落馬事故
「もうレース終わっちゃいましたか?」
主役に少し遅れて登場したのは、フォーマルというよりはカジュアル寄りの黒い花柄のワンピースを着た姫野だった。
「今からゲートインですよ。一体どこに行ってたんですか」
柴村の問いかけに、姫野は頭を掻く。
「ちょっとお手洗いに行ってたんですけど、トイレがすごく混んでいて」
来客数はおそらく13万人を超えている。最近は女性客も多いから、たしかにトイレは長蛇の列なのかもしれない。
「ごめんなさい。本当は野口さんと柴村さんにフランクフルトを買ってこようと思ってたんですけど」
「そんな話はいいから、早く自分の席に戻ってください。もう枠入りが始まっていますよ」
バツが悪そうに少し舌を出すと、姫野は一眼レフをテーブルの上にどけ、腰を落ち着けた。
そして、ポケットから取り出したオペラグラスで、ゲートのある向こう正面を見た。
「あれ、クレイメルタはどこですか?」
「1枠3番だからとっくに枠入りしてます」
「えー、じゃあ見えないですね」
「これからが本番ですから。レースが始まったら嫌というほど見れますよ」
「柴村さん的に今日のクレイメルタの見せ場はどこですか?」
「全部です。有馬記念の2500mのコースすべてがクレイメルタの独擅場になりますよ」
「どういう意味ですか?」
「姫野君、君はグラスファームの牧場主の娘なんだよね?」
しばらく柴村と姫野の会話を聞いていた野口が口を挟む。
「はい。そうですが」
「クレイメルタはグラスファームの生産馬だろ。クレイメルタのことは君が一番よく分かってるんじゃないか?」
グラスファームは、日本で一番の規模、そして実績を誇る生産牧場である。姫野はそのグラスファームの牧場主である姫野勝彦の一人娘である。
そういう意味では、姫野は幼少期から競馬と関わりのある「サラブレッド」なのである。
「別のお父さんとクレイメルタについて語り合う機会があるわけじゃないので、特別な知識があるわけではないです。まあ、人並みの知識はあるとは思いますけどね」
「姫野さんは記者なんですから、人並みでは困るんですが」
柴村は茶化すつもりで言ったわけではなかったが、野口と姫野は声を出して笑った。
「私はただ、柴村さんの見解が聞きたいんですよ。先輩記者として」
「そういうことでしたら大いに語りたいところなのですが、残念ながらもうそろそろスタートです。レースに注目しましょう」
レースを見れば分かるはずである。今日の有馬記念の舞台に必要なスポットライトは一つだけであり、照らすべき馬は一頭しかいないということが。
最後に大外枠の18番ナツイロサイダーがゲートインすると、発馬機の赤いランプが点灯した。
柴村は息を止め、すべての集中力をゲートに向けた。
今年の有馬記念が始まる。後世まで語り継がれるであろう物語が、今まさに目の前で繰り広げられるのだ。
ランプの点灯からゲートが開くまでのほんの1秒ほどの時間が実に長く感じられる。
ついに開かれたゲートから、日本を代表する18頭のサラブレッドが、弾かれるようにして一斉に飛び出した。
このレベルになるとスタートで失敗する馬はさすがにいない。スタートと同時にほぼすべての馬が緑の芝で横並びとなる。
ただ一頭を除いて。
馬群の中にクレイメルタを探す必要はなかった。クレイメルタは一瞬にして先頭に立ち、内ラチ沿いにポジションを取ったのである。
「柴村さん、クレイメルタが先頭ですね」
「陣営の宣言通りです。ここからクレイメルタの一人旅ですよ」
ラストランでクレイメルタ陣営が選んだ戦術は、大逃げだったのである。
競馬における戦術は、大きく分けて4つある。逃げ、先行、差し、追い込みである。
このうち、現代競馬においてセオリーとなっているのは先行、もしくは、差しである。「好位」と呼ばれる2番手ないし3番手集団につけ、最後の直線で加速し、逃げ馬を捕まえる。この戦術が好まれるのは、一般に、レースを先頭で引っ張る逃げ馬には不利があるからだ。すなわち、風とコースの痛みである。先頭の馬は風の抵抗を受けなければならない。さらに逃げ馬が通る最内のコースは、馬の通過頻度がもっとも多い部分であるため、芝の痛みが激しい。しかも、有馬記念のコースは2500mあり、中央競馬番組の中でもかなりの長距離である。スタートで先頭に立つために脚を使ってしまうと、最後までスタミナが保たない。
それにもかかわらず、クレイメルタ陣営はあえて大逃げの戦術を選んだのだ。
今までの走りからクレイメルタが如何なる戦術にも対応できる器用な馬であることは実証されている。定番の好位差しの戦術もとれたはずである。大逃げの戦術には陣営の強い想いがあるのだ。
有馬記念では、中山競馬場の小回りのコースにおいて6回コーナーを曲がる。2つ目のコーナーを曲がり、スタンドの正面の直線に入ったとき、大歓声が巻き起こった。
その歓声を一身に受けていたのは、他でもないクレイメルタであった。
クレイメルタはすでに2番手の馬に4馬身以上の差をつけて独走している。その差は徐々に開く一方であった。
「まさかとは思ってたけど、本当に大逃げを打ってきたね!! これはすごい!!」
「野口さん、どうやらクレイメルタの馬主が指示したらしいですよ」
「馬主って深川さんだろ。なかなか良い趣味してるな」
「そうなんです。まさに趣味なんです。深川オーナーが一番好きな往年の競走馬をご存知ですか?」
「それは分からないが、クレイメルタの大逃げを見て察しがついたよ」
「ですよね。お察しの通りです」
「ちょっと、2人で勝手に納得しないでくださいよ!! 私にも教えてください!! 深川オーナーが一番好きな競走馬って何なんですか?」
「サイレンススズカですよ。姫野さんもよく知っているでしょ」
「ああ! 知ってます!!」
サイレンススズカは、日本競馬史に残る伝説のサラブレッドである。
デビュー当初は思うようなレースができず、クラシックは無冠に終わったものの、翌年にG2の金鯱賞を11馬身差のレコードで圧勝し、G1の宝塚記念を勝ち、G1級のメンバーの揃ったG2の毎日王冠もレコードに肉薄するタイムで勝利した。
ハイペースで先行しながら、最後までペースを落とさない異次元の大逃げのスタイルから、サイレンススズカは史上最強の逃げ馬と評されており、識者によっては史上最強の競走馬に挙げる者もいる。ファンからの人気も未だに根強い。
「すごいな。もう10馬身以上の差があるぜ。天皇賞・秋のサイレンススズカみたいだ」
野口が向こう正面を走るクレイメルタを指差す。2番手の馬はまだ第2コーナーのカーブに入ってすらいない。
その様子は、東京競馬場で開催される天皇賞・秋とはコースも距離も回る向きも違うが、たしかに「あの」天皇賞・秋のサイレンススズカの独走を彷彿とさせる。
「怪我だけはしないで欲しいですね」
姫野の発言に、柴村も野口も深く頷いた。
サイレンススズカが「伝説」となってしまったのは、その桁外れのスピードゆえ、ということだけではない。
単勝1.2倍のダントツの一番人気で推されていた天皇賞・秋における悲劇の幕切れがこの馬を「伝説」にしてしまったのだ。
10馬身差の一人旅の最中、サイレンススズカは突然失速し、競争を中止した。左前脚の手根骨粉砕骨折を発症したのだ。予後不良と診断されたサイレンススズカには、レース後、安楽死の措置が取られたのである。
「僕はクレイメルタなら大丈夫だと信じています。クレイメルタはサイレンススズカを超える馬なんです」
大きなことを言いながらも、柴村は内心は祈る気持ちであった。
今目の前に繰り広げられているレースにおいて、クレイメルタが戦っているのは、残りの17頭ではない。これはサイレンススズカとの戦いであり、クレイメルタ自身の限界との戦いなのである。
第3コーナーに入っても、クレイメルタは少しもペースを落とさなかった。
もうすでに1800m近くをほぼ全力疾走しているのである。
並みの馬であったら、とっくに失速をしている。やはりクレイメルタは特別な馬なのだ。
最後のコーナーを曲がり切ったとき、柴村は胸をなでおろした。
あとは300m弱の最後の直線を残すのみ。2番手の馬とは13馬身くらいの差がある。ここまでくれば少しくらい気が緩んでも1着でゴール板を通過できるはずだ。
スタンドが今日一番の大きな歓声に包まれる。
他の馬の勝ち馬投票券を買っているファンも、今は全員がクレイメルタのゴールを歓迎しているように見える。このペースで行けば間違いなくレコードである。13万人越えの競馬ファンの前で、競馬史に刻まれる瞬間が今訪れようとしている。
しかし、歓声は一瞬にして悲鳴に変わった。
ゴール手前150メートルで、クレイメルタは大きく右によれると、内ラチの柵に激突し、柵を破壊し、椋原騎手もろとも、トラックの内側に放り出されたのである。
姫野は両手で目を覆い、金切り声の悲鳴を上げる。
野口は「嘘だろ。嘘だろ。おい」としきりに呟く。
柴村は唖然として、芝コースの内側にあるダートコースで倒れたままピクリとも動かないクレイメルタと椋原騎手をじっと見つめていた。
スマイルカナ3着でしたね。。単勝しか買ってなかったので泣いてます。。