3・共に、過ごし・2
……どことも知れぬ場所にいる。暗くて、寒い。
リラは小さく身震いした。周りを見渡すがラディもエオス王子もいない。
今まで乗っていたストームすら、姿がない。ここがどこなのかも分からなかった。
……森の中にいたはずなのに……?
たった一人、ポツンと暗黒の中にいる。その事実に不安と恐怖が勝気なはずの姫君の心に緩やかに進入し、勇気を隅へと追いやり始める。意地というものも包み込み消し去ろうとしてくる。
……怖い……けど、あいつら一体どこに行ったのよ? 私を置いて。
気の強いようなことを考えて、わざと自分を奮い立たせようとする。しかし美しいその顔には不安の色が濃く、隠しようがない。
王子は頼りないので少年剣士をと名を呼ぼうにも、彼の名をうろ覚えで、逆に考え込んでしまう始末。
もっともそのおかげで、多少の恐怖は去った。
あ、そうだ。ラディ・スポットだったわ。ラディよラディ。思い出したわ。
その名を口にしようとした時、リラの胸元から優しげで柔らかな光がすぅっと彼女の眼前へと伸びた。
驚いて胸元を見る。スレンダーな身のわりにしっかりと存在している胸の谷間に、『御印』がある。光はそこから放たれていた。
……な、なにこれ?
ぎょっとして『御印』を細い指でつまみあげる。光は収まらない。
――やがて。
【……希望を捨てぬよう……困難に負けてはなりません……信じてください……小さな剣士を……】
とても暖かい、優しい声が聞こえてきた。誰、と問いかけようとしたリラに声は告げる。
【危機が迫っています……けれど貴女が彼を信じてくれるのなら回避できる……貴女も、ファージも助かります……信じて……そして御印を彼に……】
徐々に光は薄れていく。
【……御印を預けて……貴女が持ち続けては危険です……】
光と共に声もゆっくりと遠ざかり、やがて消えた。
何のことなのとリラが問うても、答えは返らなかった。
「……なんなのよ、一体……」
と呟きながらリラは目を開け、自分が眠っていたことに気がついた。ストームの首にしがみつきながら寝ていたらしい。器用な寝方だ。下手をすると落馬していたのではと自分であきれた。
「なんだ、もっと寝てりゃ良かったのに、もう起きたのか」
横を歩いていたラディが気付いてそう言ってきた。実は彼がリラが落馬しないように気を使って安定したところをストームに歩かせていたのだが、そんなことは微塵も口に出さなかったため姫は気がつかなかった。
気がついたのは別のことである。
「もう大分歩いたぞ……休憩しないのか……」
しつこくしつこくエオスが休もうと言い続けている。王子の高価な絹の服は、もうボロボロなのが月明かりでもはっきり分かる。リラが眠っている間にも何度も転んだのだろう。
眠気と疲労でぐったりしている。
「少しでいい……休もうではないか……なぁ童……」
「やかましい。なさけねーな、大人のくせに。おれだって眠いし疲れてるのに歩いてんだぞ。黙って歩け」
子供のほうがよほどしっかりしている。
「うう……なぁリラ姫、替わってくれぬか?姫はずっと馬だろう、不公平ではないか」
そんなことまで言い出した。
ぷちんと何かが頭の中で音を立てたのが分かったリラである。
「何考えてんのよ!? 大人の男のくせに! 子供が歩いているのに私に替わってくれですって!? 女も歩かせる気なの!? 子供を横に歩かせておいて!!」
もう少しエオスが自分に近いところを歩いていたら、その顔をひっぱたいているところだ。
「普通大人がこらえるものでしょ!? 男ならなおさらよ!! どうしてラディに馬に乗って少し休めと言えないのよ、この馬鹿王子っ!!」
まったくもっての正論に、エオスの目が潤んだ。いい年の男、しかもお世辞にも容姿端麗とはいえない男の泣きそうな顔――正直に、気持ち悪い。
見ているのもイヤになってリラはぷいと顔をそらした。
びっくりしたのはラディである。ついさっきまで彼のことを礼儀知らずの子供としか思っていなかっただろう姫が、今ラディを気遣うようなことを言ったからだ。
おまけに名前まで口にした。このわがまま姫がただの子供の名前など覚えるわけもないと思っていたのに。
やっぱり命を救われた心境の変化って奴だろうか? と首をひねる。よっぽど驚いたらしい。
一方、リラの方は王子のふがいなさに腹を立てるのはやめて、さっきの夢のことを思いだしていた。
『御印』を引っ張り出す。金の鎖でリラの細い首にかかっている『御印』……指輪。
今見ても異常は何もない。まぁ、夢の中の出来事だったのだから当然だ。
しかし、リラはなぜか気になって『御印』をじっと見つめた。
夢の中の声は小さな剣士に御印を預けてと言った。
リラが今持ち続けているのは危険だとも。
……夢の中の話なのに、気になって仕方がない。だからと言って、まだ得たいの知れないラディにほいと預けるわけにもいかない。
信用していい人物かどうか、判断するのにもう少し時間が欲しかった。
リラの心境の八割くらいは、信用してもいいかなと感じているのだが、さすがに国宝を預けるのには勇気がいる。
チラッと横目でラディを見た。少年はこちらに気がついていない。また転んだエオスに手を貸して起こしている。
そのエオスが、身を起こして声を上げた。
「森から出られるぞ!」
そうして、走っていく。
その先に、木々が途切れ、確かに野が広がっているのがうっすら見えた。危険な森からやっと出られるのだ。
「……元気じゃない……」
「まだ走るだけの体力残ってたんだな……」
森から出られるとホッとするよりも先に、リラとラディは揃って呟いた。二人の視線の先、あれだけ疲れた、休もうと騒いでいたエオスが元気いっぱい走っていく。
――森の出口が見えたことで、やはり少し安心したのか、リラは知らず緊張を緩めていた。
甘かった。ラディの言うとおり、さっさとストームを駆り、居城に行っていればよかったのだと、心底から後悔したのは、森から出、周囲を包囲されているのに気がついてからだった。
馬にまたがった男たちの先頭に、黒いローブの老人が闇の中から浮き出るように現れた。おそらくはこの魔道の使い手が、リラたちの行く先を探知し、先回りしたのだろう。何をやってもおかしくない。ファージに限らず、ほかの国にも魔道を扱う者はごく小数だ。
だからこそ余計に恐ろしい。何をするか分からないからだ。人間は未知のものを恐れる。
魔道はその最たるものだ。何の知識もない者は先入観で判断するしかないため、無条件で恐れる。
ましてこのタタラという老人は、邪悪としか表現できない雰囲気を漂わせている。好意や誠意があるとは思えない。
ラディはすでに剣を抜き、油断ない視線を向けている。
ホッホッホと奇妙な笑い声で老人は笑った。前歯の数本が欠けた口が半円形を形どる。
「まったくもって勇気ある童よのう……だが勇気は時として無謀を生む。幼い命を無駄にすることもあるまいに。金が欲しいのならくれてやろう。地位が欲しいのなら小さな手に乗せてやろうぞ。美しい姫君を渡してくれるのならな」
視線を向けられた童の返答は明快だった。
「金も地位もいらないね。持ってたって縛られてきゅうくつなだけだろ」
「……それは地位と金の甘美な蜜を知らぬから言えること。世にはこれほど甘い蜜は存在せん。他にはな」
互いに表面上は笑みを浮かべている。一見したならば友好的にも見えた。
けれど交わされる言葉の裏に刃が潜んでいる。相手の言葉の裏を読み、さらにその裏の意図を掴んで返す。少なくともラディのほうはそうしなくてはならなかった。タタラというこの老人の言葉を額面どおりに受け取るのは馬鹿がやることで、危険この上ない。
「おれ、子供だからじーちゃんにそんなこと言われてもわかんないな。まだまだかーちゃんのおっぱいが恋しい年頃だしね」
『子供』はにやりと笑った。
「金とか地位とかは年くってから考えることにしてるんだ。まして――」
そこで彼は笑みを消し、鋭い視線と厳しい表情を老人に向ける。
「反乱なんかおこす無骨なじじーどもに清純可憐なとは言わないがキレーなオヒメサマを渡したとあっちゃ竜聖母にしかられるからなっ!」
ラディの言葉にリラもかちぃんときたが、それ以上にカチンときたのはタタラのほうらしかった。顔から笑みが消え失せ、代わりに現れたのは殺意だ。
「……よかろう。では殺してくれる。幼い従順な魂は竜聖母もさぞ喜ぶだろう……竜聖母がいればの話だがな」
包囲している男たちがじりじりと前進してきた。全員が馬に乗っている。地面にいるラディには不利だ。まして彼はまだ子供で、背も低い。地面に立ったまま剣を振り回して、馬の背にいる刺客を斬ることはできないだろう。少年の後ろには姫と王子もいる。二人も守らなくてはならない。
その上、魔道の使い手もいるのだ。不利もいいところである。
せめて男たちが馬から下りてくれれば何とかなる。ラディはそう考えた。いくら多勢で数の暴力でも、まともに戦わず姫と王子を連れて強行突破するくらいなら不可能ではない。
馬を奪い取って、王子を蹴り乗せて走り去ればいいのだ。
しかし、それはあくまでも刺客たちが地上に立っている場合で、今馬上にいる彼らから突破するのは困難だった。
馬から刺客を下ろすしかない。だからと言って相手が素直に降りてくれるわけも無い。
したがってラディの取るべき道は一つ。
内心ごめんと謝りつつ、馬に斬りつけた。つぎつぎと容赦なく馬の前足か、首から胸の辺りを斬っていく。
やむをえないと思いながらも馬が哀れだ。
反乱なんか起こす人間より、馬のほうがよっぽど可愛いのに。
ごめんな。心で詫びながらラディは馬を斬り、刺客を落馬させる。
避けようと馬をさおだたせ、前足を斬られるのを避けようとする者、逆にラディを踏み潰そうとする者もいたが、すくい上げる様な一撃でその努力は無に帰した。
ラディを斬るか、姫か王子を人質に取るかと刺客たちも愚かではないところを見せたが、ラディの剣技は彼らの予想を遥かに上回るもの。
いずれの企みも小さな剣士の見事な剣技に阻まれた。
次々と落馬し、斬られていく男たちの輪の外で、黒衣の老人はじっとその様子を見ている。これだけの人数で包囲しているにもかかわらず、形勢は不利に見える。
いや、明らかにこの男たちの腕前では童をしとめることはできまい。
このままではまず間違いなく逃げられる。
冷静に老人はそう判断していた。しかし、こうも思っていた。
だが、わしが出れば別じゃ……。
老人の目は、情けなく震えて突っ立っている王子の姿を捉えている。かの王子の腰には護身用のきらびやかな剣がある。宝石で飾られていても、その刀身は本物だ。充分武器になるはず。
なのに王子はそれを振るうこともなく、恐怖と脅えで立ち尽くしている。
幼いラディにかばわれて、大人のエオスは動けない。
老人は小馬鹿にした笑みを浮かべた。あまりにも情けない王族がいるものだ。
先ほどの老人との会話も、相手をしたのはあの童。こちらの甘言に乗るどころか、ばっさりと見事に跳ね除けた。
いっそ天晴れと思うような強さを見せる子供と、声も出せずに脅える大人。
「どれ、わしが英雄にしてやろう……姫を反逆者から護った勇敢な王子として死ぬが良い……」
あざけるように呟く。そして老人はフードの下から王子を見た。
しわがれ、ひび割れた声がその口から流れ出し、言葉という音を紡ぐ。それはすぐに呪文という形となった。
呪文は目に見えない鎖となって王子を絡め取る。
それに気がついた者がいたかどうか。情けなく脅えていたエオスの震えが止まった。
木にすがるように抱きついていた腕がだらりとたれる。目の焦点が合っておらず、見ている者がいれば正気をなくしたとすぐ気がついたろう。
老人以外は誰も見てはいなかった。ラディは刺客の相手で手一杯、刺客もラディ一人の相手で手一杯。人数はまるきり違うのに、それでもラディは圧倒しようとしている。
いける。ラディはそう思った。
逃げられる。刺客はそう焦りを感じている。
エオスはぼんやりとしたまま、腰の剣に手を伸ばす。彼の行動にまだ誰も気がつかない。
宝石で飾られた柄を握り、鞘から引き抜いた。両手でしっかりと握り締める。
そこでリラがようやく気がついた。ストームの首にしがみついたまま、視界の端で震えていた婚約者が剣を抜いているのを見た。
武芸の武の字も知らないような王子が、なにをするつもりなのか。
「何してるの!? ちょっと、どうする気!?」
ラディと一緒に戦うつもりになったのか。あまりにも多勢に無勢だとリラも思っていた。
だがリラに戦う力はない。武器もない。ストームにしがみつき、邪魔にならないようにするのが精一杯だ。
だから、エオスが戦う気になったのかと思った。
「やめなさい! かえって邪魔になるわ!」
ラディは強い。リラとエオスをかばっても、この数の刺客を押している。そこにエオスが入ったら、かえって危険だとリラは思った。エオスが弱いと知っているからだ。
王子は答えなかった。愛しい姫の声にも何の反応も返さず、三歩ほど、走った。
そのまま、全体重を込めて、剣を突き出した。
――その先に小さな剣士の背。
「!!」
姫と王子をたった一人で護っていた少年剣士は、ちょうど落馬した刺客の一人と剣を合わせたところだった。
リラは目を見張る。
避けられない……!
「く……っ!」
衝撃を感じたが、ラディはそのまま眼前の刺客を切り伏せた。
エオスが身を引く。ずるりと剣が引き抜かれていく。
刺される寸前、それでも身をひねって急所を避けたのはさすがといえよう。
しかし、剣は深く突き刺さった。
鮮血が見る間にラディの衣服を赤く染めていく。
「あ、あ……なんてことするのよっ!!」
真っ青になってリラが悲鳴を上がる。エオス王子はぼんやりしたままだ。
ラディは気丈にも倒れない。さらに二人を切り伏せた。
その動きに、先ほどまでの鋭さは欠けている。
さすがに後退して、ストームに寄りかかるように立った。
「だ、大丈夫っ!?」
リラの声に返す余裕はない。
「……ち、くしょ……魔道で操りやがったな……!」
ラディの視線の先には、さっきまで輪の外にいた老人の姿がある。老人は悪意をむき出しにして笑った。
エオスがその笑いに答えるように動く。今度はラディに向かってではない。
王子の剣先は自身の喉に向いていた。
――赤い液体が勢いよく吹き上がる。
「…………!」
声もなく、リラもラディも、刺客たちも動きを止めた。重たげな音を立て、王子だったものは倒れる。その音で我に返ったのか、ラディはタタラを睨みつけた。
彼にはこの老人が何を狙ったのか、分かったのだ。
「……おれを反逆者に仕立て上げる気か……!」
ホッホッホと老人は笑った。その笑いが、少年の考えを肯定している。ラディが姫と王子を連れて逃げたことにより、この老人はやり方を変えたのだ。『姫をさらい拘束してこの国を乗っ取る』のではなく、『姫を誘拐した犯人を成敗した英雄』となり、名声をも同時に得ようと。
「……ずいぶんあさはかなテを使うじゃねぇか。使い古されてて伝承歌や伝説の中だって古いぜ!」
「だが有効な策じゃ。姫をさらった不届き者を王子が成敗しようとし、反対に殺される……これは立派な反逆罪じゃ。皆のもの、この不届き者を殺し、王子殿の敵を討てぃ!」
姫君が誘拐されたことにして、婚約者の王子が勇敢にもそれを追い、犯人と戦い逆に殺される。
タタラや刺客たちは王子の敵を討ち、『犯人』を殺し、姫を取り戻す……。
何もかもを犯人――ラディにかぶせる気なのだと、リラもようやく気がついた。
「私は本当のことを父様に言うわ!!」
ありもしない罪をラディに背負わせるものかと、姫君は叫んだが、タタラは気にもしていない。
「魔道は偉大なるもの……人の心を操るもたやすい……今の王子を見て、お分かりになれなんだか姫様……?」
ゾクリとする声音。他者に対する好意など一片も感じさせない。リラは声を失った。話が通じる相手ではないのだ。
まずい、と思ったのはどちらだったか。
どちらも同時にそう思ったかもしれない。
リラはこのままではまずいと思った。
タタラは動いたのを見てまずいと思った。
刺客たちもしまったと思った。
まさかそんな体力など残っていないだろうと思われていたラディが、ストームの背に飛び乗り、手綱を取ったのだ。
「――殺せ!!」
タタラの指示より、少年の行動は早かった。前方を阻む刺客二人を斬り飛ばし、ストームを走らせたのである。
疾風のように遠ざかる姿を、刺客たちがあわてて追おうとしたが、タタラがそれを制した。
あの傷で遠くまで……それこそ姫の居城まではもたぬと判断したのだ。出血もひどかった。朝日を見るまでには間違いなくあの子供は死ぬだろう。
それに、あの方向には念のためグローネスが兵を率いて先回りしている。
姫一人に、逃れる術はない。ゆっくりと、追い詰めていけばいい……。
危機です。大ピンチ。