3・共に、過ごし・4
――月夜の草原をそよ風が渡ってゆく。
つかの間の休息、静かな時間が過ぎてゆく。のんびりしているわけにはいかないのだけれど、張り詰めた心と、負傷した身体には休息が必要だった。
ラディの隣に腰を下ろして、リラは呟いた。
「……疲れちゃった……」
短い間にいろいろなことがありすぎた。ひどく疲れている。護られていたリラでさえ、かなりの疲労を感じているのだ。ずっと戦い通しのラディの疲労は比ではないだろう。
その上、怪我もしている。
「眠くない? ラディ」
「いや、別に。おれは平気。ヒメサマこそ寝とけよ、疲れてんだろ」
剣を抱えるようにして、ラディは座っている。あたりを警戒しているのだろう。そんな身体で、それでもリラを護ろうとしている。真っ白な顔色なのに、どこにそんな気力が残っているのだろう?
顔を向けてじっとラディを見つめた。リラを護る、小さな剣士。
何故か急に胸が苦しくなった。不快な苦しさではないのだけれど、経験したことがないので戸惑う。
ラディを見ていると、その苦しさは強くなるような気がした。
……何かしら、これ……?
正確に考えると、それは苦しみとは違うような気がした。リラが今まで感じたことのない感情、想いだ。
リラがいくら自分の思考の中に答えを見出そうとしてもできるわけがない。経験したことがないからだ。彼女が王族の姫君だからだ。
『恋』や『愛』など、王族の女性にはほとんどが縁のないもの。現にリラも好きでもない王子と婚約させられていた。
伝承歌や物語、劇中にある恋物語に憧れはしていても、自分がそんな想いを抱くことなどないと自覚している。
だから、今のこの想いがなんなのか、リラには分からなかったのである。
あまりにもまじまじとラディを見つめたまま、彼女が考え事に沈んでいるので、さすがにラディも眉を寄せる。
「……どした?」
「え? うん、ちょっと……」
あいまいな答えが返ってくる。
「? おれの顔、なんかついてんのか? じろじろ見てさ」
「そういうのじゃないんだけど……」
とリラは首をかしげる。彼女がするととても可愛らしいしぐさだ。並の男ならごろごろ転がっただろう。
「んじゃなんだよ?」
お子様ラディは転がらない。
「んー……何かしら……」
自分にもよく分からないことをラディに聞くわけにいかず、リラは無自覚のまま延々と考え込んでいる。ラディはしばらく不審げな顔で彼女を見ていたが、そのうちあきらめた。
肩をすくめて星空を見上げる。月と星。変わらないものが彼を見下ろしている。今までのことが嘘のように静かだった。追われていることを忘れてこのまま眠りたいと、少しだけ思った
ほんの、一瞬だけ。
そろそろ出発しないとまずいと、すぐに気持ちを切り替えた。
「……もうそろそろ行かねーとまずいぞ、ほら、ヒメサマ」
促され、リラは立ち上がった。ラディは立たない。
「? どうしたの? 行くんでしょ?」
「おれは行けない。一人で行ってくれ。ストームに乗って行っていいから」
「どうして!? 一人でなんていやよ! 私、馬に乗れないし……」
何よりも彼をここに一人で置いていくなんてできない。
「仕方ないだろ、ストームを駆るだけの体力が残ってない。満足に戦えそうにもないし、足手まといだからおれは残る。大丈夫だよ、ストームはアンタを振り落としたりしない」
ストームはリラの横にいる。いつの間にか寄り添うように立っていた。馬の優しい目がラディを見ている。傷ついた主を心配しているようだった。
「早く行け。ストーム、ヒメサマをたのむな」
相棒は納得しているようだった。反発したのは、護られるべき姫君である。
「だめ! だめよ! けが人を置いていくなんてできないっ!」
「できなくてもやってくれないと困る」
「困れば!?」
「……おい……」
「ぜったい!! ラディを置いていくなんていやだからね、私!!」
頑固にリラは言い張った。一応心配してくれているのはラディにも伝わるので、責められない。
しかし……どうしろと? 困り果てるラディである。
彼に一緒に行くだけの体力は残っていない。休息は取ったが微々たるもので、体力回復には至らなかった。こんな状態でストームを駆ったら、安全な場所に着く前にまず間違いなく力尽きる。この様子では彼が行かなければリラも行かないだろう。
かと言って正直に、このまま馬に乗るとおれ死ぬぞと告げれば、彼女はもっと休むと言い出しかねない。それでは意味がない。
……どうしよう……。
テはある。馬に乗らず、ラディも死なず、安全な場所に行く方法はひとつだけある。けれどそれはラディの素性を暴く行為にほかならない。
彼は迷った。それだけは避けたい。死んでも避けたい。その迷いが、命運を分けてしまう。
――リラがいきなり膝をついた。倒れこんでくる。
「おい!?」
「あ……なんで……? 急に、眠く……」
彼女の新緑の瞳は半ば閉じられている。リラは必死に抵抗したが、すぐに眠気に取り込まれてしまった。とっさに伸ばしたラディの腕に抱かれるように眠りに落ちる。
片腕でリラを支え、もう一方の手で剣を抜き、ラディはあたりに視線をやる。
迂闊だった。四方に気配がある。今の今まで気配を隠してのだろう。すぐ近くまで来ている。畜生と、内心歯噛みした。いつもなら、いくら相手が気配を消していても分かった。それくらいラディの感覚は鋭い。なのに気付けなかった。
やはり負傷と疲労のピークが感覚を鈍らせているのだ。
……あのじじーも来てるな……。リラが急に眠りに落ちたことでその予想もついた。先程のように逃げられないように、まずリラの行動を封じた。これでは自分が道を切り開いて姫を逃がすという手は使えない。
絶体絶命だった。そこかしこに影が現れる。完全に周囲を囲まれている。
ゆっくりと近づいてくる騎影があった。乗っている男には見覚えがある。反乱の主犯格、グローネス公爵。
笑っている。揺るがない勝利を確信している笑みだった。それは同時にラディの敗北と、リラの絶望の未来を意味している。
「小僧、姫を渡してもらおうか。お前のような下賤の者が神聖なるリラ姫に触れるなど許されぬこと。姫の御身が穢れるではないか」
穢そうとしているのはどっちだとラディは思った。グローネスは見るからに好色そうな中年男だ。地位、金、権力がなければ女性には見向きもされまい。外見だけではない。反乱を起こすような男だ、内面も歪んでいる。
悪政を強いる王に罰を下し、自分が善政を――という反乱ではない。善政を行う王に成り代わり、私欲の政を行うための反乱だ。精神の芯から腐っているのだろう。哀れと言えば哀れと言えるかもしれないが、そう思ってやる義理などない。
「さあ、姫を渡せ、小僧」
グローネスの声で刺客たちがじりじりと包囲を縮めてくる。怪我を負った体で、眠ったリラをかばいながら突破するのは不可能だ。
――今のままでは。
まだテはある。厄介なことになりかねないテだが。
ラディが一番嫌う事態になりかねない最後の手段。
だがそれは眠ったリラを放り投げてできる手ではない。せめて彼女が起きていれば、その手を使って逃れられた。ジレンマに陥ってしまう。剣を構え、刺客たちを睨みつけているが進退窮まった。向こうもこちらの強さは分かっているためそう簡単に仕掛けてこない。膠着状態だ。
「ええい! タタラ、なんとかしろ!」
業を煮やしたグローネスが傍らに控えている老人に怒鳴った。
「本当に童とは思えぬわ。そこらの騎士よりよほど使える」
老人はそう言って笑った。グローネスがハッとする。もし、この子供をこちら側に引き抜けば、配下にすることができたならば。欲の深い公爵はそう考えた。
「だがのぅ……この童、幼すぎて欲というものを知らぬ。金も地位もいらぬと言いおった。真、惜しい話よ」
タタラは呪文を唱え始める。
「殺すのか?」
と、グローネス。老人は応えず呪文を続ける。阻みたくてもラディの周りには刺客が輪を作っている。貧血の収まっていない体ではリラを支えているのも辛かった。彼女を放り投げて最後の手段を使うこともできない。投げられる武器もない。睨みつけることしかできなかった。
「……姫をその童から離せ。童はもう抵抗できぬ」
その声にラディは自分の動きが封じられたことを悟る。いくら力を入れようが、指先一つすら自由にならない。かろうじて声を絞り出す。
「……じじぃっ……てめぇ!」
「動けぬじゃろう? 所詮剣は魔道には勝てぬ」
老人は刺客たちを押しのけ、少年の間近に来た。ローブの内側から、曲がりくねった形の短剣を取り出す。
「悔しかろう、憎かろう。わしを恨め、わしを憎め。だがお前が助かることはあるまい。竜聖母のもとで眠るがよい。いるかどうかもわからぬ神のもとでな」
刺客の一人がリラを抱えた。タタラはそれを見て思いついたように指を鳴らした。
途端リラは目覚め……驚いて暴れる。
「何よ、誰、あなた!? ラディッ、ラディは!?」
必死で暴れるが、屈強な男にかなうわけもなく、たやすく押さえ込まれてしまう。
「ホッホ、元気な姫様じゃ。見なされ、姫。そなたを護ろうとした童の末路を」
「殺すのか?」
再度のグローネスの問いに、振り向かずに老人は答える。
「生かしてはおけぬ。欲を持たぬ真実を知る者じゃ、御することは不可能。あきらめなされ、グローネス公」
言われてグローネスはそれもそうかとあきらめた。欲望のままに生きている人間にとって、欲を持たない人間は邪魔でしかない。たとえ配下においても安心できぬ。
「わかった。おぬしに任せる」
「やめてっ! ラディに何かしたら許さないわよっ!!」
悲鳴のようなリラの声に、タタラは薄い笑みを浮かべただけだった。とても邪悪で醜怪なものだ。
「ずいぶん邪魔をしてくれたからのう……そう簡単には楽にしてやらぬよ」
身体の動かないラディに、タタラはゆっくりと短剣を向ける。動けないものをいたぶるのが、老人にとって最上の快楽のようだった。最低の人種だ。
「心臓がよいかのぅ」
鋭い短剣が、少年の胸に当てられる。ちょうど、心臓の真上だ。
「やめてっ!!」
リラの悲鳴すら、老人には心地よいようだった。それが悲痛であればあるほど、強ければ強いほどに。
ラディは目の前の醜怪な老人を睨みつける。歪んだ意思を跳ね除けるような強い視線だ。
自身に迫る危機などものともしないその強い力。老人とは対極にあるもの。
「気に食わぬ……!」
この期に及んでもラディは命乞いなどしなかった。純真に、まっすぐに、タタラを睨みつけている。老人は嫌悪した。対極にあるものだからこそ、嫌悪も強い。
――ねじ込むように短剣が突き刺された。老人の嫌悪を表すかのように、つば近くまで埋め込まれている。短剣とはいえ、刃の先は心臓に達しているだろう。
「……っ!」
ラディが崩れ落ちるように倒れる。
「……!! いやぁあああぁああっ!!」
信じられない思いで、リラは悲鳴を上げた。
「すぐには死なぬ。その剣には呪いがかけてあるのでな。後三刻は苦しもうぞ。たっぷり苦しんで死んでゆくがよい……」
ホッホッホとタタラは笑った。その声が渦を巻き、泣き叫ぶリラを包み込む。
自分が泣いていることにすらリラは気付いていなかった。ラディの名を呼びながら、狂ったように暴れたことも。
タタラの呪文によって、再び眠らされるまで、彼女はひたすらラディの名を呼び、泣き続けた……。
抜けてゆく力。引いていく熱。急激に血が引いていく感覚。来襲する寒さ。呪いの力は死をはねつける。開放を許さない。意識を失うことすらも許さない。
ラディは苦しさのあまりに地面に爪をたてた。
呼吸もできない。ただ、苦しい。少しでも逃れようと仰向けになる。
イタイイタイ、苦シイ? 突き刺さった短剣から、楽しそうな声がする。
死ンデシマエ。モットモット苦シンデカラダケドネ。
視界が真紅に染まっている。赤、紅、鮮やかな血の色。
死の輪舞のように、赤がくるくる回る。
オイデヨ、一緒ニ踊ロウ?
「……ふ、ざけんな……っ!」
まだ死ぬ気なんかない。渾身の力で短剣を引き抜こうとする。
呪いはそれを許さない。ストームが柄をくわえ、主の身から引き離そうとしても、嬉々として呪いの力は抵抗する。
悲痛な想いが、生きようとする執念が、ますます呪いを喜ばせる。
モットモット、モット抗エ。絶望ヲ味ワワセテアゲルヨ?
どうせ助からないのだから、足掻き続けて絶望しろと。
貪欲に生きようとすればするほど、絶望は深く大量になる。
――ラディは短剣から手を離した。伝わってきたものがある。
……それは彼のポケットから。
力ない腕を広げて、目を閉じた。
アキラメルノ? ツマラナイ。呪いは彼があきらめたのだと判断した。だからと言って開放はしない。
いいや。ラディは抗う。死ぬ気なんかない。あきらめない。
おれは、ぜったいにあきらめない。
待っているだけ。このままでは死ぬ。呪いという刃は引き抜けない――自分では。
「……かあさん」
かすれた弱い声に、応えるものがあった。
優しく、ときに厳しく、暖かく大きな強い意思。
ナゼ!? ソンナ馬鹿ナ! イナイハズ……存在シナイハズダァ!
呪いが耳障りな声を上げて消滅する。
母性というもの。汚れを恐れず、包み込み癒し、そしてまた送り出すもの。
優しく見守り、温かく迎える。
誰もが求める還る場所。命を育み、生み出す偉大な場所。
母という存在……。
【……もう大丈夫……】
戦おうとする子供たちを、決して見捨てたりはしない。抗う強さを持つものを、無碍に扱ったりはしない。
「……おれ、行かないと……」
ラディはぼんやりと呟く。まだ身体は上手く動かない。それでも、行かなくては。
だってきっと、彼女は待っている。
【いまはおやすみなさい。まだ、時間はある……】
何よりも信頼できるその【声】を、子守歌のようにしてラディは眠りに落ちる。
眠りに落ちるその寸前に、頭をよぎったのはあのお姫様の泣き声。
必ず、助けてやるから……。
泣くなよ、と。
何が起こっているのか。チビッコ剣士はさらわれた姫君を助け出すことができるのか?