鏡沼3
俺と息子は鏡沼から漏れ出す光から逃れる様に、影の濃い場所を渡り歩きながら、姿勢を低くして慎重に歩いた。
湖面の揺れは不規則な筈なのに、月や星の反射光は俺達の居た辺りを照らしている。
『奴』が俺達を捜し回っている。そんな確信があった。
こちらの視線に気付かれそうな予感がして、鏡沼の方向を見れない。
息子もそれは同じだったらしく、沼とは反対の闇の中をずっと凝視して居た。
幸い、滑り込んだ場所が丘の影になっている所だったので、影を伝って逃げ帰るのに問題は無い。
しかし、いつ『光』が丘のこちら側を覗き込んで来るかと、ひやひやしていた。
相手は『沼』なのだから、そんな事ができる筈無いと分かっていたのだが…。
『奴』に耳が無い事は何故か理解していた。
しかし俺達は、出来る限り足音を立てない様に、慎重に濃い影を選んで進んだ。
沼の水で濡れた服が重い。
水の滴る足音を聞かれないかと、ビクビクしていた。
息子には、狩りで使う手信号で『一切の音を出さない』様に指示をする。
自分の身体の影に息子の身体を隠しながら、ゆっくりと鏡沼から離れて行った。
◆◆◆
「はぁ…」
「もう…大丈夫?」
「ああ…湿地は抜けた。奴からは見えない筈だ」
俺と息子は草木の生い茂る深い森に戻って来た。
狼や熊が出没する森だが、鏡沼のある湿地より安全だと、今でははっきりと理解していた。
「兄貴の言う通りだな…初めて見たが、あれはいけないモノだ…」
「僕、何があったか覚えてないけど、背中の方から凄く怖い何かが這いずって来ている様な気がしたよ…」
緊張が解けた事で、俺達は少し饒舌になった。
今頃になって手足が震えだし、二人して地面に座り込んでしまった。
獣達に見つかるといけないので、木の洞を探して二人で隠れた。幸い、沼の水を被ったおかげで匂いは消えている。
震えが鎮まるまでの間、俺達は家の事や家で心配している母さんの事を話して、気を紛らわせた。
「おーい!ナタン!どこだ!?」
遠くから、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「おう!モーリス!ここだ!」
「モーリスおじちゃん!こっち!」
自分達の隠れている木の洞を、見慣れた剽軽な顔が覗き込む。
「良かった。無事だったか…」
「ああ、息子も無事だ。少し服が濡れたんでな。ここで乾かしてたんだ」
「濡れた…?川にでも落ちたか?」
「ううん!違うの、…んぐ」
俺は息子の口を咄嗟に抑えた。
「…どうしたって?」
「ああ、息子が足を滑らせて流されたのを必死に引き上げたんだ。
引き上げた川辺が粘土層だったんでな。転んで泥だらけになっちまった」
『鏡沼には近づくな』
兄貴に鏡沼に入った事がバレると面倒だと思い、つい、嘘をついた。
「そうか…大変だったな。しかし、二人共無事で何よりだ。
…二人だけで戻れるか?」
「ああ、服が乾いたらすぐに帰る」
「分かった。じゃぁ俺は捜索を手伝ってくれてる奴等に撤収の連絡してくるわ。
…あ!ついでに奥さんに風呂を沸かしておいてくれる様に話しとくな」
「すまねぇ。助かる」
モーリスは軽く手を振ると、風のように走り去って行った。
「…鏡沼の事はモーリスおじちゃんにも内緒なの?」
「ああ…。村の掟だからな。母さんにも内緒な。心配かけるからな」
「うん。わかった。二人だけの秘密だね」
そう言って、息子はニカッと笑った。
…ああ、この笑顔を失わなくて良かった…。
俺は息子を強く抱き締めた。
◆◆◆
「あの時は、大変だったよなぁ…。良く出来た息子だったから過信していたって事かねぇ?」
「そうだな…。慣れた裏庭が、突然息の出来ない沼の底になる。森とはそういうもんだ…。」
「ほぅほぅ…村長が口を酸っぱくして言っている鏡沼とかけて例えるか。良く似た兄弟だなぁ」
…良く似た兄弟か。
昔は、言われて嫌な気持ちになったもんだが、今は何にも感じないな。
鏡沼は怖い。決して近づくな。
兄貴が昔から煩く言っていたっけ。
若い頃はこの言葉にも反発して、沼を見つけてやる!って、モーリスと二人で森中を駆け回ったもんだったな。
まさか、歳とって初めて発見して、この歳になる迄感じた事の無い恐怖を味わうとはなぁ…。
ボーッと考えていたら、いつの間にか向かいの席を離れたモーリスは、皆の輪に加わって騒いで居た。
…相変わらず、チョロチョロと…。人の話を聞く気があるのか無いのか…。
俺は酒の椀を空にすると立ち上がり、兄貴に先に帰る事を告げて酒場を出た。
虫の声が響く夜の村を、一人で歩く。
太陽が沈んでも、月と星の灯りが眩しい。
以前は夜明けの光に安堵したものだった。
だが昨年の経験のせいか、今は闇の中を貫く眩し過ぎる光が怖くなった。
夜明けに射し込む太陽の光を見ると、鏡沼の光を思い出してしまう。反射的に木や建物の影に隠れてしまう様になった。
各家から蠟燭の薄暗い灯りが漏れている。
この位の明るさの灯火が丁度いい。
今では、この明るさに安堵する。
酒場に居る旦那の帰りを、文句を垂れながら待っているのかな?なんて事を考えながら、俺は村外れの我が家へと向かった。
「あなた、お帰りなさい」
「父ちゃん、お帰り」
家に着くと、妻と息子が起きて待っていた。
「まだ、起きていたのか?先に寝ていれば良かったのに」
「あなたこそ、こんなに早く帰って良かったの?モーリスさんが、あなたのお祝いだって言ってたわよ?」
「そうなのか?モーリスの奴、余計なことを」
「父ちゃん、大熊を倒したんだってね。凄いな。僕も狐ばかりじゃなくて、熊も狩れる様になりたいよ!」
「もう少し大きくなったらな。狩りを教えてやる。お前なら俺より凄い狩人になれるぞ!」
「やったー!」
俺は笑いながら、はしゃぐ息子の頭を撫でた。
◆◆◆
ドンドンドン…
まだ日も昇らない時間に、誰かが戸を叩く音で目が覚めた。
俺は眠い目を擦りながら、扉の閂を外した。
「ん…兄貴?どうした?」
「ああ、朝早くにスマンな。今日位はゆっくりさせてやりたかったが緊急事態だ。悪いが、すぐに追跡用の支度をして村の中央広場に来てくれ。当たり前だが武器を忘れるなよ」
「追跡の…?ああ分かった、すぐに行く」
それだけ言うと、兄貴は慌てて引き返して行った。
俺は、いつもの装備を用意して猟銃を背負った。
妻と息子はまだ寝ている様子だったので、俺は音を立てないように家を出た。
周囲はまだ暗い。
だが、後数刻しない内に夜が明けるのが感覚的に解る。
夜目に慣れている俺には、このくらいの時間は昼間より見やすいので問題は無い。
中央広場には、追跡の得意な猟師達が集められていた。
モーリスの奴も居たが、珍しく真剣な表情をしていた。
「こんな時間にスマン。実は、スランの奴が帰って来てないと家族から連絡があった…」
村長の話では、俺が帰った後の酒場で喧嘩があったそうだ。
この村には狩人頭という、村一番の腕利き猟師が成れる職がある。
単純に言えば村のエースだ。発言力は村長を凌ぐ。
昨夜の飲みの席で今の狩人頭が、歳で夜目も効かない、だからそろそろ引退したいと、話したらしい。
そこで、次の狩人頭を誰にするかとの話が出た。
この村には、狩人頭候補が二人居る。
俺と、スランという俺より若い猟師だ。
スランは、追跡の能力は俺に劣るが、頭が良く、罠を駆使して狩りをする事を得意としていた。
ただ、罠は『待ち』の狩りの為、獲物を獲る量が安定しない。
俺より多く獲る事もあるが、獲物の僅かな跡から追跡出来る俺みたいには安定して狩れない。
そこで、俺を推す連中とスランを推す連中が揉めたらしい。
…安定して獲物を間引けるのはナタンだ。お前等の罠猟法は獲物を無駄に獲り過ぎる。必要な時に必要な量が獲れる方が森にとっても良い。
…無駄に獲って何が悪い。罠で取れれば未熟な奴等も安全に狩りが出来るだろう。スランの罠猟法だと危険を避けられる。
お互いがお互いの猟法の方が良いと、言い争いになった。
問題は、俺が居なかった事で誰も彼等を止められなかった事。
その場に俺が居て話を止めれば、スランの奴も挑発に乗らなかったのだろう。
俺を過大評価している奴らが、スランに対して馬鹿な事を言ったらしい。
『ナタンの奴を超えたいなら、明け方迄に夜の森で獲物を仕留めて来てみせろ。夜の森で狩りも出来ない奴を、俺達は担ぐ気は無い』
スランは馬鹿馬鹿しいと言って帰ったのだが、夜中に目を覚ました家族から、「旦那は酒場で寝ているのか?」と確認に来た事で、彼が夜の森に狩りに行った事が判ったらしい。
…いくら夜目が効く猟師といえども、夜の森は獣と魔物の世界だ。
流石の俺でも躊躇する。
「だから、夜の狩りを得意とするお前等に来てもらった。
もうすぐ夜が明けるが、夜の森は僅かな時間で取り返しのつかない事になる可能性が高い。
夜が明けて死体を探すより、今すぐ生きた仲間を探したい」
そう言って、手分けしての捜索を依頼してきた。
「もし、跡を見つけたら笛を吹いて知らせろ」
そう言って号令を掛けると、複数人でチームを組んで、すぐに捜索を開始した。
俺には、昨日俺に声を掛けてきた奴と、モーリスの奴がついて来た。
お互いにハンドサインを決めてから、緊張しながら森に入った。




