ…は…別の仕事しろ…って…」
意味のわからない彼女の愚痴。
クスン…と鼻を鳴らし、わざとらしい泣き真似をする。
レータの姿なのに、可愛気が微塵も感じられない。
むしろ、恐怖が湧き上がってくる。
私はふらつく足取りで僅かに動き、手摺に手を伸ばす。
警戒されない様に気を付けながら。
「…だから…コピ…ディタスに…付いて…いろ…って…」
彼女が一人で喋っている間に、手摺越しに中庭を確認する。
踊り場から、小さな丘になっている場所まで7〜8メートルくらいの高さ。
あそこ目掛けて飛び降りるか…。
上手く芝に着地できれば…多分無傷でいける。
飛んでいる間は強化に魔力を割り振るので、電磁膜防御も『恐慌』での反撃も出来ない。
魔道銃や投擲物を防げなくなる。
クララやセタンタの様な化け物なら、問題なかったのだけれどねぇ…。
…どのみち、最低限の固化治療が終わらないと飛び降りれないけど。
私は、腰から出ている刃物の柄を握りながら、治癒魔術を急いだ。




