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一度きりのダービー

 美浦で開かれた原西騎手引退の緊急記者会見は、15分足らずで終了した。


 最近ではG1での騎乗も任されるようになってきていた期待の若手であったため、原西騎手が引退することの衝撃は大きかった。

 他方で記者会見が短く済んでしまったのは、原西騎手が引退の理由をハッキリと明かさなかったからである。騎手を辞めるだけでなく、競馬関係の仕事から一切身を引くということであったが、今後の進路については「未定」とのことであった。


 原西騎手は涙も笑顔もいずれも見せることなく、淡々と、まるで台本を読むかのように記者への質問に答えていた。



 柴村は記者席の最前に陣取っていたが、挙手して質問することはしなかった。


 柴村には、おそらくどの記者よりも原西騎手に対して聞きたいことがあったが、記者会見中に質問できるような内容ではなかったからだ。




 柴村は記者会見が終わる直前に会場を抜け出し、控え室の出口で原西騎手が出てくるのを待った。



「原西騎手、少しお時間よろしいですか?」


 記者会見を開催したにもかかわらず、その場で質問をせず、出待ちして声を掛けるというのは明らかなマナー違反である。



 しかし、原西騎手は嫌な顔一つせず、「いいですよ」と取材に応じた。



 おそらく、柴村から個別で話を聞かれることは予感していたのだと思う。




 2人は場所を原西選手の寮の部屋へと移した。これから話す内容は誰にも聞かれるわけにはいかなかったからだ。




 原西騎手の部屋は、彼らしく綺麗に整理整頓されていた。決して物が少ないわけではない。むしろポスターやぬいぐるみなどの競馬グッズがたくさんある。騎手というよりは競馬マニアの部屋に来たような印象であった。



 部屋の中央には丸机があり、柴村は、原西騎手が押入れから取り出した座布団に腰を下ろした。



「原西騎手、今までお疲れさまでした」


 柴村は、まずは対面に座った原西騎手の労をねぎらった。



「ありがとうございます。もう騎手ではありませんが」


「登録抹消はまだですから、『騎手』と呼ばせてもらいます」


「それもそうですね」


 まだ20代の原西騎手は顔にも声にもまだどこかあどけなさが残っている。騎手としてもまだまだ成長途上の原西騎手が、怪我をしたわけでもないのに引退をする理由など、普通に考えれば、どこにもない。



 だからこそ、柴村の頭の中で、ある「仮説」が生まれたのだ。それは「推理」と言えるほど決定的なものではない。それはいくつもの事実同士を結びつけることによって描くことができる一つの絵ではあるが、決して唯一の絵ではないのである。



 ゆえに、柴村は、探偵のように堂々と自分の考えを述べるわけにはいかない。



 これから柴村がしようとしている話にふさわしい舞台設定は、予め考えてあった。



「僕は競馬新聞社の記者ですが、いかんせん薄給なもので、たまにバイトをして食いつないでるんですよ」


「バイトですか?」


「ええ。週刊誌への寄稿のバイトです。文字数あたりの単価が新聞社なんかとは比べものにならないくらいに高いんですよ。怪しい高収入バイトってやつですね」


「そんな怪しい記事を書いてるんですか?」


「そうですね。週刊誌で需要があるのは、スキャンダルですから。もちろん、僕の専門は競馬なので、競馬関連のスキャンダルにはなりますが。大物ジョッキーの不倫だとか、八百長疑惑とか、ドロドロしたやつです」


「僕もそういう話は嫌いじゃないので、電車の中吊り広告で見て買うこともありますよ。もしかしたら、知らないうちに柴村さんの記事も読んでるかもしれないですね」


「それは恥ずかしい限りです。ところで、実は今回も競馬関連のスキャンダル記事を寄稿しようとしてるんですよ」


「へえ、そうなんですか」


「週刊誌の記事なので、眉唾ものの内容なんですけどね。とはいえ、後で名誉毀損で訴えられてるのは嫌なので、最低限の裏取りはしないといけないと思って」


「それで僕に裏取りのインタビューをしたいわけですか? 予め言っておきますけど、不倫も何も、結婚すらしてないですよ」


「色恋沙汰ではないです。もっと競馬に密接に関係したスキャンダルです。タイトル案は、そうですね…」


 柴村は間を置き、ゆっくりと西村騎手の表情を観察する。反応を伺うためである。



「『原西騎手と椋原騎手のダービー馬をめぐる薬物合戦』でしょうか」


 この悪意の込められたタイトル案を聞いても、予想外なことに原西騎手は顔色一つ変えなかった。

 

 驚くこともなければ、鼻で笑うこともなかった。


 ただ、無表情のまま、一言、


「どういう内容なんですか?」


と聞いてきただけだったのだ。



 柴村は、週刊誌の記事の内容と称し、自らの「仮説」を披露した。



「昨年4月のG1皐月賞。主戦の原西騎手の見事な騎乗によって、クレイメルタは9番人気の下馬評を覆して、3着に入賞。クレイメルタは成長著しく、5月の日本ダービーまでにはさらに完成されていた。調教の様子からも、ダービー馬最有力候補と目されていた。当然、ダービーでクレイメルタに騎乗する予定の騎手は、これまですべての鞍上を務めた原西騎手だった」


 ここまでは客観的な事実である。ここから先が、柴村の想像したストーリーとなる。



「しかし、原西騎手の同じ厩舎に所属する先輩ジョッキーである椋原騎手は、自分より先に原西騎手がダービー騎手になることが気に食わなかった。そこで、椋原騎手は、原西騎手がダービー当日に騎乗できなくなり、クレイメルタの鞍上が自分に回ってくるようにするために、ダービー前日の夜、原西騎手に薬を盛った」


 原西騎手は、ダービーの日、大寝坊をかまし、当日の乗り替わりを命じられたのである。普段から遅刻をしない原西騎手が、よりによって一番大事なダービーの日に寝坊するなんて、あまりにも不自然なのである。それは薬理的な影響による可能性がある。


 そして、原西騎手に薬を盛ってダービーでの騎乗を阻止したい者がいるとすれば、それは椋原騎手しか考えられないのだ。



「おそらくそれは睡眠薬だったのだろう。原西騎手は翌朝目を覚ますことができず、ダービーの日に大遅刻してしまい、クレイメルタの鞍上から降ろされる。となると、厩舎が同じで、調教でもクレイメルタに跨っていた椋原騎手に代役が任される。椋原騎手の思惑通り、原西騎手はダービーでのクレイメルタの鞍上を手に入れる。そして、クレイメルタのずば抜けた能力によってダービーを圧勝し、ダービー騎手となった」


 ダービー騎手となれるのは騎手の中でも一握りであり、ダービー騎手はすべての騎手の憧れなのである。ダービー騎手となれば、その後のG1での騎乗依頼も増え、日本を代表するジョッキーになれる。それは後輩に睡眠薬を盛ってでも手にしたいほどの栄光なのだ。



「ダービー騎手となっただけではなく、椋原騎手は、その後のすべてのレースでクレイメルタの主戦を務めるようになった。クレイメルタはG1を連勝し、さらに椋原騎手の名声を高めた。このことは当然、原西騎手にとっては面白くない話だった。仮にダービーでのクレイメルタの鞍上が原西騎手だったら、原西騎手がダービー騎手となり、クレイメルタとともにG1連勝を果たせたはずだったから」


 そして、と柴村は続ける。



「原西騎手は、ついにダービーの前日に椋原騎手から薬を盛られたことを知り、復讐を決意した」


 原西騎手がどのようなきっかけで睡眠薬を盛られたことに気が付いたのかは想像のしようもない。もっとも、柴村の「仮説」によれば、それは比較的最近であるはずだ。もっと早い段階で薬を盛られたことに気が付いたとすれば、原西騎手はもっと早く復讐を行ったはずだ。もっと早く知っていれば、引退レースの日まで椋原騎手にクレイメルタに乗らせ続けたとは思えない。



「復讐として、原西騎手は、椋原騎手に対して薬を盛り返すことにした。そこで、有馬記念のレースの直前に、椋原騎手に対して薬を盛った。この薬の影響によって、椋原騎手は体調を悪くし、本馬場入場に遅れ、さらにレース中に意識が朦朧とし、ゴール直前で右側に斜行し、内ラチの柵に激突した」


 有馬記念のゴール前の直線の映像を何度も繰り返し見たところ、右側への斜行は、クレイメルタ側のトラブルではなく、明らかに椋原騎手側のミスであった。もっとも、周りに他の馬がいないあの状況で椋原騎手ほどのジョッキーがあんなとんでもないミスを犯すとは到底思えない。そこには薬理的な影響があったに違いないのだ。



「落馬事故によって、椋原騎手は、一命こそ取り留めたものの、意識不明の重体。同時に身体中を骨折しており、騎手としての復帰は絶望的となった。これこそが原西騎手の復讐だった。原西騎手からダービー騎手の座を奪った椋原騎手から、騎手人生そのものを奪ったのである。復讐を果たした椋原騎手は、贖罪のため、競馬界からの引退を決意した。以上」



 柴村が一方的に「仮説」を話すのを、原西騎手は黙って聞き続けた。この話は原西騎手を傷害犯として糾弾するものなのである。仮にこの話が根も葉もない誇大妄想なのだとすれば、とんだ言いがかりである。

 それにもかかわらず原西騎手が一切物言いを付けなかったということは、この「仮説」はそう大きくは外れてはいないということだろう。



「どうでしたか? 事実と違う部分はありましたか?」


「そうですね。事実と違う部分はありました。ただ、大体は事実のとおりです」


 原西騎手は「仮説」が事実であることを大筋で認めた。



「どこが事実と違いましたか?」


「後半部分です」


「後半部分のどこが違いましたか?」


「『復讐』の部分です。僕は、椋原騎手を怪我させたかったわけではないんです。僕はただ、クレイメルタと一緒に有馬記念を走りたかっただけなんです」


 原西騎手はゆっくりと立ち上がると、棚の上のスタンドに飾ってあった競走馬の写真に手を伸ばした。それはクレイメルタの全身を写したものだった。



「クレイメルタは、僕の競馬人生史上、最高の馬でした。そして、クレイメルタのダービーは、僕が今まで見たどんなレースよりも素晴らしい最高のレースだったんです」


 原西騎手はそのまま夢中で話し続ける。



「東京競馬場の2400mをクレイメルタは、まるで鳥が大空で羽ばたくように、颯爽と駆け抜けたんです。椋原騎手も、クレイメルタも、他の馬は一切目に入ってなかったと思います。それどころか、競争をしているという意識もなく、ただただ走ることを楽しんでたんです。ただ楽しみながら走って、結果として一番にゴールを通過した。あのダービーはそんなレースなんです。あんな最高なレース、後にも先にも僕は見たことありません」


 ですから、と原西騎手は続ける。



「僕は寝坊したことによって、騎手人生で最高の経験をする機会を逃したんです。あれは僕の残りの一生を懸けても取り返すことのできない貴重な経験だったのに」


 柴村は、原西騎手が指先でなでている写真のクレイメルタが、ダービーのときのゼッケンを付けていることに気が付いた。原西騎手にとっては、クレイメルタのダービー戦のレースこそが特別なものだったのである。



「ダービーの日に寝坊してしまった自分をどれだけ恨んだことか分かりません。いったい自分は何のためにジョッキーを志し、競馬学校を卒業したのかと、自分で自分を責め続けていました。あのダービーでクレイメルタと走れなければ、僕の競馬人生は無価値だったから。ところが、僕は、あの有馬記念の当日に、ダービーの日の寝坊が椋原先輩の仕業だと知ったんです。思い返せば前日の夜、僕は椋原先輩に誘われて食堂に行ったんです。そのとき飲んだお茶に睡眠薬が仕込まれていたんでしょう」


 もはや原西騎手はポーカーフェイスを保てていなかった。歯を食いしばり、感情を露わにする。



「それはもう許せなかったですよ。あまりにもアンフェアだし、騎手としてだけではなく、人としてありえないことを椋原先輩はやったんですから。でも、かといって、椋原先輩を殺したり、怪我をさせたりしたところで、クレイメルタのダービーは一度っきりで、もう帰ってきません。とはいえ、僕は、あの寝坊が僕のせいではないとしたら、もう一度だけでもクレイメルタとレースをする機会があってもいいと思えました」


「だから、原西騎手は、椋原騎手に薬を盛ったんですね。今度は椋原騎手から原西騎手への当日の乗り替わりを実現させるために」


 たしかにそのように考えた方が整合する事実がある。たとえば、原西騎手本人が話していたところによれば、原西騎手は第10レース後、記者の取材を断っていたとのことだが、それは第11レースの有馬記念でクレイメルタに騎乗する準備をするためだったということだ。そして、現に有馬記念の馬場入場でクレイメルタとともにトラックに入ってきたのは勝負服を着た原西騎手だった。



「ええ。そうです。僕は椋原先輩がレースに臨んでいる最中、飲みかけのペットボトルに睡眠薬を盛りました。それによって椋原先輩には有馬記念をお休みしてもらおうと思ったんです。椋原先輩は、レースの日、レースがない時間はできるだけ一人になりたがるタイプでした。誰もいない場所を探して篭るクセがあったんです。ですので、椋原先輩が薬によって強い眠気に襲われて眠ってしまえば、誰も起こす人は居らず、レースには出てこれなくなるはずでした」


「しかし、実際には椋原騎手は、ギリギリのタイミングで有馬記念のコースにやってきてしまったということです」


「そうです。僕の思惑通りにはいかなかったんです。僕はクレイメルタの引退レースの鞍上も逃したんです。トラックでハイタッチをしたとき、椋原先輩は笑顔を作ってましたけど、正直、相当具合が悪そうでした。睡眠薬の効力に抗って、目を開けてるのもやっとという状態だったと思います」


「無理をしてまで、クレイメルタの鞍上を譲りたくなかったんですね」


「ええ。そうです。椋原先輩は、意地で無理やりクレイメルタに乗った。そして、ゴール前で限界が来てしまい、あの大事故を起こしてしまったんです。椋原騎手の騎手人生を終わらせたいとも、クレイメルタ巻き込みたいとも、僕は一切思っていませんでした。有馬記念の悲劇は、僕の爪の甘さが招いてしまったものなんです」


「それを反省して、原西騎手は今日引退したというわけですか?」


「それは半分当たってて、半分外れています。いや、半分以上外れているかもしれません。僕が引退したのは、これ以上騎手をやっていても意味がないと感じたからです。クレイメルタとダービーを走ることはできないですし、クレイメルタの産駒に跨ることももうできないですから。これ以上僕の競馬人生を延命する必要はないんです」


 柴村からすると分かるような分からないような話であるが、原西騎手にとってはそれが紛れもない本心なのだろう。それくらいに原西騎手の中では、クレイメルタの存在が、そしてクレイメルタと走るはずだったダービーの存在が大きかったということなのだ。


 原西騎手の目には、先ほどの記者会見の際には一切見せなかった涙が浮かんでいた。



「これが『原西騎手と椋原騎手のダービー馬をめぐる薬物合戦』の全容なのですが、柴村さん、何か他に知りたいことはありますか?」


「そうですね。先ほど、原西騎手は、椋原騎手に薬を盛られたことを知ったのは有馬記念の当日だった、と話してましたよね」


「ええ」


「どのようにしてそのことを知ったんですが?」


「これが不思議な話なのですが、僕が10時過ぎ、第1レースの騎乗を終えて、着替えるためにロッカーに戻ったときに、ロッカーの中に、手紙が入ってたんです」


「手紙?」


「はい。ワープロ打ちの一枚紙です。そこに、ダービーの日に椋原先輩が自分に睡眠薬を盛ったことが書かれてました。そして、その手紙には、包装紙が付いていて、その中に粉薬が入っていました。その手紙曰く、この薬こそが椋原先輩が自分に飲ませた薬だということでした」


 何者かが原西騎手のロッカーに、椋原騎手の犯した罪を告発する文章を入れ、ご丁寧に椋原騎手が使ったのと同じ薬まで同封したということか。一体誰が何の目的でそのようなことをしたのだろうか。



「僕はその手紙を見て、すべてを知ったんです。そして、ほぼ反射的に、この錠剤を椋原先輩に飲ませれば、自分が有馬記念でクレイメルタに騎乗できるんじゃないかと悪だくみしてしまったんです。なんとなく自分にはその権利があるような気もしました。そこで、すぐに椋原先輩にその薬を飲ませたんです」


「すぐにというと、10時半前後ということですか?」


「そうですね。椋原先輩が第2レースに騎乗している間にペットボトルに薬を溶かしましたから。椋原先輩はすぐにペットボトルに口を付けました。ですが、薬の効果はすぐには現れなかったようで、第3レース、第6レース、第8レースと普通に騎乗していました。その後は有馬記念まで椋原先輩の騎乗機会はなかったのでよく分かりませんが」


「遅効性の睡眠薬だった、ということですかね」


「そうかもしれませんが、僕にはよく分かりません。僕は知らない誰かから渡された薬をそのまま使っただけですから」


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