沖合氷
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、どうしたこーらくん。授業についての質問かい?
――ふんふん、こんなに暑い日が続いたら、海の水かさが減ってしまうんじゃないか?
ほほう、なかなか面白いところに気がついたね。だが、外的要因がない限り、そのようなことは起こり得ないと考えられているんだ。
一年を通じて蒸発する水の量は、海と陸地を合わせておよそ500兆トン。それが雨や雪の形になり、降り注ぐ量もやはりおよそ500兆トン。プラスマイナスはゼロとなり、海の水がなくなるってことはないのさ。直接海へ落ちるか、川を下っていくか、地面にしみ込んだ水が流れ込んでいくかで、多少の時間差は生じるがね。
世の中は、上手くバランスを取ろうとする法則を持っている。同時にあるものは出るし、ないものは出せない。だから普段、起こっていない何かが目の前で展開されているのであれば、普段は存在しない原因がそこにあるってことだ。
昔話にも、日々の生活じゃなかなか見られない、怪奇な現象が伝えられる。それもまた怪奇を成す原因あったればこそ。ひとつ、海を巡る不思議な昔話を聞いてみないかい?
むかしむかし。盆が明けてから間もない、とある漁村にて。
ある日の満潮の時間が近づき、村に残っていた人々は浜の奥まったところにある、各々の家の中へと退避した。ここの海の波は早く、大人でも足を取られてさらわれる恐れがあるほど、危険なものだったという。そのためこの時間帯は、波が届かない家の中へいったん退避することが通例となっていた。
ところがその時は違う。ひときわ大きい波音が迫ったかと思うと、あっという間に家の壁から床全面に、水が広がった。人と家具の足を瞬く間に濡らしたそれは、紛れもなく海水。ここまで潮の手が伸びてきていたのだ。
にわかには信じがたいことだった。彼らの家は数百年前に先祖が建てたものを幾度も修繕しながら使っているもので、潮の満ち干についても計算に入っている。満潮時の水の手からおよそ3町(約320メートル)ほど離れたこの位置まで、水が届いたことは一度もなかったとのこと。
沖合で何かがあったのではないか。
そう村の者たちが噂をし出した翌朝、一隻の船が沖合から戻ってくる。屋根を取り付け、数日間の航海に耐えられるよう設計されたとの船は、ところどころに穴が開き、だいぶ傷んでいるように見えたらしい。
中には一様に顔を蒼白にして、甲板に横たわる3人の男たち。いずれもここを出る時に乗り込んでいた者で間違いなかった。その口の端には魚肉や海藻の一部がこびりつき、収穫らしい収穫はほとんど船に乗っていない。更に、船のあちらこちらに魚の骨と思しきものが転がっており、彼らがここまで戻る間に魚を食していたことは、ほぼ間違いない状況だった。
すぐに彼らは各々の家へ運ばれて介抱される。数刻後、おおよそ同時に意識を取り戻した彼らは、自分たちの体験をぽつりぽつりと話し出したんだ。
あの異常な満ち潮のあった日。自分たちはその日、なかなか魚が獲れずにいて、沖合で粘っていたんだそうだ。
すでに陸地は遠く離れて、日も陰り出している。今日はここまでにするかと碇を下ろして船内へ入ろうかとしたところで、ふと、船の前方に小さい山のようなものが見えたんだ。高さは乗っている船と同じくらいで、山のてっぺんのみが海中から姿を見せたかのような、とんがり頭をしていたという。
近辺の島について、ある程度把握しているはずの彼らだったが、こいつは初見。ことによると何か巨大な生き物の一部かもしれない。彼らは、しばらくは船を動かさず、自分たちもじっと息を潜めつつ、目の前の物体の出方を見る。
相手も不動。しばらくにらみ合いが続いたが、やがて彼らは小声で相談し合い、積み込んでいた「櫂」を使って、わざと音を立てて見る。
船体横の波打つ海面を、一回、二回。進むことを求めず、ただ音を立てるためのみに動かした。だが、相手の様子は変わらず。このまま時間を潰しても、辺りへ夜がますます暗く、忍んで来るばかり。
逃げるとしても留まるにしても、こいつの正体ははっきりさせておきたい。彼らは船内へ戻り、積み込んでいたたいまつにめいめいで火を点け、影に最も近づく船首に集まり出す。
火に照らし出されたのは、氷の塊だった。立ちはだかるその身体は、表面より数寸ほど続く透明な層を挟み、更に内側は真っ白に濁っている。
先日までは、このようなものは確認できていない。空から落ちてきたか、あるいはもともと海中にあったものが、背を伸ばしてきたのか。いずれにしても触らぬ神になんとやら、3人は船の碇をあげて、氷から距離を取ろうとしたんだ。
だが逆向きに櫂を漕ぎ始めてほどなく。火を掲げ続けていたひとりが、氷から白く色づいた煙が、立ち上り出すのを確認する。音はなくとも勢いよく吹き出続ける煙。それと共に、大いに汗をかき始める氷の表面。
漕ぐ手を早めるよう指示を出すのとほぼ同時に、立ち上っていた煙が形を変える。風もないのに中ほどでくねった煙は、先に空へ上っていった部分を首として、一気に折れ曲がった。ぐんぐん勢いをつけながら落ちてくるそれは、一気に3人の乗る船へ迫ってくる。
かわすことができず、煙に飲まれてしまう3人。瞬時に身体を凍えさせるほどの冷気に、手足がかじかんでしまって動かせない。霧中に取り残された時のように、一瞬先さえも白く閉ざされてしまった視界の向こうで、彼らは誰かが自分たちの名前を呼ぶ声を聞く。
どこか覚えのある声だな、と3人が思ったところで、があんと頭が大きく揺らされて、たまらずその場へ倒れ込んでしまったらしいんだ。
そして気がついた時には、この家の中だったという。どうやってここまで戻って来たのか、食したと見られる魚や海藻たちは、いつどこで調達したのかは、まったく覚えがなかったのだとか。
ひとまずは家族と無事を喜び合い、その日はゆっくりと休んだ3人だったが、翌日からややおかしなところを見せ始める。
まず、彼らの食の好みが変わったところ。以前は3人そろって寝ても覚めても焼き魚を好み、それ以外には進んで手を出さなかった彼ら。
それが今では、釣り上げた魚にすぐさまかぶりつき、自分から海の中へ潜って海藻を取ってきてこれも生で食べてしまう。これまでの彼らから想像できない、食べっぷりだったという。
次に、ある道具の所在を尋ねてきたこと。それは銛だったり首飾りだったりしたが、そのあたりに用意してあるものでは満足しない。特徴を尋ねてみると、いずれも彼らの亡くなった祖父母が使っていたものだった。
この辺りでは、故人が生前に愛用していたものを遺体と共に葬る慣習があったから、いずれも土の中。それを聞いた彼らは、迷うことなく墓地へと足を向け、意図を察した村人たちが止めに入る。
こんこんと諭していったんは引き下がらせたものの、皆が寝入った一夜が明けてみると、彼らは件の道具たちを手にしている姿が見受けられた。墓に関しても元のように戻されているが、明らかに掘り返されたような跡がある。村人たちが追及しても、これは自分たちのものだといって、はばからなかったとか。
最後に、自分の名前を呼ばれても反応しない時が、明らかに増えた。あえて無視しているのかとも思えたが、ふと、ある者が別の人の名前を呼んでみる。それは彼らが身に着けるものを、生前身に着けていた故人の名前たちだ。
すると三人ともが、一度で反応を示した。その返事の時の声音は、あたかも本人のようだったという。そして村には相変わらず、家の中にまで深々と波足が入り込んでくる晩が続いていた。
彼らが故人に憑かれている。村人たちは相談の末、夜中に寝ている彼らが暴れ出さないようにふんじばり、村で一番大きな船へ乗せる。その後、村の祈祷師を含めた何名かが線香を持って乗り込み、火を灯しながら海へと出たんだ。
彼らが意識を取り戻した時に聞いた話で、だいたいの位置は見当がついている。船底に寝かせた彼らの動きがないかどうか確かめつつ、先へ進んでいく一同は、やがて聞いていた通り、沖合に浮かぶ氷を発見する。
祈祷師の指示通り、氷にくっつく直前で横づけにされた船。乗っていた者は持ち込んだ線香の束に火をつけると、各人に行き届くように小分けにしていく。それらを手に取り、船のへりに立つ彼らは目の前の氷に対し、煙を吐く線香を高々と掲げた。
10数人分の線香の煙に巻かれると、とたんに氷の表面に水の粒が浮かぶと共に、自らも煙を出していく。同時に、船全体も大きく揺れ始めた。
縛って船底に転がしていた3人が、にわかに激しく暴れ始めたんだ。その力はひとりに着き、数人で抑え込まなくてはいけないほどだったらしい。そして彼らの身体からも盛んに白い蒸気が湧き、船体のすき間を通って、船べりに立つ皆の足を抜けながら空へと逃げていくのが確認されたとか。
急激にその背を縮めていった氷は、小半刻(約30分)が経つ頃にはすっかり溶けてしまい、海中からしぶとく立ち上っていた煙も、途絶えてしまう。ほぼ同時に船の揺れも完全に収まり、暴れていた3人がおとなしくなったことを示していた。
村に戻って意識を取り戻した彼らは、自分たちのしたことに恐れおののき、すぐさま遺品を墓の中へ戻して、皆へ大いに詫びを入れたという。その晩以来、波が家の中まで届くほど伸びてくることもなくなった。
きっとあの氷の中に、盆に帰りそこねた故人の魂が入っていたのだろうと、村人たちは口々に噂をしたそうな。