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急成長

「どうだい? みんな立派なサラブレッドだろ」


 突然、人間の声がしてびっくりして柴村が振り返ると、馬房の入り口に江之島陵えのしまりょう調教師が立っていた。

 調教師になる前は騎手をやっていただけあり、小柄ではあるが、現役時代の鋭い目つきとオーラは健在で、柴村は会うたびに緊張する。

 


 勝彦氏の取材の翌日、柴村は、茨城県の美浦にある江之島厩舎に一人で取材に来ていた。

 姫野は同行を希望したが、半ば強引に実家で休みを取らせることにし、一人で勝彦氏の邸宅をお暇したのだ。



「一頭一頭間近で観察していたのですが、どれも一級品ですね。毛ヅヤも綺麗で、筋肉もつくところについてます」


「そうだろ。しかも、私の管理馬はどれも人懐っこくてな。君が来てくれてみんな喜んでるよ」


 今もまさに栗毛の馬が柴村になでて欲しいと言わんばかりに馬房から精一杯に首を伸ばしていた。



「君、その馬は分かるか?」


「もちろんです。昨年の菊花賞2着、今年のステイヤーズステークス1着のオーロラリボンですよね」


「その通りだ。さすが『駿馬』の記者さんは違うな」


「顔の模様が独特ですから、よその記者もみんな分かりますよ」


「それがそうでもないんだ。みんなクレイメルタ以外には興味も関心も示さなくてね。馬房に来てもクレイメルタにしか構わないんだ」


「それは勿体ないですね。ここには他にもG1馬もG2馬もたくさんいるのに」


「ミーハーなんてそんなもんだ。君、オーロラリボンをしばらくなでてやってくれ」


「はい」


 柴村の手が頭に触れても、オーロラリボンは驚いたり暴れたりすることはない。まるで人間の赤ちゃんのように柴村の目をじっと見ている。よくしつけられた馬である。騎手も乗りやすいことだろう。



「それで、君、今日は何の取材なんだい?」


「あさってのホープフルステークス、と言いたいところなのですが、ごめんなさい。クレイメルタについての取材なんです」


「構わないよ。言わずもがな、クレイメルタは私も大好きな馬だった」


 江之島厩舎には、馬房の近くに簡単なベンチが置かれている。江之島はそのベンチに腰掛けた。



「順を追って聞いていいですか? 預かり始めたとき、クレイメルタがダービーを獲る馬だと思いましたか?」


「正直言って思わなかった」


「なんでですか?」


「たしかに良血ではあったが、馬体の仕上がりはかなり遅かった。厩舎に入った段階ではまだまだ赤ちゃんだったよ。追い切りもあまり良くなかった」


「3歳のダービーまでには仕上がらないと思ったわけですか? クレイメルタは古馬になってから活躍するタイプだと?」


「そんな感じだな」


 競走馬の成長型には色々なタイプがある。新馬2歳から活躍する早熟タイプもいれば、古馬4歳になって活躍する晩成タイプもいる。江之島はクレイメルタを後者のタイプだと判断していたらしい。



「ダービーどころか、新馬戦の出場すら危うかったんだよ」


「でも、実際には、2歳の早い時期に新馬戦に出場していますよね」


「深川オーナーの意向だよ。深川オーナーはクレイメルタはクラシック戦線で活躍する馬だと言い張っててね」


 そのように考えていなければ、なかなか3億を超える金額は付けないだろう。



「それで、まだまだ完成にはほど遠かったが、早い段階で新馬戦に出場させたんだ」


「結果、1番人気を裏切り、15頭立ての9着でしたね」


「妥当な結果だったと思うよ。その後の未勝利戦でもなかなか勝ち上がることはできなかった」


 競馬のレースは階級制になっている。新馬戦からスタートし、勝ち上がるごとに1勝クラス、2勝クラス、オープンと階級が上がっていく。新馬戦で負けた馬は未勝利クラスに所属し、1勝するまで未勝利クラスでのレースを繰り返すことになる。

 クレイメルタは、3度目の挑戦でようやく未勝利クラスで勝利を上げたのであった。3歳になる目前のことである。



「深川オーナーは2歳重賞でも使いたかったみたいだったけど、こればかりは勝ち上がってないから仕方がなかった。きさらぎ賞でギリギリ掲示板に乗れたからといって、賞金額的に考えたら皐月賞に出走できたことが奇跡だよ」


 クレイメルタは未勝利戦の1勝、G3きさらぎ賞5着というあまりにも心許ない戦績で、3歳クラシックの初戦に臨んだのである。



「しかし、その皐月賞で、11番人気ながらクレイメルタは好走を見せたわけですね。1着とはクビ差の3着でした。江之島調教師的に、クレイメルタの急成長の要因はなんですか?」


 うーん、と江之島は口元に手を当ててしばらく考え込む。



「もちろん、要因は一つではない。調教は一つ一つ確実にこなしていたし、血統的な裏付けもあった。グラスファームでの短期放牧によるリフレッシュ効果もあったと思う。ただね…」


「ただ?」


「実際のところはよく分からないんだよ。馬っていうの一頭一頭違ってて、成長の速度も成長型も違う。レースの勝ち負けに関して言えば、その日の馬のコンディションもあるし、馬のやる気もある。コースによる有利不利もある。だから、実際のところはよく分からないんだ」


「3歳になってからクレイメルタが急成長を遂げたことは間違いないんじゃないですか? 皐月賞での3着はフロックには見えなかったです」


「そうかもしれない。馬体も急に立派になったんだ。プラメル産駒については詳しくないが、プラメルの子はクラシック血統なのかもしれないな」


 柴村にもプラメル産駒の一般的な傾向は分からない。仮にヨーロッパにおける傾向が分かったとしても、ヨーロッパと日本ではレースの番組も馬場も調教メニューも大きく異なっているので、あまり参考にはならないかもしれない。



「いずれにせよ、クレイメルタは5月の日本ダービーで栄光を勝ち取るわけです。2着に3馬身差をつけて圧勝。レコードには0.1秒だけ届きませんでしたが」


「あれは実質的にはレコードだよ。レコードは高速馬場のときに出たもので、クレイメルタが勝ったときはむしろ時計のかかる馬場だったんだ。あの馬場状態であのタイムはまさしく異次元だよ」


「先ほどの質問と同じになりますが、勝因はなんだと考えますか?」


「ダービーでの勝利に関しては、クレイメルタがクレイメルタだから勝った、としか言いようがないな。この頃には新馬のときと見違えるくらいに馬体が違っていて、むしろクレイメルタと比較したら他の馬がみんな赤ちゃんに見えるくらいだったよ。たしかに悠二の騎乗も素晴らしかったが、誰が乗っても結果は同じだったと思う。現役時代の俺が乗ったって勝ててたよ」


「それはあまりにもご謙遜ですよ」


 江之島は現役時代にはダービーを獲ったこともある名ジョッキーだった。



「そういえば、ダービーでの椋原悠二騎手への乗り替わりは当日突然に発表されましたね。それまで主戦を務め、皐月賞も含めて毎回騎乗していたのは同じ江ノ島厩舎の原西騎手でした。これにはどういった裏側があったんですか?」


「裏側も何もないよ。報道されているとおり、原西が当日発熱して、騎乗できなくなったんだ。うちの厩舎で当日東京競馬場にいてダービー騎乗の予定がないのは悠二だけだったから、オーナーの意見も聞いて、すぐに悠二に声を掛けたよ。悠二は調教でも何度かクレイメルタに跨ってたからな」


 結果として、この乗り替わりが椋原の騎手人生を良くも悪くも決定付けるものとなった。椋原は一躍ダービー騎手となり、G1での騎乗依頼も一気に増え、騎手としての栄華を極めたのである。しかし、盛者必衰とも言うべきか、椋原はそのクレイメルタの騎乗中の事故で現在意識不明の重体となっている。無事意識が回復したとしても、今後の騎乗は難しいかもしれない。



「クレイメルタがダービーを勝って、何か変わったことはありましたか」


「すべてだよ。ダービーというのはそういうものさ。取材が一気に増え、管理依頼も一気に増えた。俺の周りの奴は猫も杓子もみんなクレイメルタの話しかしなくなった」


 ダービーの魔力というのはそういうものである。たった2分22秒ほどの戦いが、競走馬、騎手だけでなく、調教師・牧場関係者も含めた全ての関係者の人生を一変させてしまうのだ。



「菊花賞のときなんて、俺に競馬ファンから「オーロラリボンに手抜きをさせて、絶対にクレイメルタに勝たせてください」って書かれた手紙まで来たんだぜ。八百長かよ。まあ、そいつの心配は取り越し苦労で、本番はクレイメルタの圧勝だったんだけどな」


 江之島は立ち上がると、柴村のすぐ近くまで歩いてきた。もっとも、柴村に用があったのではない。



「クレイメルタの馬房は、オローラリボンの隣だったんだよ」



 柴村がその場をどくと、江之島はオーロラリボンに向けて手を伸ばした。


 江之島が手を伸ばすのに合わせて首を伸ばしたオーロラリボンのたてがみを、江之島は指先で優しくなでる。



「オーロラリボン、お前も寂しくなっちゃったな。クレイメルタが突然いなくなっちゃってよ」


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