乗り替わり
競走馬の育成・管理に携わるものの朝は早い。それは競走馬が暑さに弱い生き物であるからとも、単に業界の伝統であるからとも言われるが、調教は朝の6時頃から開始される。年末のこの時間の美浦は、晴れているとはいえ、気温は氷点下前後だ。
朝の調教を終え、お目当の騎手が調教スタンドに現れたのは、午前8時過ぎであった。
「原西騎手、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「少しお時間よろしいですか?」
「僕でいいんですか?」
原西騎手は坊主に近い短髪の頭を掻きながら尋ねる。表情は柔和であり、相変わらずの好青年である。
「原西騎手に聞きたいことがあるんです」
「週末の重賞の騎乗はないですが、それでもよろしければ」
「大丈夫です。食堂で話しましょう」
昨日江之島から聞いた話によれば、原西騎手はこの日3頭の調教を担当しているため、9時過ぎからまた馬場に入るとのことだった。朝食を食べるわずかな時間を奪うわけにはいかなかった。
調教スタンドにある食堂で、2人はひと気のない隅の席を陣取った。今日も柴村は単独行動である。
原西騎手は「失礼します」と言って、サンドイッチの封を切る。
「突然申し訳ございません」
「いえいえ、むしろ先週日曜日の第10レースの後は申し訳ありませんでした」
「何の話ですか?」
「担当は柴村さんではなかったんですけど、『駿馬』の記者さんのインタビューを無碍に断っちゃんたんですよ。たしか中村さんだったかな…。僕が謝っていたて伝えておいてください」
「分かりました。多分気にしてないと思いますけど」
先週日曜日の第10レースの後というと、有馬記念の直前である。
「有馬記念が見たかったんですか?」
「そんな感じです」
柴村は早速本題を切り出す。勝彦氏に話したときとは別の理由で、それは切り出しにくい話題であった。
「今日なんですが、クレイメルタについて少し聞きたいんです。今、特集を担当していまして」
原西の声には驚きの色が露骨に滲み出た。
「クレイメルタですか? 僕にはあまり関係のない馬ですが」
「そんなことないですよ。元々主戦は原西騎手だったじゃないんですか」
「ダメダメだった頃ですね。あれほどの素質馬を勝たせられなかったなんて、いやはや恥ずかしい限りですよ」
原西がクレイメルタに騎乗したレースの成績は、新馬戦9着、未勝利戦7着、11着、1着、G3きさらぎ賞5着、G1皐月賞3着というものである。
「おそらくクレイメルタは晩成型だったんですよ。それに皐月賞3着の騎乗は内を捌けていて素晴らしいものがありました」
「お誉めいただいてありがとうございます。ただ、もしもあそこで勝てていればクレイメルタは3冠馬になれてたんですよね。競馬に興味のない方にも知ってもらえる存在になれたはずなんです。自分の力不足です」
一般的に競馬は、馬7割騎手3割などと言われることがある。馬に能力がなかったり、やる気がなかったりすれば騎手がどんなに優秀であっても良い成績を残すことはできない。海外から短期免許で来たジョッキーの中には、一番人気の馬をしんがりまで飛ばしながらも、「今日は馬が走ってくれませんでした」などとすべて馬に責任転嫁をするもののいる。他方で、原西騎手は、皐月賞の惜敗を自分の責任だと考えているようだ。
「クレイメルタは間違いなく皐月賞を取れる馬でした。人気こそ9番目でしたけど、当時の時点で実力は抜けていたんです」
「そうですかね? それまでのレース成績を考えても、皐月賞の3着はよくやったと思うんですけど」
「馬が違ってたんですよ」
原西騎手は、口を付けないままでサンドイッチをテーブルに置くと、少し色素の薄い目を柴村に向けた。
「きさらぎ賞のときと比べて、クレイメルタは全く別の馬になっていたんです。見た目も一回り大きくなっていましたが、何より乗った時の感触が全く違いました。硬めだった筋肉が柔らかくなっていて、乗っていてまさに空を飛んでいるような、そんな軽さがあったんです」
「結構ごついがたいをしてるんですけどね」
「そうなんです。だから不思議なくらいでした。今までのクレイメルタとも、今まで乗ったどの馬とも違っていたんです。驚くべき成長速度でした」
たしかに成長は戦績にも如実に表れている。皐月賞の1ヶ月後にはダービーを取っているのだから。
「ダービーの日は残念でしたね」
ダービーの日、元々原西騎手が騎乗予定だったところ、当日に椋原騎手に鞍上が変更したのである。江之島調教師の話によれば、原西が当日発熱してしまったとのことだった。
「あれも恥ずかしい限りです」
「恥ずかしい限りって、体調不良ですよね? こればかりはもうどうすることもできなかったと思いますよ」
原西の反応は意外なものだった。
「体調不良? 江之島先生がそう話してたんですか?」
「え? …はい。そうです。原西騎手は当日発熱したって」
「おそらく江之島先生は僕に気を遣っているんです」
「というと?」
「寝坊なんです。本当に恥ずかしい話」
「そうなんですか?」
普段から朝4時台に起床している騎手が、大事なダービー当日に寝坊するというのはにわかに信じがたい話である。
「自分で言うのも難なんですが、時間には正確な方で、遅刻をしたことも騎手人生で初めてでした。目を覚ましたのが10時過ぎで、騎乗予定だった午前中のレースには間に合いませんでした。15時半過ぎからのダービーまでに支度をすることは可能だったんですけど、そんなに甘い世界ではないですよね。江之島先生と深川オーナーはカンカンで、当日の騎手変更を命じたんです」
「それは本当にもったいないことをしましたね。もし原西騎手がダービーでもクレイメルタに跨っていれば、原西騎手は間違いなくダービー騎手になれたでしょうね」
「それは違うと思います。やっぱり椋原先輩だから勝てたんですよ。僕だったらまたあと一歩足りなかったと思いますよ。塞翁が馬とはまさにこのことかと思いますが、僕が寝坊することによってクレイメルタはダービー馬になれたんです」
「そして、有馬記念であのような目に遭ってしまったんですよね」
「言葉もないです」
先週の有馬記念はまさに悪夢であった。クレイメルタは予後不良で安楽死処分となり、椋原騎手は未だに意識不明のままなのである。競馬にはたらればの話が尽きないが、もし、ダービーの日に今までどおり原西騎手がクレイメルタに騎乗していれば、先週の悪夢も起きなかったのではないだろうか。原西騎手は事故の少ない騎手として定評がある。
「そういえば、有馬記念のとき、馬場入場のときにクレイメルタと一緒にいたのは原西騎手でしたよね。乗り替わりがあるんじゃないかって思いました。あれは何があったんですか?」
「大したことないですよ。ちょっとだけ椋原先輩が遅れてきただけです」
「遅刻ですか?」
「ダービーのときの僕みたいな大遅刻ではなく、ほんの数十分ですよ。それでも江ノ島先生はカンカンでしたがね。ただ、結果としてギリギリ間に合ったので、良かったです……いや、今の椋原先輩の状況を考えると良かったのかどうかは分からないですけど」
「椋原騎手がどうして遅刻したか分かりますか?」
「さあ…僕にはなんとも」
椋原騎手が目を覚ますまでは、遅刻の真相は分からないということだろう。
「インタビュー予定だったことはこれで一通り聞けました。原西騎手、貴重な時間をありがとうございました」
「いえいえ。大した話はできなかったですけど」
「最後に一つだけ質問してもいいですか? 記者として、というよりも、競馬ファンとしてどうしても聞きたいことがあって」
「どうぞ。なんでも聞いてください」
「クレイメルタに騎乗してダービーを獲りたかった、と今でも思うことはありますか?」
原西はニヤリと笑った。
「はい。もちろん。今でも毎日思っています」