2・共に、逃れ・1
「おお! リラ姫!! ご無事で何より!! このエオス、知らせを聞いたときは飛んで行こうと思いましたぞ!!」
実際は飛んでこなかったリラの婚約者は、うんざりする彼女に気がついていないようだった。
「どれほど心配したことか……太陽より遥かに大切なわが姫君よ、月よりなお美しいわが花嫁よ、私がどれだけ心痛めたかご存知か」
芝居がかったセリフである。自分に酔ってもいるのだ。酔えるだけの外見でもないのに、本人はそれに気がついていない。回りも気がつかないように接している。
ようはリラと変わらないくらいの世間知らずというわけだ。
もっとも、リラは近隣国一の美女。三拍子男はそれこそ彼女とつりあうような容姿ではないが。
「リラ姫、お怪我はございませんか? ああ、もしあなたのお体に傷がつこうものなら、私はあなたを傷つけたものを地の彼方までも追いかけ止めを刺すだろう。奈落の魔物すら恐れるような怒れる戦士と化すだろう」
いい加減にして欲しい。リラは正直にそう思った。セリフは立派だが、実際に行動を起こせるような人間ではないことをリラは知っている。
この王子、エオスは知識がなく武力もない。良いところを探せと言われれば、リラは少なくとも数刻は悩み――結局本人の力や才能とはあまり関係ない家柄という結論しか出てこないだろう。
これ以上付き合うのははっきり言って苦痛だった。二度も襲われたのはこの王子ではなく、リラなのだ。疲れているのも彼女である。
それなのに王子は過剰な心配の言葉と、有り余る恋慕の思いを長々と口にする。止まる様子はない。
「ありがとうございます。お気持ち嬉しく思いますわ、エオス様」
にっこりと微笑みかけ、その美しさにエオスがぽ〜っとした瞬間に、
「ああ、そうでしたわ。わたくしを助けてくださった方がいらっしゃいますのよ。わたくしったらその方にまだろくにお礼も述べておりませんの。なにせあのようなことがあったでしょう? とても怖くてそれどころではありませんでしたのよ。わたくし、お礼を言わねばなりません」
なるべく口を挟めないように言ってのける。
「それでは、失礼させていただきますわね」
そそくさとラディをだしにして、ダメ王子から逃げた。
口実とはいえ、口に出した以上、形式的にせよ礼を言うべきだろうと少年剣士を探すと、彼はとうに閉まった門のところでなにやら騎士たちに止められていた。
時刻はもうすでに夜の帳が下りていて、辺りは月が静かに照らしている。危険だと止めている騎士たちに対して、ラディは無理にでも出発するつもりでいるようだ。
城に滞在するつもりは微塵もないらしい。
「一日の滞在くらい許すわ。夜は危ないでしょう」
何せ彼はまだ十歳。夜歩きをさせて安心という年齢では到底ない。彼がいくら強くても夜は危険だ。リラとてそのくらいの分別はある。
子供は護るべきものだ。昼間は逆に護られてしまったが。
「お心遣いはありがたいのですが結構」
その子供はにべもなく断った。言葉遣いは一見丁寧だが、取り付くしまも無い。
ここに着いたときに騎士たちが、礼をしたいといくばくかの金貨を渡そうとしたのもラディは受け取らなかった。その上、これだ。
かちぃんときたリラである。一体この少年は何が気に食わなくてこれほどリラを拒むのか。
リラは他人にこんな態度を取られたことがない。これほど彼女の存在を意に介さない人間など今までいなかった。
聖王国ファージの姫であり、美しい彼女を誰もが敬い、褒め称えるのに。
こんな態度を取った人物を初めてみたゆえに、余計に腹が立ち嫌がらせしたくなった。
「あらご遠慮なさらずに、小さな剣士様。命の恩人ですもの。丁重におもてなしして差し上げますわ」
ことさら強調してそういってやった。これを断るのは相応の理由が必要だろう。
ちょっと用事を思い出して、ぐらいの理由では退出は許さない。
案の定、ラディは絶句したようだった。彼にはこの姫が何故ここまで自分に執着するのかが分からない。
リラは多量の腹いせと、多少の好奇心をラディに対して持っているのだが、そんなことまでラディには分からない。
わずかな時間考えた。どうやってこのお誘いを、つつがなく、角も立たせずに断るか。
やがて彼は愛想笑いを浮かべて、こう言った、
「いえいえ、『命の恩人』とはおこがましく存じます。すぐに出発いたしますので皆様のお手をわずらわせることもありません。暖かいお気持ち『だけ』! ありがたくうけとらせていただきます」
意識してわざとらしいまでに丁寧に言ってやる。
これ以上ここに長居したくないんだよと言ってやりたかったが、そうするとまたいろいろ言われることになるのが分かるのでやらない。
とにかくもう、ここから去りたい。城に着いたのだ。充分役目は果たしたと思う。
いくらなんでも城内で刺客に襲われる可能性は低いだろうし、警備の人間もたくさんいる。
ラディが残る理由は無い。あるとすれば……子供の夜歩きを心配する大人の常識くらいだろう。
それも別に無くていい。ラディにはストームと言う相棒がついている。
そこらの大人よりずっと頼れる相棒がいるのだ。
「では」
リラが反論を考えている隙に、ラディは去ろうとしたが、門を開けてくれと門番に言った瞬間、阻まれた。
「おお、そなたがわが最愛の姫を助けた勇気ある童か。私からも礼を言うぞ。何せリラ姫は近隣一の美女、ましてファージ国の姫君であり、私の大切な花嫁となられる方だからな」
リラの婚約者、エオスがリラを追ってやってきたのだ。
「それにしても本当に幼いな、それでいてものすごい腕前だと聞いたが、まぁ私にはかなうまい。何せ子供だからな、私の剣の腕とてなかなかなのだぞ、夜が明けたら一度手合わせしてみるか。リラ姫に私の腕前をお見せするいい機会だ」
うんうんと一人勝手に頷いている。腕前がどうの言っているが、どう考えてもこの王子がラディより強いということはないとリラは知っている。
リラは冷たい目線で王子を見、ラディは反応に困っている。一目で弱いと分かるこの王子と手合わせするつもりなど少年には毛頭ない。それ以前に、今まさに立ち去ろうとしていたところだというのに。
「この剣を見よ、これはかの名匠レイギオンのものを真似て作らせた名剣だ。美しい輝きであろう。剣を持つものなら誰もが欲しいと思う名品だぞ。ふふふ、そうか、うらやましいか?」
腰の剣を指して、王子はラディにそう自慢した。剣の柄と鞘は宝石がごてごてついていて、かえって邪魔そうである。どう見ても実用よりは装飾品だ。
外側だけ見てもラディには欲しいとは思えない。刀身を見たわけではないからなんとも言えないが……おそらく中もたいした品ではないだろう。
多分、いいように言いくるめられて造ったものだろうという想像はつく。この王子を騙すことほど簡単なことはないのではなかろうか。
「リラ姫を護った褒美にこれと同じものとはいかぬが剣でも宝石でも持っていくがよい。なぁに私は狭量ではないのでな、小さなことは言わぬぞ。感謝するが良い。私は度量の大きい男だ」
自分で言うか……リラもラディもそう思った。
それにしてもよく口の回る男である。喋る内容がまた薄いのが聞いていてさらに苦痛だ。周りにいたものはうんざりしている。
ラディなど早く立ち去りたくてあからさまに表情がゲンナリしているというのに、王子は全く気がつかない。ただひたすら喋り続ける。
自分の自慢と、リラの美しさと、自分がどれだけリラを愛しているか、彼女を大切に思っているか、どれだけ必要としているか、などなど。
……拷問かな、これ? おれ、こんな拷問受けるくらいのことしたのかな……ラディは遠い目をして先ほどまで元気よく彼に噛み付いてきたお姫様を見る。
リラも似たような目をしていた。彼女が指示してやらせている嫌がらせではないらしい。
むしろ彼女もラディと同じような心境に陥っているのではなかろうか。
周りに視線を走らせてみる。
――騎士たちは死んだ魚のような目をしていた。
ああ、たいへんなんだなぁ、このひとたちも。ラディはぼんやりそう思う。
王子はまだ何かいろいろ喋っている。すでに内容は耳に入ってこないというか、聞きたくないので遮断しているというか。
「……ということでな、童よ、寛大な私は滞在を許すぞ。喜ぶがいい」
あれ。何か今言われたような。
「だれぞこの童を寝室へ案内してやるといい。よかったな、童よ。そなたが見たこともないような豪奢な寝室を使わせてやるぞ」
えーと。なんか言ってる。
「なにをしておる? 馬から下りぬか。おい、この馬を厩舎へ入れてやれ。うむうむ、安心しろ童、食事も最高のものを用意させるのでな。腹いっぱいにものを食したことなどないであろう? 存分に食べるがよい」
ラディはぼんやりと思った。
なんかおれ、ここに泊まることになってる?
ぐいぐいと王子に引っ張られ、聞き流すのにも疲れてしまっているラディはストームから引きずりおろされた。
「いや、えと、あの」
「遠慮は要らぬぞ、たっぷり休むがよい」
ラディが出発する機会とその気力は失われてしまったようだ。
三拍子男の舌、おそるべし。
ラディが思考を取り戻したのは、豪華な寝室に入ってしばらく経ってからだった。
……夜逃げしたろか。
思考を取り戻すなりまずそう考えた。食事の味も覚えていない。
まともな思考状態で味わったのならさぞ美味だったのだろうが、あの王子と同席で楽しい食事などありえない。
えんえんと自慢話と一方的なノロケを聞かされて、食事ははっきり言って苦痛だった。
同席していたリラも嫌そうな顔をしていたから、どうやら婚約者といっても仲は良くないらしい。王子のほうが一方的にリラに惚れているのは嫌でも分かった。あの長話を聞かされては理解するしかないからだ。
地位のある女性にありがちな政略結婚というやつなのだろう。
「ちょっと気の毒だなぁ……」
性格はともかく綺麗なお姫様だとは思うので、同情は覚えた。好きでもない相手と結婚させられるなんて、自分ならとても嫌だと思う。
リラは我慢しているようだ。わがままなお姫様でも、できないことがあるのだろう。
あきらめていることがあるのだろう。
「まぁ、おれには関係ないけど」
今晩ゆっくりと眠って、明日の朝になったらここを発つ。それでもう関係はなくなる。
あの姫も、明日になったらもう無理にラディを引き止めたりしないだろう。ストームも今夜はゆっくり休める。ラディと離れ、馬小屋に入れられているのは不本意だろうが。
室内を見回す。一言で言えば豪華な寝室だ。飾りすぎて目に辛い印象がある。昼間ならなおさら目にうるさいだろう。
こんな部屋で休んで疲れが取れるのかと疑問に思ってしまうくらいだ。ごろんとベッドに仰向けに転がった。ふかふかで、お日さまの匂いがする。ちゃんと干してある匂いだ。
それは気持ちがいいのだが、ベッドがちょっとラディには柔らかすぎる。
体が沈み込むようなベッドで眠ったことなどない。
「ま、いいか。寝よ」
さすがに疲れている。体力的にはともかく、精神的に疲れた。意に沿わぬことばかりの一日だったし、なによりもあの王子の話に疲れた。
アレをもう一度聞かされるのなら今すぐに出て行く。
……明日は朝一番に出て行こう。あの王子が起きてくる前に、ぜったい出発する。ラディはそう心に決めて、寝支度を始めた。
剣を枕の脇に置き、バンダナを外して上着を脱ぎ、靴も脱ぐ。ベッドの脇のサイドテーブルにまとめて置いた。剣だけはそばから離さない。
それで寝支度は終了。
ラディは目を閉じて、快い眠りの波が押し寄せてくるのを待った。
婚約者登場。チビッコ剣士、為すすべなくお泊り決定。