4・共に、戦い・1
「御印がないだと!?」
貧相な口ひげの、さえない中年男が声を荒げる。その眼前には、脅えた表情の侍女たちが膝をついていた。
「まことなのか!? よく調べたのだろうな!」
「は、はい。間違いありません。御体のどこをお探ししても御印らしきものはございませんでした」
恐る恐る報告した侍女を、男は蹴りつけた。腰の装飾華美な剣を引き抜きつきつける。
「嘘はためにならぬ。命が惜しくはないのか」
青ざめ、震えながらも侍女は答える。
「わ、わたしは嘘をついてはおりません。御印はほんとうにどこにもお持ちではありませんでした」
男は無言で剣をその侍女の喉に押し込んだ。目を見開いたまま、侍女はごぼりと血を吐き、倒れる。血にぬれた剣を、ほかの侍女に突きつけ、男はなおも言った。
「このようになりたいか」
目の前で倒れ、絶命している女を踏みつける。
「死体となりたいものは嘘をつき通せ。私が欲しいのは御印があったという報告だけだ」
侍女たちは震える声で申し立てた。自分たちは嘘などついておりません、御印は本当になかったのです、と。十人近くの侍女の申し立てだ。目の前で一人殺されているのを見て、なお嘘をつくとも思えない。
「……よかろう、あくまでも嘘をつくというのなら、この場で皆斬り捨ててくれる!」
男は信じない。激情に駆られ剣を振り上げたその時、
「……嘘はついておらぬようだ」
部屋の隅で影が動いた。漆黒のローブをまとった老人がそこにいる。
少しも動かず、呼吸すらしていないと思わせるくらいにじっとしていたため、影とも見間違えるような老人。
「落ち着きなされ……御印があるかどうか、姫君自身に問えば良いこと」
一滴の好意すら感じさせない声だ。
「……だが、姫はまだ術の中におるのだろう」
男は傲慢な態度を少し改め、そう聞き返す。ホッホッホ、老人は奇妙な笑い声を上げ、
「術などわしの指先一つ、一声でどうにでもなるもの。魔道というものは困難に見えて簡易なもの。用意に見えて至難なもの。公が気になさることはありますまい」
「そ、そうか」
男は明らかに老人を恐れていた。それを悟られぬようにわざとらしく咳払いをして、剣を納める。
「では、姫のご機嫌を伺いにゆくとするか」
ギクシャクと歩き出したその後に、老人が続く。
重い音を立てて扉が閉まると、侍女たちは泣き崩れた。
「ああ……姫様……お可哀想に……」
「なんてこと……公爵様がこんなことをなさるなんて……」
静かな泣き声はやがて祈りへと変わった。
「竜聖母様……どうか姫様をお護りください……」
竜の大陸、竜の国、ファージと呼ばれる大きな国で、反乱が起こったのはつい昨日。
『竜聖母』の加護を受けるといわれるこの国を、汚そうとする私欲の者。
反乱の首謀者は、公爵位を持つ貴族、グローネス公。好色で名高く、前々から美しい姫を手に入れたいと思っていた貧相な口ひげを生やした中年男。
だが、この男だけでは反乱は成功しなかっただろう。何度もの襲撃をものともせず、姫を守り抜いた剣士がいたからだ。
邪魔で仕方なかったその剣士を排除したのは老人タタラ。得体の知れぬ不気味な老人は数少ない魔道使いであった。強力な力を人を救うためにでなく、己が欲を満たすために動くグローネスに貸し与え、老人は剣士を害した。邪魔はもうない。
反乱者たちはまんまと近隣一といわれる美姫であり、次代の王に与える証を持つ姫君を手中におさめたのである。
あとは王の証となる『竜聖母の御印』といわれる指輪を姫から奪うのみ。
雫形の青く美しい貴石のはまった指輪。王となるものを自ら選ぶと言い伝えのある指輪。
だが、そんな言い伝えなど反逆者たちは信じていない。指輪は指輪、持ち主の指を飾るのみ。選ぶことなどできはしない。
『竜聖母』など存在しない、と。
捕らえられた姫の名は、リラ・ファージ・フォルシア。
亜麻色の髪、新緑の瞳の美しい姫君は悲しみの中にいる。
彼女を護ってくれていた剣士は、彼女の目の前で害されたのだ。動きを封じられ、胸に短剣が突き刺さるのを、姫は見ていた。やめてと叫び、彼の名を呼び、泣きながら。
無力な姫には何もできず、ただ、泣きわめき――そうして彼女はタタラの呪文に捕らわれ、眠りの鎖に繋がれていた。
……暗い。何も見えず、何も聞こえない。誰もいない。たった一人、闇の中にいる。
怖いとは思わなかった。暗闇の中、リラはただ泣いている。
ごめんね、ごめんなさい。私、お礼も言えなかった。
護ってくれた剣士。強くて勇ましく、自分の命も顧みずに彼女を助けてくれていたのにありがとうの一言さえ言えなかった。
深々と突き刺さった刃。広がる赤。
あの傷ではもう……二度と逢えない。そのことが悲しい。死んでしまった。だから苦しい。
どこの者なのか、素性も分からない相手にこんな想いを抱くとは。
もう一度逢いたい。どうして? 殺されたのに。
それでも、もう一度と願ってしまう。
会ってどうする? 分からない。ただ会いたいの……。
繰り返し繰り返し想う。願う。祈る。
生きてさえいてくれれば。
絶望が囁く。あの傷では助からない。希望が励ます。大丈夫、きっと生きている。
御印が、竜聖母が守ってくれる。
彼に預けた御印が、きっと彼を守ってくれる……今はそのことを祈り、願うことしかできないけれど。
あぁどうか。お護りください竜聖母。彼を、彼の命を、その小さな剣士を。
どうか――どうか、助けてあげてください……。
【――】
遠く、誰かの声がした。大丈夫と聞こえた気がする。
大丈夫、だからあなたも負けないで、と。
とても優しく聞こえたその声が、リラの心から絶望と悲しみを拭い去る。
そうよ、負けてはいられない。私も戦わなくては。
私にできることを、しなければ。
彼が帰ってくることを信じよう。待っているから、必ず帰ってきてくれる。
信じると決めた。彼のまっすぐな金色の瞳を見つめたときにそう決めた。
【……決してあきらめないで……】
声は、リラの想いに微笑んでいるような気がした。徐々に遠ざかっていく。
いや、遠ざかっているのはリラのほうだ。
……目覚めようとしている。眠りの鎖が戒めを解こうとしている。
目を開ければあの反逆者たちがいるのだろう。リラの目の前で、卑怯な手を使って彼を刺した、絶対に許すわけには行かない相手。
優しい声は負けないでと言った。リラには負ける気なんてない。
戦って戦って、その卑怯者たちに思い知らせてやる。
世間知らずの姫だって、噛み付いたり引っかいたりするくらいできるんだから!
いくらだって抵抗してやる。わがままで世間知らずでも、それくらいはできる。
分不相応な罪を犯したと思い知らせてやる。
それができなくても、隙があったら逃げる。力を得て、彼を刺したことを後悔させてやる。
覚悟を決めて、彼女は眠りから覚め――視認するなり、ひっぱたいた。
「近寄らせないでいただきたいですわね、その汚らしい顔を」
叩かれたグローネスはしばし呆然とし、次いで真っ赤になった。威圧的に接しようとしていたところに先手を打たれたのである。脅えているか弱気になるかしているだろうと予想していた姫は、変わらず強気だった。
ほう、とタタラが声を上げた。
「まこと、気の強い姫君じゃ。美しいのぅ。生気溢れたその美貌、魔道に使えばさぞ喜ぶ魔物がおるじゃろう。だがイケニエにするわけにはいかぬ。グローネス公の妻となる姫じゃからのぅ」
にたりと邪悪な笑みを浮かべて老人は残念そうに言う。この老人にとってリラは違う意味で魅力的なようだ。
背にじわじわと這い上がってくる恐怖に必死で耐え、表には出さないようにしてリラは視線を鋭くした。
「美しさを認めるだけの美観はあるのですね。歪んだものでもあるようですが。グローネス卿、この様な者と手を組むとは卿は心も歪んでいるようですわね。外見と同じように」
最大限の侮蔑を込めて、厳しい視線を向けてやる。グローネスはたじろいだ。娘のような年齢の姫君に迫力負けしている。反逆者としての勝者が、囚われの身の敗者に負けているのだ。所詮その程度の男である。
本当に恐ろしいといえるのは、ローブの老人だろう。魔道の使い手のみならず、邪悪な意思を持つもの。
老人に視線を向けられるだけでリラは恐怖感を抱く。存在自体が悪に思えた。
まるで悪意の塊。吟遊詩人ならこう例えるだろう。
『古に滅んだ魔王のかけら』。存在することすら許されないはずのもの。
「……あなたは、人間ですか」
視線を向ける。グローネスと違って老人はひるまない。ひるむどころかまるで意に介さない。
「わしが人間以外に見えるのですかな、姫様? 魔物は知恵がない。魔族は遥か昔に滅び去り、神もこの地には存在しない……」
そう言ってホッホッホと笑った。
「……そんなことはどうでもよい。姫、御印はどこですかな。私にはあれが必要なのだ。ファージを守るために、私が王となるために」
我に返ったグローネスが言ってくる。リラは怒りを覚えた。
「守る、ですって?」
愚劣な反逆者が、神聖なるファージを守る、と。
何を守るのだ。殺し、奪い、そして手にした王国を?
……いいや、誰が認めるものか!
「あなたは王にはなれないわ」
リラは毅然と言い放つ。渡すわけにはいかない。
『御印』を、この国を。
汚させるわけにはいかない。
ファージに暮らす国民を、この国に生きる人たちの幸せを。
民の幸せを壊すような真似を、ファージの王女がしてはいけない。
『下の者を守ることも考えろ』
彼はそう言っていた。自分も今はそう思う。
間違ったことはできない。たくさんの人を不幸にしないために。
『御印』を彼に預けてよかった。心底からそう思う。
目の前のこの男に渡ることはない。今姫の手の中に『御印』はないのだから。
「竜聖母の加護を忘れた愚かなあなたを、御印が選ぶわけがありません」
渡さない。この男には、絶対に!
決意を込めた新緑の瞳は揺らがずにグローネスを見据えている。強い反発を、グローネスは感じ取った。姫は決して公のものにはならないと全身で意思表示している。
若く美しい姫、決して手にはいらないと思っていた王女。
愚鈍なカイヤルカの王子を廃して、ようやく己のものになったと思っていたのに。
――リラは知らない。人は手に入らぬものほど欲するのだと。
それが人の欲望。消えることのないもの。愚か極まりないが、それがなくなれば人は人でなくなるのだろう。
そして、欲も度を越えるとそれもまた人ではなくなる。
グローネスの欲はすでに暴走を始めている。一度暴走し始めたものは止まることを知らない。
「御印が王を選ぶというのは絵空事。ただのまやかしだ。竜聖母など存在しない。姫、いやリラ、どうしても御印を渡さぬというのなら結構。どう足掻いてもそなたは逃げられぬ。婚礼を挙げたあとでゆっくりと御印をいただくとしよう」
それが狂気と呼ばれるようになるまで、さほど時間はかからない。
「婚礼は正午に始める。それまで祈るといい、竜聖母の加護とやらを」
公爵は姫を見る。美しい。この姫君がもうすぐ自分のものになる。
「そうそう、最高のドレスを用意してある。美しい花嫁を見てさぞ竜聖母は喜ぶであろう。できれば現王にも見ていただきたかったが、それは無理だろうな」
グローネスは笑った。勝利と欲望にどっぷりと浸かった醜い顔で。
浅ましいものだった。リラは嫌悪に駆られる。
人はこれほどまでに醜くなるのかと思った。
こんな男の花嫁になるのは死んでもいやだ。
けれど彼女は死ぬわけにはいかない。負けるのは死ぬよりもいやだし、何よりも待つと誓った。
――小さな剣士の帰りを。
グローネスとタタラは勝ち誇りながら出て行った。扉にはしっかりと鍵がかけられている。
窓も同様だった。例え割ったとしても、ここはどうやら塔のてっぺんで飛び降りるわけにもいかない。
一応覗いてみたが、下に衝撃を和らげるようなものは何もない。以前城から脱出したときのように飛び降りても、まず死ぬ。ここからに脱出は不可能だろう。
リラは戻ってベッドに座った。手を合わせて誓う。
負けない。負けるもんですか、あんな男に!
花嫁になどなりたくない。あんな男より、花嫁になるなら。
……姫君の頭に浮かんだのは、少年の顔。
「え、なんで!?」
リラは一瞬で赤くなった。動揺して固まっている。
ななな、なんでラディが? どうして!?
自分の考えに一人でうろたえている。
どういうこと!? 私なんでラディを思い浮かべるの! 彼はまだ子供じゃない!
あわて、うろたえ、でもリラは幸せだった。
ラディのことを思い浮かべ、考えるだけで不安と恐怖が吹き飛んでいるのだが、本人はそのことに気がついておらず、また、気も廻らない。ひたすらあわてて赤くなっている。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
なんで? なんで!? どうしてラディがっ!?
うろたえているのに、不快感はない。三拍子王子やグローネスに比べるのも悪いくらいに、どきどき胸高鳴るくらいに幸せだ。
自分の考えに驚いているだけで、拒否してはいない。恋愛の経験など皆無なリラに、どうしてラディが思い浮かんだのか理解できてもいないのだが。
両頬に手を当て、ひたすら赤面するだけ。
危機感は、なくなっている。不思議と安心していた。
ラディのことを考え、信じている。それだけで。
約束した。死なないでねと彼女が言ったとき、彼は大丈夫だよと答えてくれた。
だから。
絶望はしない。悲しみも忘れよう。彼は帰ってくる。生きて帰ってくる。
それだけを信じよう。
――待っているから。帰ってきて。私のところへ!
そうよ、とリラは顔を上げる。待っている、信じている。小さな勇者、彼のことだけ。
帰ってくるわ……必ず!
強く、深くラディの存在はリラの胸に焼きついている。
それを感じたとき、姫の心にストンと結論が転げ落ちてきた。
……私、ラディのこと『好き』なんだ……。
なぁんだそうかぁと納得してから、リラは耳まで真っ赤になった。
『好き』!? 『好き』ってどういうこと!? ちょっと待って、だって逢ってからまだ……!
一日たっていない。恋愛に時間の意味など皆無なのだが、初めての想いに戸惑う姫君は当然知らないことだ。
十歳よ十歳!? 六つ下! まだ子供!! そりゃ王子は十歳上だったけど……六つ下くらい……なんてことない……? いえ、でもどこの生まれとかまったく知らないし! そもそも 私とどうこうなるような身分じゃない……のかしら……?
しばらく、ぐるぐるそんなことを考え込んでしまう。
結論は、かなり経ってから出た。
「好きなのよ、しょうがないじゃない。好きになっちゃったんだもの! あんなに得体の知れない子供でも好きになったの!! もーっ、私のバカ!!」
リラは一人室内でわめいた。
開き直りに近いが、こうと結論がでれば度胸もつくものだ。
「……何があったって怖くないわよ。ドーンと来ればいいわ。なにがあったって負けないから!」
呟きに、おずおずとノックの音がした。視線をやると、侍女たちが顔を覗かせる。
いつのまにか正午が近くなっているのだ。式の支度をするために着たのだろう。
「姫様……」
申し訳なさそうに、侍女たちは姫君の身支度をする。
「……申し訳ありません……逆らえば、私たちの家族まで殺すと……」
泣きながら。
「かまわないわ。謝らなくてもいい。大切な人を守るためなのでしょう? ね?」
責めることはできない。彼女たちもまたこの状況では無力だ。
「いいのよ。お願いだから誰も死なないで。これ以上人が死ぬのは……いやよ」
姫の優しい言葉に、侍女たちは泣くことしかできなかった。
自覚。そりゃあもう、惚れるでしょ(笑)婚約者がダメ王子だったのですものねー。