壁の向こう側
家からちょっと離れたところに、二十四時間営業のダイエーがある。これがまあ、便利で。たまらない。特に優れていることはそのダイエーの近くにバスが走ってる事。で、私はそのバスの金額式IC定期を持っている。だからもう行きたい放題。帰りたい放題。乗りたい放題。
んで特にお気に入ってるプランは、最終便。終電っていうのかな。あ、バスは電じゃないか。最終便っていうのが正しいのかな。わからないけど。そのダイエーは住宅街の中にある。お高い、お高そうなションマンも周りにぼこぼこ聳えてる。だから15時くらいかな、15時くらいから20時くらいまでのバスには正直乗りたくない。ゴイスー混んでるから。
でも、さすがに終電、最終便のバスくらいになると空く。空いてくる。座れる。そんな訳で、最終便一本前のバスに乗ってダイエーに行って、最終便の折り返しのバスに乗って帰ってくれば、まあ快適だ。夜夜中になると、ダイエーさんも多少、値引き品を出してくるし。ローストビーフとかさ。揚げ物とか。半額になったりする。駅からちょっと遠いところにあるからなのか、駅前の西友程、そういうものを狙う人もいないみたいだし。人口密度的にはそんなに変わらないように思うんだけど、もしかしたらダイエーのまわりの方が、そういうのを狙わないような人間の位、段位、品位なのかもしれない。私の勝手な印象だけど。まあでも、何にしても私の様な小市民にはありがたい限りです。
で、ただ、時たま私自身にミスみたいな事が発生して、折り返しの最終便のバスに乗れない事がある。
「これとこれ、どっちにしよう」
とか、
「今日はハイボールにするか、それとも安い白ワインにするか」
とか、
「チーズはフィラデルフィアにするかキリクリームチーズにするか」
そういう事に熟考してしまう時がある。あらかじめ考えて買い物に行くときは大丈夫なんだけども、でもふらっとそういことをする時もあって、そういう時は大抵、悩み、懊悩に時間を苛まれて最終便のバスに乗れない。間に合わない。あと、ちょうどレジが混んでたりする時もあるから。
そういう時は家まで歩くことになる。バスで10分は歩いてどれくらい?人によって違うだろうけど、私は1時間かかる。まあ日頃から運動不足ではあるし、それもまあ、たまにはまあ、次は気をつけよう。なんて軽い気持ちで歩いて帰る。暑い時はしんどいけど、涼しくなってくるとそういうのも、たまにはいいなあなんて感じる。たまにはね。たまには。
そんなある時、バスに乗り遅れた時の事。
家までの道程、道にも色々あって、せっかくだからと毎回色々と道を変えて帰ってたんだけど、ある特定の道を通った場所に高い塀、壁で四方を囲った大きなお屋敷があった。壁の高さはどれくらいだろう。二メールとかあったのかなあ。私の身長よりは高かった。大きなお屋敷で、とても立派だった。小市民の私でも立派だとわかるくらいには立派だった。ぱーりーだった。
で、その日、その道を選択して帰ったのだけど、久々、久々だったかな、結構歩いている時は何も考えてないからそれで意識が無い時もあるからなあ。よく覚えていないけど、その道を通った時に見えるはずのその立派なお屋敷が無くなってしまっていた。一切合切。壁、塀だけは残っていたが、その向こうに聳えていたはずの大きくて立派なお屋敷は一切合切何もなくなってしまっていた。代わりにお屋敷があったはずの空間には、その向こう側に建っている電波塔か見えた。
「あらー、何かあったのか?」
塀の前に立ち止まり荷物を持った状態で、スマホを出して調べてみた。
「あ、火事?」
どうやら二週間ほど前に、彼の立派な建物から出火してお屋敷は全焼してしまったらしい。お住まいになっていた方も皆お亡くなりになってしまったそうで。
「あらー」
形あるものいつかは壊れるとは言ったもんだけども、それにしてもなあ。無情なもんですなあ。
「まあ、私は気をつけよう」
火事とか。こわ。
そんな風に思いながら、その壁、塀沿い帰り道を歩き始めた、歩きを再開した時だった。壁の向こう側から、
「ジジジ……ザザザ……ガサガサガサ……」
という音がした。ノイズの音だ。ラジオだろうか?ポータブルラジオみたいな。父親が病院に入院していた時、暇だからという父の要望でラジオを買って持って行ったんだけど、その病院は電波の入りが悪く、窓際に行かないとラジオが聞けなかった。ベッドで聞こうとしても、
「ジジジ……ザザザ……ガサガサガサ……」
と言って、聞けなかったんだよなあ。その音だ。その音が壁、塀の向こう側から聞こえてきた。
もう立派なお屋敷は火事で無くなってしまって、誰もいないはずの壁、塀の向こう側から、その音が聞こえてきた。
私は黙って何も言わずに帰り道を歩いた。壁沿い、塀沿いに歩いた。荷物を持って、
「ジジジ……ザザザ……ガサガサガサ……」
は、壁を、塀を隔てた状態ではあるが、付いてきた。私の歩く方向に。帰る方向に。
私は何も言わなかったし、一回も振り向かなかったし、壁、塀の上を見上げたりもしなかった。途中に一か所だけ、裏口の様に壁の中に木戸が付いてるところがあったけど、それのことだって見なかった。見るわけにはいかなかった。
だから、私は、ただ、黙って前を見て、歩いた。
「ジジジ……ザザザ……ガサガサガサ……」
は、私がその壁、塀沿いの道が終わるまで、壁、塀を隔てた状態だけど、付いてきていた。音だけが付いてきていた。
ざっざと、地面を歩くだけでも音はするものなのに。私は自分の足音は聞こえていた。
「ジジジ……ザザザ……ガサガサガサ……」
はただ、それだけが付いてきていた。他の音は一切しない。足音がその音に紛れてしまっているのかもしれないけど、でもそれだって深くは考えなかった。私はただ無心になって家に帰る道を歩いていた。
やがて、壁、塀から離れた時、一度だけ、振り向いてみようかなと、そういう誘惑のようなものが自分の中から沸き起こったけど、でも、結局振り返らなかった。振り返らなくてよかったと思う。
私がその壁、塀沿いの道を離れて、そのお屋敷が建っていた所から離れていくとき、一回だけ、
「ガサガサガサ……ザザザ……ジジジ、おい」
と呼ばれたような気がしたけど、でも振り返らなかった。今にも肩とか首とか後ろから急に掴まれるんじゃないかと、そんな想像をしておしっこが漏れそうになったけど、でも振り返らなかった。良かったと思う。