第一部 見知らぬ同居人(2)
1
始まりはいつだって不思議なことからだ。
身体中の痛みで俺は目を覚ました。
まず視界に入ったのはわりと清潔な床だ。いつの間に床で眠ったのだろうと思いながら俺は起き上がる。
違和感を抱きながらも周囲を見渡す。水色の壁紙、たった一つの椅子と机、無駄な物は一切ない。俺の家ではない。
そう、確か。俺は依頼を受けてこの家に来た。だから、ここは俺の事務所でも情報屋のアンヘルの部屋でもない。人が暮らしていると情報は入手しているが、この部屋を見る限り生活が感じられない。ダイニングにしては簡素すぎる。
小さなカウンターには幾つか置物があるだけで他は徹底的に整理整頓されている。
俺は床に座ったまま、何があったのか思い出すことにした。
十年と少し前、北区で天使降臨の儀式が執り行われた。
『天使』と言っても他者が思い浮かべるような美しく神々しい存在ではない。北区に降臨したのは、口にするのも忌まわしい宙からの来訪者である。
天からの使い、という事で天使と呼称している『それ』は、見るだけでなく光を浴びるだけでも人間にとって有害だった。
その光を浴びた者は一瞬にして正気を失った。
眼を見開き、涎を垂らし、鼻血を流し、腕や足を痙攣させ、顔中の筋肉を引きつらせ死んだ。生き延びた者は天使になろうとゾンビのように北区を徘徊し……。
北区に住む住人の大半がそのような状態に陥った。そのおかげで、今まで住んでいた場所は地獄へと変わった。
奇跡的に光を浴びずに生き延びた者は中央区に逃げ、ある者は不良者に、ある者は体を売り、ある者は天使と戦う『何でも屋』になった。
北区での天使降臨も地獄であったが、今この状況も俺にとって地獄だ。
「家賃! いつになったら払ってくれるんだ? なぁ、ファイド。お前はガキの頃から真面目だった。だから、今も真面目だと俺はそう信じてたんだぜ?!」
男の怒号と店の扉を叩く音が聞こえる。
店の中でぼんやりしていた俺はその音に驚いて椅子から転げそうになる。扉に近寄るのはやめてかわりに大きく息を吸う。
「仕事がこなきゃ金は作れねぇ。それに家賃は払ったはずだ! 金を借りた覚えがある!」
そう叫べば、扉は強く叩かれた。
「それが足りねぇっつってんだよ。なにが何でも屋の『DOGHOUSE』だ。働く場所は北区以外だと? そんなんでよく中央区にいられんな? やっぱりコネは強いなクソガキ!」
売り言葉に買い言葉とでもいえばいいのだろう。俺はついに店の扉を開けた。
そこに立っていたのは、情報屋・アンヘルの偽名(俺の地区、独特の風習である。その仕事にあった偽名を名乗るのが常識だ。なので職の数だけ偽名が持てる。)を持つ男だ。前はアクイラの偽名で北区の刑事をしていたが、今は職と信頼を失い見る影もない。
派手な赤いコートに無精髭、ボサボサの黒髪、手には酒の入ったビン。働き手だった男がすっかりアルコール中毒の中年になっているのは誰もが知っている。
集金に来た今とて奴の息からはアルコールの強い匂いが鼻を突く、それに風呂には何日入っていないのだろう、きつい体臭がより一層俺を不快にさせてくれる。
「お前、俺の金を酒に使ったのか?」
アンヘルの持つ空のビンが気になり指摘すれば奴はふんと鼻を鳴らす。
「使う訳ねぇだろ。それとこれとは話が別だ。お前さんはここが中央区の良い物件の二階建ての館ってのは知ってんだろ? 価格もそれなりに察してる筈だ。なのに三ヶ月たった今でもほぼ踏み倒し状態。どういう事だ?」
「だから、依頼がなければ金が入ってこないんだ」
俺の言葉にアンヘルはわざとらしく肩を竦める。
「待つのはうんざりでね。これ以上、一秒たりとも待てねぇ。俺はかわいそうなお前を追い出すつもりはねえ。二階の撤去で許してやる。二階に住人を入れるんだ」
「おい、待て。シェアハウスなんて聞いてないぞ」
「金を払わないのが悪い。契約は既に決まってんだ」
最低な条件、まるで詐欺だ。「仕事があれば払える」と、舌打ちして呟く俺にアンヘルは嬉しそうに反応を示す。
「そんなお前に朗報だ。仕事を持って来てやった。西区で幽霊騒ぎが起きてる。天使じゃねぇし、高級住宅街南区に近い場所からの依頼だ。金は期待していい」
「俺に幽霊退治させる気か?」
「踏み倒しの無職なクソガキにせっかく話を振ってやってんだぞ? ありがたく受注しろ」
「……。わかったよ。で、その家の主はどんな奴だ?」
「誰も見てない。元は富豪・南区の住人だったっていう噂はある。ごちゃごちゃ言ってねぇで、それを調べるんだよ。もし幽霊騒ぎが本当なら適当に依頼主を見つけて金をせびってくるからよ」
うさんくさい話だったが今の俺に断る力はない。