私の「死者の書」「死の哲学」映画 大霊界 死んだらどうなる?死んだら驚いた?死んだら生まれ代わる
その昔、
丹波哲郎の「大霊界」ブーム?がありましたね?
宜保愛子の霊能者ブームと相まって
霊能者・霊界ブームの
両巨頭?だったのです。
両氏とも著作はたくさんありますが、
私がいまでも強く印象に残ってるのが
「丹波哲郎の大霊界 1 死んだらどうなる」という映画です。
言わずと知れた霊界の代理人?丹波哲郎氏の
霊界映画ですね。
シリーズ化されましたが、、1から3まであります。
その第一作は
何というか、、こういってはほめ過ぎかもしれませんが
「チベットの死者の書」や「エジプトの死者の書」に迫るというか
これはいわば「日本の死者の書」と言っていいのかもしれません。
私はそのビデオを持っていて暇があると、何度も見ているのですが
その都度、感心しますね。
さすが「霊界の代理人」?を自称するだけはあります。
映画の内容は、奇怪さやグロはゼロです。
今風に言えばファンタジーです。
ところで、、
大霊界というこの映画、幻想的な場面ではいかにも日本的で
なんか懐かしいような風景が広がるのですが
蛇の目傘が何百本もいっぱいに広がる大草原の場面なんか大好きです。
シリーズの2・3は、、やや2番煎じ?感は否めませんが、、、。
さてこの第一作「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」
を、下敷き?にして、これから私の独自の見解も交えて。、これから
霊界を考査しご案内してみたいと思います。
なお、わたくしの独自の見解も交えております。ただ、丹波氏の見解をそのまま、祖述しただけではありません。
つまり、、たんなる、、、「映画解説」「映画レビュー」ではないです。
というか、、いっそのこと、「すべて私の見解です」といったほうが良いのかもしれませんね。
それでは、、、、映画「大霊界1」を下敷きにしての私の「死者の書」「死の哲学」パート1の始まりです。
☆映画 「丹波哲郎の大霊界 1 死んだらどうなる」 私の 「死者の書1」
人だけが死を意識して、いきています。
自分が死ぬということが分かっているのは人間だけです。でも?
人はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは死とはどんなものか知らないからなのです。
では死の真実とは何でしょうか。それは驚くような真相だったのです。
1、死はすべての終わりではない。人が死ぬと、人の魂は幽体となって死体を抜け出す。
2、人は死ぬと、幽体となって死んだ肉体を抜け出して細くて狭い空洞を通って
まず、精霊界に行く。そこには死んだ人々がたくさん住んでいるのです。あなたの先祖や親類もいます。
精霊界はほぼ地上界と同じ風景である。自然な風景がひろがっているのである。そこでしばらくは暮らすことになる。ただし、生前の世界にすごい執念を持ってる人は自分が死んだことも気づかず死んだ場所にしがみついてる場合もある。これを地縛霊と言う。そういう地縛霊もやがて自分が死んだことに気づき精霊界へと、順路をたどる霊もあるがそれは少数である。ほとんどは死んだ場所にしがみつき死んだことも悟らずに我欲に執着したままとどまるのである。我欲の霊はほとんどは死んだ場所にしがみつき死んだことも悟らずに我欲に執着したままとどまるのである。素直に死を認め受け入れたた幽体は次の階梯(精霊界)へと進むである・。
3、死んで幽体になると生前の記憶はすべてそのまま残り、かつ、生前障害のあった人の障害は
すべて取り除かれて盲目の人は見えるようになり体の不自由な方はすべて健全となる、
というのは、精霊界では、五感は完全だからである。英語とかドイツ語とか
すべてが話せてかつ分かるようになる。というのはコミュニケーションは
すべてテレパシーだからである。もちろん肉体はないから、食事も不要だし、意識だけの霊体の世界である。
4、精霊界では、死んだ友人や仲間、親戚、両親などすべての人々の霊体と再会できる。
5、生前の欲望はすべて消え去るが、愛欲だけが残りかつ、自由になる。と言ってもすべてが幽体の仮想快楽ではあるが。
6、精霊界では、すべてが望むままになる。心で念じればすべてその通りになる。家を建てたいと思うとあなたの望みの家がそこにできる。
7、精霊界では、良くも悪くも本性が丸出しになる。罰もない、あなたは自由そのもの。
8、こうした精霊界で、しばらく暮らしていると、やがて大きな山脈が現れる、幽体となった人間は
不思議とその山にひきつけられてゆく、すると山は割れて巨大な亀裂が現れる。その割れ目からあなたの指導霊が現れる。そして霊界への道筋を諄々と説いて聞かせるのである。指導霊は山の割れ目の向こうの霊人の村へとひとまずはあなたを導かれる。
9、その霊人の村は同じような趣味嗜好の霊たちが集まっている、だから霊の趣味嗜好によっていろんな村ができている。その村では、幽体たちは趣味を自由に楽しみまた村は同じ趣味嗜好の人ばかりだから楽しくって仕方がない。だからこの村ではもう二度と人間界には戻りたいとは思うものなどいないのである。
10、しかし、ここで過ごすことおよそ100年にわたると、生前を振りかえり反省して霊的進化したものは、もう人間界に戻る意味はないということで、霊界へと行く準備をするのである、だがその幽体のカルマによっては、もう一度人間界へ帰って修行し直し、出直して来るほうが良いだろうというものも出てくるのである、
このまま霊界へ行ってしまったら、し残してて来た修行があるという人々だ。そういうものはある日再び人間界へと帰ってゆく。
つまり人間として再び生まれかわるのである、今度はどの両親のもとに?今度は女のこ?それとも男の子として?今度はアメリカ人として?それともインド人として?生まれ変わると決まったら意識と記憶は消去されてあなたはどこかの母親のもとに誕生されてゆくのである。
11、さてこの精霊界でもうすでに人間界での修行をし尽くしたという進化した幽体はそのままある日、霊界へと指導霊に導かれて、旅立ってゆく。霊界とはもはや転生のない、永遠の世界である。
このようにその人の霊的進化の程度によって、ここ精霊界で二つに振り分けられるのである。
霊界へ行く人と、再び人間界へ帰ってゆく人と、、。
11、ところで、人間界で、悪行の限りを尽くしたものや愛に背いて、人を見殺しにしたもの、あるいは、。自殺者の霊などは、人間界での修行放棄ということで、特別な場所に追いやられるのである。そこで1000年でも万年でも、さまよう。その場所を「地獄」という。地獄にはそういう悪の霊体が好んで集まってくる。ただしあなたが思っているような地獄には鬼もいなければ閻魔さまもいない、あなたの心そのものが鬼であり閻魔様なのであるから。そうして何万年もたったある日、あなたはやっと事情自縛のループ地獄にいることに気づき、われに返って、精霊界にたどり着く人もいいる、が、、、ほとんどの地獄の住人は全くループ地獄に気づかずに堂々巡りで過ごすのみ。
12、つまり、生前の生き方がほとんどすべて、死後の霊界での世界を決めてしまうのである。
普通の平均的な人間は死ぬとまずは先祖霊や指導霊に導かれて、精霊界へ行くのだが、
それはその人の魂の進歩の程度が、精霊界に行くのも、地獄に行くのも、その人がそうなることを望んだからそうなるという、それが死後の世界なのである。強制的に行かされるのではない。
つまり、、、
ゴキブリは暗くじめじめした世界が大好きですよね。そうして明るくて光の満ちた精霊界では目がくらんで生きてゆけないのです、だから暗くてじめじめした地獄を自ら選んでそこへ行くのです。誰が強制したわけでもありません。自分で地獄を選んだのです。光の世界へどうぞと言いてもゴキブリは「いやだ」と言って自ら暗くてじめじめした地獄に行ってしまうのです。なるようになる世界それが死後の世界なのです。
以上が死後の世界の真相なのです。
死の真相を知ったものはもはや死を恐れることはない。
そして死がやってくるまではあなたの良心に従って魂の進化を目指して命の時を過ごすのである。
こうして命を誠実に生きた人にとっては死は何ら恐れるものでもない。
こころ静かに死の時を待ちましょう。
さあ、あなたにもやがて死ぬ時が来るでしょう。
10年後?
それとも20年後?
いずれにしてもあなたは死すべき存在です。
遅かれ早かれいつかは死ぬのです。
それまでは命を大切に生き切るのです。
それが人間の使命なのですから。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
☆映画、「丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!」 私の「死者の書2」
私の見解を交えてのうえでの
「私の死者の書2」 です、
ただ単に丹波哲郎氏の見解を祖述しているわけではありません。
私の見解も十分、混じっています。
というか「すべて私なりの見解です」と言ってしまったほうが良いかもしれませんね。
さあそれではご一緒に死の世界探訪の旅へ、、
どうぞ。
それでは、、、、映画「大霊界2」を下敷きにしての私の「死者の書」「死の哲学」パート2の始まりです。
この映画冒頭、刑務所で死刑執行が行われます。
処刑されるのは、丹波哲郎が演じてる死刑囚です。
このシーン結構生々しいです。
するとアーラ不思議、幽体が抜け出して歩き出し刑務所の外へと、、。
「俺は夢でも見てるのか?」死んだことに気が付きません。
と、そこへ一台の囚人護送車が、、丹波氏がその運転席に座って乗り移り憑依して暴走運転を始めるのです、、、。
「大霊界1」よりもずっとストーリー仕立てになってるのでこれ以上筋を追うと
ただの映画解説になってしまうので、、この辺で、、、、、。
それでは「大霊界2死んだらおどろいた、」
私の解説とともに死後の世界へご案内いたしましょう。
1.死の自覚のない霊がこの世にはいっぱいいる。ごく普通の庶民はそもそも死のことなどふだん考えもしないから死んでも幽体となったとき、幽体の自分を生きてると思ってしまう。
2、この世には、古い霊もうようよいる。帝国軍人の霊はいまだに敗戦を知らずに戦い続けている。
3、幼児には霊がみえる、けがれなき幼児には霊が見えるのである。
4、霊の気配は誰でもうっすらと感じることができる。
5、指導霊、先祖霊が、死んだ人のもとに来て、さあ一緒に精霊界へ行きましょう」と案内してくれる
しかし現世に執着して死んだことを受け入れない幽体はなおも現世にしがみ付いて死んだ場所から離れようとはしない。そんな地縛霊がこの世にはうようよいる、そんな、さまよえる地縛霊のもとにも、精霊界へ行くようたびたび、お迎えが来る。
でも死んだことを受け入れない地縛霊は嫌がり死んだ場所から離れようとはしない。
あるいはもっと、暗い想念に沈んだ霊はおのずから求めて地獄界へと入り込んでしまうのである。
地獄とは自らが暗い想念で作り出したループ迷路のことなのだ、つまり地獄とはどこかのある所に実在するものではなくただ、あなたの心が作り出したものなのである。地獄に落ちたのではなくあなたはただ自分で地獄を蜃気楼のようにを作り出して地獄の夢を見ているだけです。あなたの心を向上させて魂の練度をあげなさい、そうすれば地獄は一瞬んで消滅するはずです。
6、さて、死を受け入れて指導霊に従って光の輪に沿って上ってゆくと、まばゆいばかりの光の中を、魂のトリップを経て精霊界へといざなわれるのである。魂のトリップは心躍るこの世では味わえぬような素晴らしい旅である。そこは香しい香気に満ちてる。いままで嗅いだこともないような香気に満たされている。
7精霊界はまばゆい光の国で目を開けていられないくらいなのである。そうした光輝に耐えられないような幽体は自ら暗いじめじめした地獄を求めて自分から地獄へと逃げてゆく。さて、精霊界にはすでに死んだあなたの家族が待っている。あなたは何十年ぶりかで死んだ家族と再会を果たすのである。だがそこにはいない家族も、、それはもうすでに高い境地に達して霊界に飛び去ってもう二度と転生の罠にはまらなくてもよい高級霊として精霊界を去って昇天してしまった人なのである。
8、死刑になったものも、ほんとに無罪なら精霊界へ行ける。それは死者の魂だけが自分が犯人ではないと知ってるからである。裁くのも、判決を下すのもここではあなた自身のスピリットである。精霊界では決して嘘は通用しないからである。
9、スピリットは精霊界で、生きてたときのことをまざまざとテレビでも見るように見させられる。
そこであなたは自分がなぜそのような人生を送ることになったのかというなぞの答えがわかるのである。あなたの今生の不公平も、不条理も、挫折も、成功も失敗も「ああ、そうだったのか」と心から、納得できる究極の答えがそこでわかるのである。
なぜあなたが死ぬことになったのか、それゆえの、前世のカルマも見せてくれる。
廻る廻るカルマの繰り返し、カルマから離脱するためには恨みを捨てて現世を夢と観じ魂の向上を図るのである。それしかないのだと、あなたは知ることになるだろう。
10、生きているとき、あなたは全く気付かないが、あなたの周りには様々な霊がうようよいる。だがそれが見える人はごく少数だ。そういう霊たちはこの世にしがみ付いてる霊がほとんどだからあなたを迷わそうとするだけである。
11、自殺者は自ら選んで死んだのだから当然天国へ行ける?と思われるかもしれないが、、実は、、自殺者はとんでもない地獄へと行くのである。それは現世という「魂の流刑地」での「魂の修行」を途中放棄したからである。現世で生きるということは実は現世という幻のオブスキュラを見せられてその幻の体験の種々相で魂の修行をさせられているのである。それを途中放棄したということは、また最初からやり直さねばならなくなってしまうからである。現世での不運も、栄達も、名声も、財産も、しょせんカゲロウにすぎません。死ねばすべて無に帰るのですから。いくら現世で大財産ため込んだか知りませんが、
その中の金貨一枚すらあの世には持ってゆけないのですよ。現世を深刻に考えすぎてはいけません、と言って現世を馬鹿にしていい加減に生きてもいけません。次々に現れるこの現世での試練にまじめに対応し続けなさい。と言ってあまりにも、深刻に苦悩しすぎて絶望してもいけません。
真剣に生きなさい、でも深刻に悩みすぎてもだめですよ。
12、現世とあの世は、裏表、、というか現世での諸相はあの世での諸相と密接にかかわっている。
あの世とは現世の裏返しであり、あの世とはこの世の写し絵?にすぎないのである。
13、精霊界でまだ、現世での修行が足りないと判断されると、再び人間界に生まれ変わる、
そのとき、魂はその修行にふさわしい場所(子宮)を選んで生まれてくるのである。
つまりあなたがどこに生まれるか選んで生まれてくるのです。
偶然はありません、すべて必然なのです、今生きてるあなたの、いやな両親も、悪妻も馬鹿息子も、それがあなたが現世で魂を磨くために必要だから与えられたのです。だが、、前世の記憶をすっかり消去されたあなたは「俺はなんでこんな両親のもとに生まれたんだろうもっと他の両親が良かったな」なんて寝言を言うわけですね。すべてはあなたが選んだ現世なのです。さてこの度の転生では、そこであなたはどんな修行をすることになるのでしょうか?そうしてそのときあなたはどんな態度をとるのでしょうか?
その結果についてはあなたがこの度の転生を終えて死んだとき、ゆっくりと点検?しましょうね。
それでは死があなたを精霊界へ連れ戻すまで、あなたはこの世で、魂の修行生活を真剣に送るのですよ、
でも決して深刻になってはいけません。真剣に生きるのは良いですが決して深刻に悩みすぎてはなりません。
結語
死は一切の終わりではない。
そして人生はただのカゲロウにすぎない。
人生に深刻になりすぎてしまって、絶望するのは愚かしい、
と言って人生を手抜きしてテキトーに生きるのもいけない。
「深刻になり過ぎずに真剣に生きなさい。」
そうすればおのずと人生の試練は過ぎてゆき
あなたはいずれ、死の時を迎えるでしょう。
死は心躍る冒険の旅立ちでもあるのです。
いたずらに死を恐れる必要はありません。
だってあなたはまじめに人生の試練という課題を
果たしてきたのですからね。
さあその時が来たなら
あなたは心躍る生の最後の大冒険へと旅立つのです。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
映画、「大霊界3 死んだら生まれ変わる 」 (私の「死者の書3」)
私の見解を交えつつ、死後の世界の探訪を
さあご一緒にどうぞ。
丹波哲郎氏の見解をそのまま祖述しただけではありません。私の見解も交えての死後の世界の探訪です、
というか「すべて私の見解です」といったほうが良いかもしれませんね。
それでは、、、、映画「大霊界3」を下敷きにしての私の「死者の書」「死の哲学」パート3の始まりです。
生まれかわるとは、いわば衣装を着替えるようなものです。
私たちは生まれ代わりを繰り返すのです。魂が本当に人生を学びそこから魂の進歩が向上するまでは。
生まれかわりのたびのそのまとう肉体は変わりますが
其の衣服(肉体)を着てるのは同じ魂です。
魂は幾度もまるで衣服を着替えるように、この現世に生まれ変わり
この世で魂の修行を繰り返すのです。
ある時は王侯貴族として、、
またある時は貧民の孤児として、、
私たちはそうしてこの世で修行を積んでゆくのです。
例えば
日本でも平田篤胤『勝五郎再生記聞』というものがありますね。
これを明治になってから小泉八雲が「勝五郎の事件」という記録として英文で発表しています。
そのおはなしとは、、
ときは江戸時代。勝五郎という少年がいた。なんと、彼は前世の記憶を覚えていたのだ、
「おらの前のおとうの名は藤五郎っていうんだ。」このことはやがて広まって、、尊ききやんごとなきところまで届いたそうである。
その調書をとる役人と同行して記録したのが平田篤胤だったのである。
そもそも生まれ変わりというのはあるのだろうか?
つまりは輪廻転生である。
私たちは誰だって人生の真実を知りたいと思っている。
人生の真相を知りたい
人生の意味を知りたい、
誰だってそう思っている。
平田篤胤、、日本霊学の偉大な宗匠です。彼は死の真相、生の真相を探求したのだ。
死とは怖い、、なぜ怖いのか
知らないからだ。死を知らないからだ。死とはいったい何なのか?わからないから怖いのである。
実は
死の瞬間とは痛くもかゆくもないのだ。
死んであの世に行くと、この世での障害も病気もすべて消え去り五体満足になる、というかより一層感覚が研ぎ澄まされる。誰にしても、幽体は完全だからである。それがこの世で生を受けて肉体の衣をまとうと、それぞれの肉体船のカルマに合わせて不完全になってしまうのだ。
ところであの世とこの世はまるで双子のように裏表だということをご存じだろうか?
あの世では、このよ、人間界での生きざまが影響するのである。
この世で
明るく生き、奉仕に生きた人には死後、精霊界での明るい生活が待っている。
ただし人間界で暗くじめじめと生きた人は地獄へ行く、それも強制されてゆくのではなく自分から進んでゆくという真相である。自ら望んで地獄へ行くというのが真相である。
あの世では類は友を呼ぶというそのままに、似たような霊体が集まって暮らすことになるのである。
人間界での所業で類によってそれぞれが集まって生活するのである。
ところで、
この世で悪事をするのは、あの世なんかないと思ってるからだ。
もしも、あの世があるとわかってる人はこの世で悪事をできるわけがない。
向こう(あの世)に行ったらどんなことが待ってるか。それがわかったら悪事など決してできないのである。
さて、、
あの世に行くと先に死んだ親しい人と再会できるのである。
あなたの来るのを彼らは今か今かと見守りつつ待ってるのである、
だから、
死は別離ではない、死は実は再会なのである。
ただしこの世であなたの修業を放棄して自殺してしまったらどうだろうか?
これは一番いけないパターンであり、あくまでも自然の死が来るまではこの世での修行放棄はだめです。
修行放棄したものにはあの世でも苦しいループ地獄が待ってるばかりです。
さてところで死は旅行にたとえられますね。そうです。、死は大旅行です
でも旅行といっても例えば、
ロンドンに行きたくなければ別に行かなくてもいい。
だが、死にたくないといって死の旅行を拒否することはだれにも、できないのである。
死という旅行ははすべての人間が行かなければならないのである。
あなたが死ぬとあの世ではまた再会できるといってお祝いするのです。
だがあなたが死ぬとこの世では死んでしまったと言ってこの世の友人親族は悲しむのです、
あの世から見たら死はお祝いなのです
この世から見たら死は悲嘆です。このように正反対なのです。、
「生まれたときにはあなたが泣き、周りは喜びに包まれる。
あなたが死んだときにはあなたは喜びに包まれて、周りが泣き悲しむ」
(ソロモンの知恵の書より。)
あの世があると知ればあなたは誠実に生きることができるのです。
この世の恨みも挫折もすべてカゲロウにすぎません。
明るく清く生きることこそが人生の唯一の目的なのです、
お金もこの世では多少は必要ですが、、大財産を、人を蹴散らして、蹴落として、見殺しにしてまで、作るのは無意味です。
なぜって、いくら巨万の富を築いてたとしても、あなたが、いざ死ぬときには、たった一枚の金貨すらあなたは死ぬときあの世に持ってはいけないからです。
生きてる時だけの「お金」の価値なのです。
死ねば札束も金貨もなんの意味もありません。
死体の上に札束載せてみてもなんの意味もないでしょう。
同様に、この世での名声も、財産も、人気も、権力も、お金も、この世だけでの価値でしかありません。
そんなもの死ねば、あの世に行けば、無意味・無価値でしかないのです。
では、、この世で(あの世でも)本当に価値があるものってなんでしょうか?
それは、、、
どんなときも、明るく
清く、まじめに事態に対応して
愛をもって生きるということだけです。
ほかに生きる意味も価値も実はありえないというのが、人生の真相だったのです。
そのようにまじめに送られた人生の先にはやがて
自然の死の時が来るでしょう。
そうしてあなたは幽体となってあの世に赴くのです。
それは今までの
どんな冒険よりも
どんな大旅行よりも
遥かに凌駕するような
死出の旅であることでしょうね。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
私の「死者の書」 1 2 3 おわり
☆おまけ
私が愛唱する「道歌」より、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
あの人も お前自身も もろともに ただひとときの 夢の幻
道歌
誰死んだ、彼が死んだと言ううちに、お前が死んだと人に言われる
道歌
あら楽し 虚空を家と 住みなして 心にかかる 家具調度もなし
道歌
すぐ消える露を哀れと思うなよ、そういうお前もやがて死ぬなり。
道歌
世の中は命の仮家、しばしのち、一人も残らぬ秋の夕暮
道歌
勝つ人も負ける人ももろともにただひと時の夢の幻
道歌
頭が良いとて威張るなよ。バカも利口も、もろともに、いずれ死ぬなり。
ちちははに呼ばれて仮に客に来て心残さず帰るふるさと
道歌
南観世音菩薩
南阿弥陀如来
南無文殊菩薩
南無摩利支天
南無大日如来
南無弥勒菩薩
南無妙法蓮華経
南無孔雀明王
南無地獄大菩薩
南無大宇宙大菩薩
有漏時より無漏時に帰る一休み、雨降れば降れ風吹けば吹け 道歌