◆4-104 晩餐会直前 西門 影の行方
兵長視点
凄まじいスピードで橋上を疾走て来る影。
周囲は既に暗くなっていたので、発見出来た事自体が奇跡だった。
警護兵長達がグラドゥス騎士団を警戒して、常に注視していたからこそ気が付けた。
一呼吸するたびに近付くその速さは、馬を遥かに凌駕していた。
「橋を落とせー!!」
兵長の怒号は、凪いだ川面に波紋を起こすかの様な勢いで響き渡った。
ガーン!ガーン!ガーン!
命令とほぼ同時、滑車の設置してある橋脚足場に待機していた部下達が、一斉に全ての留め金を外し、巻き上げ滑車の固定具をハンマーで叩いた。
橋桁同士の固定具も、滑車の制動装置も、日が暮れ始めた時には既に外してある。
固定具が弾け跳んだ滑車は凄まじい勢いで回転しだした。
鎖の張力だけで支えられていた巨大な橋桁は橋脚から滑り落ち、川面に勢い良く叩き付けられた。
巨大な橋桁が水に衝突する音が空気を震わせ、西門に居た兵士達の肌を粟立たせた。
衝突の反動で立ち上がった巨大な水柱が、大量の水飛沫を撒き散らす。
その様子は西門からもハッキリと確認出来た。
橋中央の巨大な橋桁二枚が落ちた。
中央付近、二十メートル以上にわたって、橋を渡る為の『床』が無くなった。
残ったのは、二枚の橋桁を中央で支えていた滑車設備のある中央橋脚のみ。
残った橋桁の端から中央橋脚へは、何も無い空間が十数メートル。
それが、中央橋脚を挟んで二つ。
人間には、例え身体強化をしても届かない距離。
勿論、馬でも無理。
万が一、硬いコンクリート製の中央橋脚にぶつかれば、良くて骨折からの落下。
そして、この橋の上から川面に叩き付けられれば、ほとんどの生き物は生きていられない。
橋上から川の水面までは、それくらいの距離がある。
「誰かは分からんが、これで止まる」
警護兵長は双眼鏡を覗き込んだ。
既に、辺りはかなり暗くなっていた。
周囲の様子は、ほとんど見えない。
しかし、目を凝らすとかろうじてだが、黒い影が見えた。
それが未だ、橋の上を滑るように移動している事が確認出来た。
「な…に!?
まさか…暗くて、橋が落ちた事に気付いていないのか!?」
黒い影は速度を落とさず動き続けた。
その影の行く先には、川面まで続く穴が待ち構えていた。
「兵長、そもそもアレは橋を渡る為の正当な手続きを取っておりません。
例え、落ちて亡くなったとしても、我々の落ち度ではありません」
副長は淡々と話しながら、時刻と影の様子と状況を木板に書き込んでいた。
「むしろ、アレがグラドゥス騎士団ならば、落ちてくれれば助かります。
…部下達の命と私の心胆が」
黒い影は止まらなかった。
とうとう橋桁が落ちた辺りまで辿り着いた。
『落ちる!』…と思ったその瞬間…
「「なっ!?」」
二人同時に声が漏れた。
黒い影が跳んだ。
飛んだという方が近い表現。
ソレは速度を落とさずに、不自然に空を駆けている。
結果、二十数メートルもの距離を、中央橋脚に一旦足をかける事も無く、一足飛びに渡りきった。
グラドゥス騎士団の為に用意していた罠を、苦も無く、文字通りに越えられてしまった。
「第一種警戒態勢!!」
兵長が大声で叫び、副長が同じ言葉を繰り返した。
それを聴いた警護兵達が街壁内と街壁外に向けて、大声で伝達した。
ズドーン!!
暫くすると、西門の外側の落とし格子が叩きつけられる様に一気に落ち、地面を震わせた。
まだ8の鐘も鳴っていなかったが、大勢の警護兵が控室から飛び出して来た。
兵士総出で内外両側の大門を閉じ始めた。
通常時の倍以上の速さで閉門作業は完了し、閂も大型の器械錠も掛けられた。
内外二枚の落とし格子と二枚の鋼補強扉により、大砲でも撃ち抜けない壁が出現した。
「何とか間に合いました。
閉じた様子を見れば、流石にアレも止まるでしょう」
副長が影の動きを確認しながら、兵長に話し掛けた。
「いや…そう簡単には済まなそうだ…」
副長の言を、兵長がすぐに否定した。
その影が止まる気配は無かった。
太陽は地平に沈みきり、大きな夜の帳が首都を覆う。
影はそれに紛れる様に、夜の陰に沈み込みながら疾走った。
夜の黒の中に、漆黒の『恐怖』が混じっている。
警護兵達全員、その事を視覚以外の感覚で理解していた。
その恐怖の元が、止まらずに橋を渡り切った。
それが自分達の眼下まで来た時、警護兵長を含めた全員の全身が粟立った。
誰も、一声も発さなかった。
副長は、持っていた石筆と木板を取り落とした。
それらの石畳にぶつかる音が、静寂の中に響き渡った。
なんだ…アレは…?
…アレは防げない…逃げられない…
グラドゥス騎士団なんて生易しいモノでは無い…!
確信的な恐怖で身体が強張った時、その影は、自分達の足元、西大門の落とし格子の直前でピタリと止まった。
恐怖で動けなかったのは兵長達だけではない。
胸壁の隙間から敵を狙っていた警護兵達も、細かく震えながら荒い呼吸を繰り返していた。
手が震え、つがえた矢を取り落としている事にも気が付いていない。
皆、下に見える影たちに恐怖していた。
…たち…だと?
一つの影ではなく、二つだ!
影が立ち止まった事で、相手の正確な個数を認識出来た。
影は二つあった。
そして、もう一つ。
陰に光る六つの視線が、兵長達を真っ直ぐに捕らえていた。
その眼光が彼等の心胆を寒からしめた。
彼等は、蛇に睨まれた蛙の如く、動けなかった。
その影たちは、暫く立ち止まって警護兵長達の様子を伺っていた。
しかし、西大門の開く様子が無い事を悟り、再び動き出した。
それらは、ぐるりと橋の方に迂回する様な動きを見せると、再び街壁に向かって突進し出した。
そして、壁にぶつかると思われた瞬間、ほぼ垂直な壁を駆け上って来た。
地上を駆けていた速さとほとんど変わらぬ速さで壁面を駆け登る影たち。
…は…速い!
眼前に迫る恐怖。
固まったまま動けない警護兵。
兵長は、強張った口で命令を出そうとしたが、喉が凍えて声にならなかった。
ただ、肺から空気が抜けていく。
まるで、魂が肉体を見捨て、自分だけ逃げるかの様だった。
ヒュー…ヒュ…
顎も声帯も動かず、迫る影達をただ見つめた。
…せめて最期に…可愛い娘の顔を見たかった…。
影たちが地面から胸壁に辿り着くまで、数秒と掛からなかった。
街壁を垂直に駆け上って来た影たちは、兵長と副長の鼻先を掠めながら跳んだ。
手が届く程の距離で見たのに、二人には、それが『二つの大きな影』にしか見えなかった。
影たちは、大門開閉用の動力器械が入っている器械棟の上に一旦着地すると、数瞬も立ち止まらずに、夜の闇中に向けて飛んだ。
それらは、胸壁に居た警護兵達を無視して街壁を越え、街中に消えて行った。
警護兵達は矢の無い弓を構えたまま視線だけでソレを追い掛け、何も出来ぬまま立ち竦んでいた
「………っは!いかん!!
すぐに街中の騎士達に報せろ!」
ふと我に返った兵長は、副長に命令を出そうと振り返る。
しかし、副長は倒れて気絶していた。
「おい!起きろ!すぐに警報を出せ!」
兵長は彼を揺するが、起きる気配が無い。
周囲を見渡すと、さっき迄恐怖で固まっていた警護兵達も皆、倒れていた。
「大丈夫…ここは安全ですよ。
ゆっくり休みなさい」
突然後ろから声を掛けられた。
兵長は、振り向くと同時に武器を抜き、攻撃に転じた。
だが、一瞬で視界が大きく回り、石畳に頬を擦り付けた。
気絶する迄の一瞬、兵長は見た。
そこに居たのは、漆黒の馬に跨った男女。
先程の影たちとは違う者達。
それの周囲には青黒い霧が垂れ込めていた。
「…いつ…の…ま…」
言葉を言い切る前に、兵長の意識は途切れた。




