3・共に、過ごし・3
……リラの羽織るマントにじっとりと液体がしみこむ感覚。それが彼女に伝わってくるということは、マントだけでなく寝着にまでラディの血がしみこんできているということだ。
だが、リラの後ろで手綱を取っている少年はストームを止めようとしない。
かなり前に、彼自身が言っていた言葉がリラの頭をよぎる。
『ケガ人はだめだろ。のんびり行くならともかく、急いで馬を飛ばしたら――』
死んじゃうぞ、と、あの時彼は言っていた、セリアのケガでさえそう止めたのに、今のラディのケガはセリアの比ではない。
「ねぇ! 止めて!」
リラはゾッとしながら叫んだ。死んでしまう。それだけは止めなければ。
「死んじゃうわよあなた!!」
やめて止めてとリラは何度も叫んだが、ラディは聞き入れない。月だけがある草原を猛烈な勢いでストームを走らせる。
この上は一刻を争う。もう一度刺客に襲われたら、次はない。いくらラディといえども、この傷で対抗できはしないのだ。
ラディは殺され、リラは連れて行かれるだろう。そして美しい姫には死より辛い現実が待ち受けているのだ。その現実をリラが幸せに感じることは確実にない。
だが、あの老人はその意思さえも変えてしまう。
あとは空虚な生活が続くばかり――あのグローネスの傍らで、ファージの姫は屈辱も感じることができぬまま、美しい人形と化すのだ。
……それこそ竜聖母がおこるよな……。
貧血気味の頭でそう考え、やはりこのわがまま姫を見捨てられないとラディは思う。
どこまで保つか分からないが、休まずストームを走らせ、リラの居城か彼女の父王がいる場所まで少しでも近付かなくては。
止血のしていない体は刻一刻と死に近づいている。目眩がしてきた。痛みはあまりなく、代わりに傷口はじんわりと熱い。
「止めてったら!! 手当てしないと死んじゃうわ!!」
いくら腕の立つ剣士とはいえまだ子供、体力は大人より劣るはず。
リラはもはや気が気でない。出血は治まっていないというのは容易に予想できた。
生意気で礼儀知らずの少年でも、彼女を守り、戦って負傷した。まして、死ぬかもしれない重傷なのだ。ほうっておくわけには行かない。
「お願い! 止めて! 本当に死んじゃう!!」
何故か涙が出てきた。ぎゅうぎゅうと胸が締め付けられる。
――それは、失うという不安と、恐怖。姫君が自覚することはまだ、ない。
「ラディッ!」
「……死なねーよ、大丈夫だから、そんな声出すなって……」
名を呼ぶと、少年はようやく返してきたが、その声は力なくかすれている。さっきまでの威勢良い声とはまったく違う。かえってリラの不安をあおった。
「いやっ、だめっ!! 止めて、お願いだから!!」
あの気の強い姫が泣いている。こんな状況だがラディは少し驚いた。この短い時間の間にずいぶん距離が縮まったらしい。それは少年も自覚していないことだったが。
「大丈夫だって……」
我ながら説得力がないと感じているが、ストームを止めるわけにはいかない。
一度止めてしまえば、二度と走らせることができないと分かっている。もう一度駆る体力は残されていない。できる限り走らせなくては。
ストームは止まりたがっている。主がどういう状況か理解しているからだ。それが分かるから、なおさら止められない。
「う〜〜〜っ」
姫が呻いている。止まってくれと叫ぶのはあきらめたようだ。
ラディはそう思い、ちょっとホッとしたのだが、リラの心境は違う。
止まってはくれない。いくら言ってもラディは止まらない。
ならば。
「えいっ!!」
自分で止める!
ストームにしがみついていた手を思い切って離し、手綱を掴んで力一杯引いた。
「ばっ、バカ……っ」
待ってましたとばかりにストームがいなないて、足を止めてしまった。
「何考えて……どーすんだよっ……おれ、もう体力ほとんど……」
ラディの呼吸は浅く速い。気を抜けば意識を失いそうになる。彼の顔色は蒼白を越えて白くなりつつあった。
リラは何も言わずにマントを脱いだ。それをぐるぐるラディに巻きつけようとする。
止血の仕方など知らないが、なんとかしようと泣きながら傷口を押さえている。白い手が血で濡れようと構わずに。
しょうがないなとラディは思った。リラの泣き顔を見て、突っぱねる気にはなれない。
表情を緩めて、彼女の手をとる。こちらを見返す彼女に苦笑してやって、
「止血になってねーよ……自分でやる。手伝ってくれりゃいいから……」
ストームが足を折って座る。地面が近くなったので、リラも自分で馬の背から下りられた。
ラディも下り、地面に座り込んだ。リラのマントを腹に巻きつけ、とりあえず傷口を押さえている。
「荷物の中から布出して。てきとうなのでいいからさ」
言われてリラはあわてながらもストームの背の布袋から大きな布を引っ張り出した。
「で、短剣も入ってるから、それで布裂いてくれ」
「うん」
どの程度に切ればいいのか良く分からないが、包帯のようにすればいいかとできる限り細く長く切る。刃物など扱ったことがないリラには難しい作業だったが、それでも彼女は文句一つ言わずに続ける。
切れたはしからラディに渡していき、それで彼は自分の止血をした。応急手当も手慣れたものだった。リラが布を切るよりよっぽどテキパキしている。さほどかからず、彼は手当てを終え、息をついた。
「他になにかすることない?」
懸命にリラが言うと。ラディはちょっと笑った。
「そーだなぁ……とりあえず顔と手、余った布でふいて、荷物からなんか服出して着替えろ」
「あ」
言われてひどい格好をしていると気がついた。顔は涙で、手は血で濡れていて、寝着もラディの血で赤く染まっている。
……こんなに血が出ていたんだ……今更ながらそう分かって、背筋が冷えた。止めてよかった。本当に死んでいたかもしれない。
止めて良かった……。力が抜けてへたりこみそうになる。
「? どした?」
「……なんでもない」
無茶をする。それがリラのためと分かっているから、責められない。
また涙が出そうになった。見られたくなくて、ごまかすように布で手を拭き顔を拭う。
ついでに働き者のストームの背も拭いてやった。それから布袋に手を突っ込んで……ラディに振り返る。
「服って……ラディの? 私、着れないんじゃない?」
子供のラディはリラの肩くらいまでの背丈。どう考えても彼の服ではサイズが会わない。着るというよりは羽織るのがやっとだろう。
「いーから。どっちにしてもそのままじゃカゼひくし、目の毒だろ。おれ、いちおー男の子だから」
と、ラディは笑っている。赤くなってリラは顔を逸らした。
こんな状況なのに、子供のくせに、何を言うのよバカ。
そう思いながらもラディが笑っているのでかなり安心したリラである。冗談が言えるのなら、たぶん大丈夫とも感じた。そう考えると現金なもので、彼には見えないように背を向けて、ちょっと笑ってしまった。
嬉しい気持ちのまま荷物をあさって、たぶんこれは服だろうと感じたものを引きずり出す。
ずるずると出てきたそれは、まぎれもない服だった。
――女物の、ドレス。絹とまではいかないがそこそこの物だ。
「…………」
ドレスを手にしたまま、リラは硬直した。あまりにも用意が良すぎる。どう見てもラディが着るようなものではなく、大人の女性が着る品だ。
そういえばさっきまでリラがまとっていたマントもラディが使うには大きすぎるし、止血に使った布も都合が良すぎる。
マントや布までは用意周到と言えば言える。だが女物のドレスとなると……そうは言えない。まるで何が起こるかわかっていたように物資があるなど、妙にも過ぎる。
まさか、と思った。でも、と思考が答える。そんなことあるわけがないわ、と心で声がする。わからないわよ? とどこかが返す。
もし、もしラディがあいつらの仲間だったら? 今までのことが全部お芝居だったら。
違う、怪我してる。本当に大怪我してるもの。
そう? 魔道でごまかしてはいない? 魔道使いがいたじゃない。
――心の中で疑惑が囁く。信じたい気持ちが反論する。
素性も知れない子だわ。子供なのにあんなに強いのも変よ。
助けてくれたわ。命を懸けて護ってくれている。
芝居かもしれない……でも、でも!
「……? どーしたんだ? 早く着替えろよ。おれ、むこう向いてるからさ」
ラディの声ではっと我に返った。くるっと向き直り、詰め寄るように問う。
「ね、ねぇ! なんでドレスなんか持ってるの!? マントだってあなたが使うには大きかったし! 布だって……!」
「あ……えーっと……」
ラディは言葉に詰まった。どう言えばいいかめまぐるしく考える。
『本当のこと』を言いたくはない。言う気もなかったし、信じてもらえるとは思えない。
しかし貧血の頭でうまい言い訳を考えられず、また、その気力も今はない。
仕方なく、正直に述べた。
「……なんでも出てくる魔法の布袋なんだよ、それ」
「……うそ」
案の定、リラは疑いのまなざしになった。無理もないとラディも思う。
そうだよな、おれだってそう言われたら疑うよ……頭おかしいんじゃないかって思うだろうし。でも本当なんだよな……。
「……うそつく体力も気力もねーよ……」
軽いため息を混ぜてそう言ってやる。
「じゃ、じゃあどこでこんな……魔法の布袋なんて……」
「拾った。旅の途中で。おれあちこち旅してるし、結構あるぞ?魔道関係の品物。おれは魔道にはあんまり詳しくないから、ほかのものは手放したけど、その布袋は便利だから使ってる」
これは嘘だ。本当のことを言うわけにはいかない。
……少なくとも、今はまだ言いたくない。
「そうなの……こんなものがあるんだ……不思議ね」
「便利だろ」
「うん」
リラは納得したようだった。所詮は世間知らずのお姫様、本当にこんな便利なものがぽろっと落ちていると信じたらしい。
気が付かれないようにラディは息を吐いた。
……まぁ、どうせ本当のことを言ったって信じないだろーしな。あの言い訳で信じたんならいいか。
隠していることはある。けれど言っても彼女は信じはしないだろう。余計な混乱は避けたいし、変に騒がれるのもごめんなのでラディは言わなかった。
ファージ国の姫は彼の背後で着替えている。
ラディが何者なのか、彼女も少しは考えているようだった。だが、その思考が真実を探り当てることはまずないだろう。ラディにはその確信がある。リラに限らず、他の者でも少年が何者なのか分かるものはおそらく、いない。
……ま、その点では安心できるか……。
素性がばれるのは何よりイヤだった。冗談にもならない状況になるのは目に見えている。
それだけはごめんだ。何が何でも避けたい。
目眩がおさまらない頭でそう考える。絶対にそれだけは避ける、そう決めて思考を切り替える。
何よりも逃げることが先だ。グローネスとタタラが追いついてくる前に、なんとしてでも姫を安全な場所に連れて行かねばならない。
しかし、今のラディでは足手まといにしかならない。いっそのこと、姫一人をストームに乗せて送り出すか……首にしっかりつかまらせておけば落馬することは無いと思う。
刺客にさえ襲われなければストームはちゃんと送り届けるだろう。不安があるとすれば刺客のことだけだ。
襲撃さえなければ……なんとかなる。問題は襲撃が確実にあるということだ。無力な姫君にどうやって回避させるか。
しゃらん。
難しい顔をしているラディの目前に、軽やかな音を立てて『御印』がぶらさがった。
驚いて顔を上げると、見下ろしているリラと目が合う。着替え終わってこちらに来たのだろう。いくら思考に沈んでいたとはいえ、気がつかなかったのはまずいと、ラディは自身の疲れと負傷の重さに眉を寄せた。
「預かっておいてくれる?」
その態度をいぶかしげに取られたと見たのか、リラは小首をかしげながらそう訊いてきた。
「え」
ひょいとしゃがみこみ、彼女はラディと目線の高さを合わせてくる。
そうして彼女は彼の手を白く細い手で引き寄せ、『御印』を握らせた。
「着替えているときに思い出したの。さっき……ちょっと眠っていたときに夢を見て……夢の中で御印をあなたに預けてって言われたわ……ただの夢かもしれないけど」
小さな剣士の手に自分の手を合わせたまま、リラはじっとラディの目を見つめる。
彼は逸らさなかった。決してリラから目を逸らさなかった。まっすぐに彼女の目を見ている。
それで、リラには充分だった。
……彼を、信じよう。これから先、なにがあっても。
「あなたのこと、信じるわ」
真剣な目だった――互いに。
「……わかった。預かる」
うなずいてラディは『御印』をズボンのポケットにしまいこんだ。
見届けて……リラはもう一つ彼に言っておきたいことがあると思い出した。
「それから、ひとつ約束してほしいの」
さっきと違って視線を逸らす。目を合わせてはとても言えない。頬が赤くなっている。
「……なにを?」
少年剣士の問いかけに、少し躊躇してから、麗しの姫君はぽそりと呟くようにおっしゃった。
「……死なないでね」
本心から、そう願う。本人ですらまだ気がついていない微妙な想いも含まれて。
もっともいかに強い剣士といえどもラディもまだ子供。
姫君のそんな想いにも気がつかず、けれど彼女に笑いかけ、
「だいじょうぶだよ」
応える声は優しい。
瀕死のチビッコにはいろいろ秘密がある様子。何も知らない姫君と、ちょびっといい雰囲気。