有馬記念の主役
久しぶりに本格でもSFでもない普通のミステリーが書きたいなと思い、構想を練りました。
競馬ファン向けというよりは、競馬を知らない人向けの作品です。可能な限り用語について説明を加え、競馬における考え方みたいなものが伝わるように工夫しています。
ミステリーとしての、いわゆる「二重底」の展開をお楽しみいただければと思います。
なお、すでに死亡してしまった往年の名馬のみ実名を使っていますが、それ以外の登場キャラクターは実在の人物や馬とは全く関係はありません。
シンザン、ハイセイコー、オグリキャップ、ナリタブライアン、シンボリルドルフ、オグリキャップ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー、ディープインパクト-
東京メトロ東西線の船橋法典駅を降り、日本競馬の歴史を作り上げてきたアイドルホース達が壁面にプリントされた遊歩道を進んだ先に、JRAの中山競馬場は位置している。
この中山競馬場で1年に1回開催される日本競馬の祭典は、国民的行事と言っても過言ではない。
有馬記念-競馬に一切興味のない者であっても、レースの名前くらいは知っているのではないだろうか。
元日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧の名前が冠せられた年末の大一番は、ファン投票によって選ばれた競走馬に優先出走権が与えられるドリームマッチだ。
このレースは、競馬ファンだけでなく、競馬関係者からも特別な位置付けが与えられており、実績馬のラストランとして選ばれることも少なくない。平成2年に当時「終わった馬」だと思われていたオグリキャップは下馬評を覆し、平成18年にディープインパクトは単勝オッズ1.2倍の断然の人気に応えて、それぞれ有馬記念で有終の美を飾っている。
そして、今年の有馬記念も、日本競馬界に新たな金字塔を打ち立てたサラブレッドの引退レースであった。
その馬の名はクレイメルタ。
昨年のダービー馬であり、年度代表馬である。
ダービーを勝って以降、クレイメルタは一度も負けることなく、まさに無敵の強さを誇っていた。その実力だけでなく、人気も凄まじく、ぬいぐるみやキーホルダーといったグッズが飛ぶように売れているという。
クレイメルタはまだ4歳であり、しかもまだ底を見せてもいなかったから、能力的にまだまだ現役を続けることはできたはずである。ゆえに有馬記念を引退レースとすることを発表したときは、阿鼻叫喚だった。
クレイメルタの馬主の元には、引退の撤回を求めるファンからの署名まで届いたらしい。
「やっぱり有馬記念はすごいなあ!! 人がたくさんいる!!」
記者席のガラス越しに満員のスタンドを見下ろす野口平政の声には、抑えきれない興奮が入り混じっている。競馬番組のディレクターである野口は仕事でこの場に来ているのであるが、今の彼にはおそらくそのような意識はない。もう50歳手前だというのに、まるで遊園地に来た子どものようなハシャギっぷりだ。
「有馬記念はG1の中でもダントツの集客ですからね。1週間前から並んでる人もいたみたいですよ。これはいつものことですが」
柴村俊樹は淡々と言う。
中央競馬の重賞は、G1、G2、G3、リステッドの順で4段階で格付けされている。中央競馬は基本的に土日に開催され、1日に12レースを消化する。このうちメインレースである重賞競争が行われるのは11レース目、15時40分前後である。
最近は若手俳優を起用したテレビCMの効果もあってか、競馬場の座席が埋まることは珍しくない。しかし、開門と同時に座席がすべて埋まり、午後に入った頃にスタンドも含めてパンパンとなるのは、G1、とりわけ有馬記念の開催日くらいだろう。
「それはそうだけど、例年に比べてもすごくないか!? スタンドに入りきれない人もたくさんいるだろうな」
「一昨年、昨年と違って今年は天候にも恵まれましたし、海外重賞で成果を上げた馬も何頭も出馬しますからね。そして何よりダービー馬クレイメルタのラストランですので、世間的な注目はかなり高いということでしょうね」
「さすが柴村君はいつでも冷静沈着だなあ」
柴村は、常に朴訥としており、感情が表情に出ないタイプである。
もっとも、内心では野口に負けないくらいに興奮している。競馬新聞の記者である柴村にとってもやはり今は仕事中ではあるが、今年の有馬記念の出馬表を見て浮き足立つなというのは不可能だ。仮に今日が非番だったとしても間違いなく中山競馬場まで足を運んでいる。
「クレイメルタのオッズが1.3倍まで下がってるね」
野口が目の前の電光掲示板を見ながら言う。
「予想通りですね」
「ということは、柴山さんは人気の被るクレイメルタはあえて馬券から外しているということか」
「まさか。単勝で1万突っ込んでますよ」
「ははは。冷静沈着な柴村さんらしくないなあ。勝っても3000円しかプラスにならないのに」
「そういう問題じゃないです。馬券は夢を買うものですから」
競馬はギャンブルである。
もっとも、競馬は単なるギャンブルに過ぎないのか、といえばそれは断じて違う。競馬にはギャンブルを超えたロマンがあり、ドラマがある。
サラブレッドの競争人生は平均して2年未満であり、長くても5年程度に過ぎない。競走馬はレース毎に激しく消耗するから、この短い現役期間の間に出られるレース数は限られている。競走馬にとってはすべてのレースが、自分の価値、進路を決める一世一代のレースなのである。
とりわけ、「クラシック」と呼ばれるG1は格別だ。メス馬である牝馬においては桜花賞、オークス、秋華賞の3つ、オス馬である牡馬においては皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3つのG1がこれに当たるのだが、このレースは3歳時にしか出馬することができない。まさに一生に一度の大舞台なのである。この大舞台を目指して、日本のサラブレッドは生を受け、育成・調教をされるのだ。同年代のどの馬よりも早くゴール板を通過することを目指して。
「皐月賞は調教が間に合わずに3着だったが、ダービーと菊花賞を勝って2冠。さらに4歳になってからは天皇賞春、宝塚記念、ジャパンカップを制して目下G1を5連勝中。これで有馬記念も勝って有終の美を飾れば、2年連続年度代表馬は確定だろうし、クレイメルタは日本競馬史に残る名馬になるな」
「夢のある話ですよね」
「間違いないな。俺も保管用に余計に一枚応援馬券を買ってるからな」
そう言って野口は柴村に「3 クレイメルタ」の下に「がんばれ」と印字されている200円分の勝ち馬投票券を見せた。
実は柴村のポケットにも同じ馬券が入っている。
「それにしても遅いですね」
「何がだ?」
「本馬場入場です。まだクレイメルタが入ってきてません」
「本当だ」
レースの直前、パドックでの周回を終えた競走馬は、レース会場であるトラックに入ってきて、「返し馬」と呼ばれるウォーミングアップを行う。今、トラックには出走馬のうち、クレイメルタだけがいないのである。
「ダービー馬にはウォーミングアップは不要ということじゃないだろうな」
「そんなわけないです。それに、返し馬はパドックにも増して馬の調子を見ることができる場なので、返し馬がないとファンも困ります」
勝ち馬投票券はレース開始の直前まで購入できるが、それはファンに返し馬を見た上で馬券を買ってもらうという意味合いもある。本馬場入場をしたものの、気が荒ぶっていて返し馬ができない馬もいるが、それはそれで予想には役立つ情報だ。
「パドックでは普通に周回してたから、おそらく椋原悠二騎手に何かあったんだろうな」
「かもしれないですね」
記者席のモニターからパドックの様子を見ていたが、クレイメルタの様子にはなんら以上はなかった。それどころかキビキビと力強く歩けており、この馬の今までのパドックで一番良かったかもしれない。
他方、パドックの終盤で騎手が入場する際、椋原騎手の姿はなく、クレイメルタは空馬のままパドックを後にしたのだ。騎手が直前のレースに出場しており、パドックまでに準備が間に合わないということは珍しくないが、椋原騎手は有馬記念が午後初めてのレースであり、柴村は少し不審に思っていた。
「そういえば、おたくの姫野君もなかなか帰ってこないね」
姫野瑠花は、柴村と同じ競馬新聞社に勤める、若手の記者である。
柴村は自分の一つ右の席に目を遣る。そこにはピンク色の小型の一眼レフカメラがポツンと置かれている。
「仕事を忘れてスタンドの雰囲気を楽しみに行ってるのかもしれませんね。自由奔放というか、無責任というか、そういう奴なんですよ」
「かなり優秀な記者だという評判だが」
「優秀…そうかもしれませんね。優秀です。決して真面目ではないですが」
「真面目と優秀は違うのか?」
「ですね。勤務態度は決して真面目ではないです。ただ、姫野は愛嬌があるんで、騎手とか調教師とか人間に好かれるんですよ。飲み会にもよく顔を出して、いとも簡単に『ここだけの話』を引き出しちゃうんですよ」
「若い女の子を飲み会に派遣するとは、御社もなかなか際どいことをやってるね」
野口がニタリと笑う。
「やめてくださいよ。本人が自主的にやってることなんです。それに、姫野は色気で情報を引き出してるわけじゃないですよ」
「じゃあどうやって情報を引き出してるんだ?」
「酔い潰してるんです。彼女、うちの会社で一番お酒が強いんですよ」
実際のところ、その場に同席しているわけではないので、姫野がどのように取材をしているのかは柴村には分からない。ただ、彼女のスクープ取得数が多いことと彼女が酒豪であることは事実であるため、柴村はこの2つの事実を勝手に結びつけているのである。
「お、そうこうしているうちに遅れて主役が登場だ」
野口の指の先には、今まさにトラックに入場しようとしている一頭のサラブレッドがいた。
冬晴れの太陽光を反射して黒光りする青鹿毛の馬体は、遠くから見ても一級品であることが分かる。
柔らかさと屈強さを兼ね揃えた理想の馬体。大きなお尻は丸みを帯びており、トモの発達が著しい。トモから前脚に至るまでの身体のラインは太すぎず細すぎず、ほどよく筋肉が付いている。ただ歩行しているだけでも、後ろ足が弾んでおり、強いバネを持っていることが分かる。
クレイメルタの馬体は、日本競馬の最高傑作の一つであり、往年の競馬が見ているだけで幸せになれるものだった。
「惚れ惚れする馬体だな」
どうやら野口も同じようにクレイメルタの馬体に見惚れていたらしい。
先に異常に気付いたのは柴村だった。
「野口さん、クレイメルタの手綱を握ってる騎手、椋原騎手じゃないですよ」
「本当だ」
クレイメルタの隣にいる騎手は、椋原騎手と同じ厩舎に所属する原西卓騎手であった。
「乗り替わりのアナウンスってありましたっけ」
「いや、ない。というか、椋原ジョッキーに何があったんだ? 午前中のレースで怪我をしたという情報も入ってないぞ」
どの馬にどの騎手が乗るかということはレースの数日前に発表があり、競馬新聞にも記載がされる。怪我などのトラブルがない限り、当日の乗り替わりは普通はない。
「勝負服を着てますし、単なる付き添いではないですよね」
原西騎手は、黄色に黒の斑点の服を着ている。クレイメルタの馬主の勝負服である。
「椋原騎手に何があったか分からないですけど、おそらく原西騎手に乗り替わりでしょうね。ゲートインまでそれほど時間はないですし」
「それはファンにとってはあまりにも残念なニュースだな。クレイメルタの最終レースが椋原騎手とのコンビじゃないなんてな」
椋原騎手はクレイメルタの主戦であり、ダービーも含め、クレイメルタの全てのG1制覇は椋原騎手の鞍上によるものだ。普段の調教の際にも跨っているのは椋原騎手であり、クレイメルタの癖や性格もよく把握している。
それだけではない。騎手10年目の椋原騎手の初のダービー制覇がクレイメルタの騎乗だったのだ。
ダービー制覇後に椋原騎手への騎乗依頼は増え、椋原騎手は今年の関東のリーディングジョッキーとなっている。
クレイメルタと椋原騎手はお互いがお互いにとって特別な存在なのである。
「スタンドもかなりざわついてますね」
会場の電光掲示板がクレイメルタの手綱を引く原西騎手の顔を映したとき、観客からはブーイングが飛んだ。
致し方ない。
ドラマの最終回でヒロインが代役になるような話なのである。
おそらく原西騎手にとってもこの想定外の乗り替わりは不幸なものだろう。何の心の準備もなく、有馬記念で、倍率1.3倍の人気馬のラストランの鞍上を任されたのである。自分の大事なお金を賭けている競馬ファンは、負けた騎手に同情などはしない。容赦ないバッシングを浴びせるだろう。
それでも原西騎手は、平然な顔をして、クレイメルタのたてがみをなで、なだめている。何万人もの観客から一斉に浴びせられる冷たい視線に気付かないはずはないのに。まだ28歳の若武者にして、なんと立派な振る舞いだろうか、と柴村は感心する。
ブーイングが一気に歓声に変わったのは、まさに原西騎手がクレイメルタに跨ろうとしたタイミングだった。
電光掲示板が、黄色と黒の勝負服を着た椋原騎手の姿を映したのである。
「よっしゃ!!」
野口がガッツポーズをする。
「これで乗り替わりはなし。椋原騎手が鞍上のクレイメルタが無事に見れるわけだ。良かった」
椋原騎手は、クレイメルタの手綱を受け取ると、後輩である原西騎手にハイタッチを求めた。そして、平手を当てた原西騎手に対して笑顔を見せる。その笑顔に送られ、原西騎手は小走でトラックを後にする。
「ひやひやしましたね。今年の有馬記念はどうなることかと思いましたよ」
「予想外のことが起きるのが有馬記念だが、クレイメルタの乗り替わりは競馬ファンが歓迎する類のニュースではないな」
「そうですね」
まさかこの年の有馬記念が、競馬史に残る悲劇の舞台になろうとは、柴村も野口も、おそらくこの競馬場にいる誰も予想していなかったのである。
今日は桜花賞ですね! どの新聞も印を付けていませんが、スマイルカナ推しなので単勝で買います。