1・危機に、落ち・3
その少年を眺めて、リラは礼を言うべきだろうかと迷った。また助けられてしまったのだ。いくら何でも一度くらいは礼を述べるべきだと思う。
頬を張ったことも詫びるべきだろうか。
でもアレはこの子が無礼だったからだし、自分に落ち度はないはずだ。
それでも、命の恩人には違いないしと、悩んでしまう。
とんちんかんに悩んでいる世間知らずの姫が考えているより、状況は遥かに深刻だった。
馬車も馬も暴れ狂ってどこぞへ行ってしまったのだ。
残っている馬はラディの愛馬、ストームだけである。まさか姫を歩かせるわけにはいかない。人数もいる。どう考えても馬車か馬は必要だった。
しかし、指示すべき護衛隊長は先ほどの戦いで息絶えている。他にこの場で一番指揮をするにふさわしいのは、姫の護衛をするセリアだ。仕方なく彼女はラディに話しかけた。
「その馬を貸してくれ。近くの城か町で馬か馬車を調達してくる。無論、お礼は弾むわ」
急がねばならない。また刺客が襲ってくるかもしれないのだ。
ラディはちょっと眉を寄せた。急ぎだということは彼にも充分に理解できるのだが、
「……それ、おれが行ってくるのはダメか」
あまりストームを貸したくないらしい。
「だめ」
止めたのはリラだ。
「あなた逃げるかもしれないし」
これだけ嫌ですという顔をされれば、腹も立つし逃げるのではと疑いたくもなる。ここで置いて行かれればリラたちに待っているのは絶望の死だけだ。
馬や馬車を調達するには金がいる。それをこの少年に預けるのは勇気がいる。
さっき逢ったばかりの子供を信じて全て預けろというほうが難しい。
「べつに逃げたりしないよ、おれ」
心外だと言いたげにラディはむくれた。そういう表情は年相応に見える。
「セリアが行けばいいわ」
リラは取り合わなかった。生意気な子供より、普段からの護衛のほうがよっぽど信用できる。
「ケガ人はだめだろ。のんびり行くならともかく、急いで馬を飛ばしたら死んじゃうぞ。このおねーさんのケガけっこうひどいから」
腕をかなり深く斬られている。出血は治まっているようだが、無理をするとまた出血するだろう。
「そうなの?」
それすら分からないリラはセリアに向き直った。セリアは気丈に答える。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫って言ってるわよ、大丈夫でしょう」
だから馬を貸しなさい、と要求する姫にラディは強く息をついた。
「あのなぁ……ヒメサマ? アンタに仕える人が、アンタに大丈夫かって訊かれて大丈夫じゃないって答えられると思ってるのか?」
言葉遣いや礼儀が云々と騎士たちが注意するよりも早くにラディは怒りを向けた。
「上に立つものとして、もう少し考えろ。護られるばかりじゃなくて、下のものを護ることも少し考えろよ。あんたがわがまま言わなかったらこんなところで襲われたりしなかったんだ」
「なっ……!」
「見てみろ。何人死んだ」
ラディが指す先。横たえられる騎士と侍女。失われた命。
「戻らないんだぞ、あの人たちは」
金色の瞳が怒りを湛えてリラを射抜く。
「それが当然とか言ったら、おれは軽べつするからな」
ひとのいのち。それに重いも軽いも無いと。
リラは言い返せなかった。少年の言葉に言い返すことができなかった。
たった十歳の少年に反論することもできなかった。
「……君の言いたいことも分かるが……今はそれどころではない。我々は姫様をお護りせねばならんのだ。そのために命を懸けるのならば光栄なこと」
騎士の一人が割って入った。
「……馬を貸してくれ。私が行こう」
セリアではなく、多少のケガで済んでいる自分が行くとその騎士は言った。そうまで言われてはラディに拒む言葉はない。
「……乗れるなら、かまわないよ」
ため息混じりにそういった。
ほっとして、騎士がストームに近付くと、ストームはすっと身を引いた。嫌がっている。
「我慢してくれ、皆のためだ」
そう言いながら騎士はストームの背に飛び乗ろうとした。途端にストームは暴れだす。
あまりにも激しく暴れるため、騎士は耐え切れず振り落とされた。
ラディが乗っていたときはあんなにおとなしかった馬が、ほかの者には容赦がない。
「……ひょっとして、とても気難しい馬なのか?」
背中を打ち、呻いている同僚を助け起こしながら、ほかの騎士がラディを見る。
少年は困ったような表情で、
「まぁ……ね」
と言いずらそうに、もごもご答えた。
だから『乗れるなら構わない』などと奇妙な言い回しをしたのだ。ストームは明らかにラディ以外の者を背に乗せることを拒否している。
何度挑戦しても、誰が挑戦しても同じだった。
「知ってたなら先に言いなさいよ!」
リラに怒鳴られて、ラディは不満げに眉を寄せた。
「だから最初に言っただろ、おれが行っちゃダメかって」
「この馬が気難しいなんて言わなかったわ」
「ケガ人に行けって言うようなヒメサマに言われたくないな」
目を合わせもせずに姫と少年剣士はちくちくと口論する。もはやそれを礼儀がどうこう言って止めるものはいない。二度も命の危機にさらされて、それだけの精神力がもうないのだ。どちらの危機も、救ったのはこの少年剣士だということもある。
「仕方ない……この子に頼むしかないでしょう」
セリアは折れた。ストームに乗れるのがラディだけだと分かった以上、この少年に託すしかない。
「とりあえず、お金は渡すから、近くの城か町……村でもいい。できれば馬車を調達してきて。姫様を歩かせるわけには行かないの」
「村なら最悪、農馬しかないかもしれないよ。それでもいいか?」
「……できれば馬車をお願い」
金貨の入った袋を受け取って、ラディはストームの背に飛び乗った。騎士たちが乗ろうとしたときと違って、ストームは暴れるそぶりさえ見せない。
「あんまり期待するなよ。やせた馬しかいないかもしれないから」
言って小さな剣士は相棒とともに駆けていった。
森の中の道を駆けながら、ラディは忌々しく舌打ちする。
これでもかといわんばかりの厄介事に首を突っ込んでしまった。
命を狙われているという状況をわかっていないわがままなお姫様。
それを護るというにはあまりにも弱い騎士たち。
いくら平和な時代が長く続いているからといって、あの騎士たちのありようはどうだ?
「あんなんじゃ竜聖母がなげくよな」
この大陸を、この国を、見守り続けている神様。
全ての命を愛し、慈しむ、優しい竜の神。
今は伝説の中でしか人々は覚えていないその存在。
おとぎ話の中にしか、信じられていない神様。
「なぁ、ストーム。おれって親孝行だよなぁ」
呟きに答えるものはなく、その意味を問うものもいない。
少年剣士と相棒は風のように駆けてゆく。
小さな背中に、いまや一国の行方がかかっている。
とにかく森を抜けなければならない。馬車か馬。それも上等のものは望めないだろう。
ただの農村に、一国の王女が乗るような馬車などあるわけがない。
ラディはこの近辺の地図を思い浮かべた。森に入る前に地図には目を通して大体を覚えてある。確かあの姫様の婚約者が持っている城が近くにあったはずだ。この辺をのんきに通っていたということはその婚約者のところにでも行こうとしていたのではないか。
だとしたら近辺の村に行くより、そっちの城に行ったほうが面倒は少ないだろう。
何せラディは子供なのだ。彼のどこをどう見たって子供である。
大金を持って馬車をくださいとそこらの村で言ったら、かえって面倒なことにもなりかねない。
下手をすれば、身包みはごうと考えるものもいるかもしれない。その場合は返り討ちにするだけの実力があるが、今は時間との勝負だ。面倒は極力避けたい。
時間がかかればかかるだけ、三度目の襲撃の可能性が高くなる。
「よし、ストーム、城へ行こう。婚約者の危機って言ったらいくらなんでも協力してくれると思う」
何せファージの王女様は傾国の美女と言われている。そんな相手が危機に陥っていると知ったら、婚約者でなくても男なら助けようと思うだろう。
あいにくとラディはまだお子様で、美しい姫を助けてむにゃむにゃなんて打算よりは、さっさと厄介ごとから開放されたいとの一心しかなかったが。
わがままお姫様と苦労性な十歳児。頑張れ男の子。