3・共に、過ごし・1
昼間進んでいた方向とは逆方向に走り、森の中を危険をおして一刻も走った頃、エオス王子が黒馬から振り落とされた。しがみついていられなくなったのだ。
併走してストームを駆っていたラディがあわてて止まる。
そのすきに黒馬は走り去ってしまう。
「あっ」
しまったと思うがもう遅い。重荷がなくなった馬は軽々と森の奥へ走っていった。
止める間もない。ラディは息をついて、王子を見た。転がり落ちたエオスはうずくまって呻いている。ストームから飛び降りて、
「どっかケガしたのか?」
落ちた拍子に腕でも捻挫したのかと聞くと、王子は涙と鼻水でべしゃべしゃになった顔を向けてきて、右腕を指し示した。
草で切ったのか、わずかに血がにじんでいるのが見て取れる。
ケガと言うにも迷うような、そんな小さな傷だ。
「……そんぐらいで泣くな」
あきれかえって、それでもラディは相棒に背負わせた荷物の袋から布を取り出し、小さく裂いて傷口に巻いてやった。
「ちょっと休憩しよう」
そう言って、リラの手を引いて、ストームから下ろしてやる。
エオスはまだ、ぐずぐず泣いている。子供でも泣かないような傷だろう。
「……それでも大人なの」
きつい言葉と視線を婚約者に投げかけてから、彼女は背を向けて荷物をあさっているラディに向き直った。なにやら口の中でもごもご呟く。本人としてはお礼を言いたいのだが、なかなか口から出てきてくれないのだ。
少年剣士はそんな姫の様子に一向に気付かず、ストームの背の荷物に手を突っ込んで何かを探している。
何度か深呼吸して、意を決したリラがやっとありがとうと口にしようとしたとき、大きな布が眼前に降ってきた。
思わず受け止めて、それが濃紺のマントだと気がつく。
「それ羽織ってろ。寝着じゃカゼひくぞ」
言われて、再び気がついた。薄い寝着をまとったままだ。眠るのに適したゆったりと薄い服。胸元は大きく開いていて、肩から先も出ていて、おまけに薄い生地のため身体のラインがはっきりと分かる。
出るところは出ていて、くびれも見事な、なだらかな曲線が。
「!!」
リラはあわててマントを羽織り、前をかき合わせた。頬が熱い。こんな格好で、今の今までラディとほとんど密着した状態で、ストームに乗っていたことを思い出し、熟れたトマトより赤くなった。
彼はまだ子供だ。どう考えたって十歳だ。子供、子供、子供である。
何度も心に言い聞かせるが恥ずかしさが消えるわけもない。ひょっとすると、下着も透けていたのでは。
「〜〜〜〜〜!!」
悶絶しそうになる。どうりでグローネスがいやらしくじろじろ見ていたわけだ。今になって気がついて、ラディへの反応とは真逆にぞっとした。
あの好色中年にまで見られたのは、本気でイヤだ。背筋に悪寒が再来するのを何とか振り切って、ちらり、横目で少年剣士をうかがった。彼にもしっかり見られたはずだ。王子にも見られただろう。もっとも王子のほうは愛しの姫君の身体に見とれるヒマはなかっただろうし、敵と相対していたラディもそれどころではなかったとは思う。
……背中越しの小さな身体。何よりも頼りになる、少年。
リラはぶんぶんと首を振った。何か浮かびそうになったが、そのせいで消えてしまう。
「ストームから荷物下ろさないでいて、正解だったなぁ」
ラディは姫の奇行に気がついていないようだった。ストームを撫でてやっている。エオス王子もようやく泣き止もうとしていた。
「こ、これからどうするの?」
思考を逸らそうとリラは話しかける。
「どうって……ヒメサマの城に行くしかないだろ」
重く息をついて、ラディは答える。リラの居城。今から行けば、朝までには到着するだろう。足の遅い馬車ではないのだ。ストームの足なら、来た時間の半分以下で戻れるだろう。
そこで改めて反逆者への対策や罰策を王に訴えることができるはずだ。
もっとも、それはリラが無事に居城にたどり着くことができてこその話。
「徹夜でストームに走ってもらうしかない。もちろんおれもあんたも徹夜だよヒメサマ、我慢してくれ」
夜を徹してストームを駆り、一刻も早くとラディは言い、リラも文句を言える状況ではないと理解して頷いた。どうせストームを駆るのはラディだ。リラは乗っているだけ。
嫌がったのはエオスである。
「わ、私はどうなるのだ!?」
先程、黒馬が逃げたため、馬は一頭、ストームだけ。乗れるのはどう考えても二人。
馬を乗りこなせるのはラディだけで、おまけにストームはラディがいないと暴れる。
そして城にはリラを連れて行くことが絶対条件。
必然的に結論は出る。
「だってしかたないだろ」
すがるエオスにラディは今日何度目か数えるのもイヤになるゲンナリ感を経験する。
「置いていくのか!? 私をっ!? わ、私は王子だぞ、カイヤルカの王族なのだぞ、それを……!」
動揺のあまりに声を裏返してまで訴える婚約者を、リラは蹴飛ばしてやりたくなった。
あまりにも見苦しい。命がかかっているとはいえ、リラより十年上で、ラディより十六も年上のくせに、一番うろたえているのがこの王子だった。
狙われているのは彼ではなくリラで、戦うのも彼ではなくラディだ。
馬に乗るどころか、わずかな傷で致命傷を負ったかのように泣く、成人男性。
……生きて帰れたら、お父様に婚約は取り消してもらおう。
何が何でも婚約は破棄する。リラは硬くそう決心した。この王子よりもラディのほうがよっぽど頼れる。最初から王子に対する愛想などわずかにしかなかったが、今夜でそれも尽きた。
「歩いていけばいい! 途中の街かどこかで馬車を……」
王子の訴えは続く。
「んな金ない。時間もない。悠長に歩くだけ反逆者のじじーどもに時間をやることになる。口論してる場合でもねーんだよ!」
すっぱり斬り捨てるかのようなラディの言葉。ここまで逃げられたのだから、これからは自分の身ぐらい自分で守って欲しい。刺客が王子を狙うことはまずないだろうし、急がなくてはならず、たたでさえお荷物である無力な姫を守らなくてはならないのだ。
「ついたらすぐ迎えに来てやるから、その辺の木のうろにでも入って隠れてまってろ!」
隠れているくらいできるだろう。そう言うラディに王子は比喩でなく、すがり付いている。
「夜の森など何が出るか分からないではないか!? 熊や狼や魔物が出たらどうする!!」
まったくもって見苦しかった。二十六歳の大人が、十歳の子供にすがりつき、涙ながらに訴えている。自分の命が惜しいのは仕方のないことだが、プライドというものがないのだろうか?
王族で王子で、さらに成人した男性ならば、節度のある態度を取ってもらいたい。
そう思うリラである。婚約者をかばう気はまったくない。そんな愛想は先ほど捨てた。
「頼む。置いていかないでくれぇ!」
大人にだばだば泣かれては、さすがに見捨てることもできない。
「……歩くか……しかたないよな……」
徒歩。どのくらい時間がかかることか。リラはストームの背に乗せられた。一応彼女も歩くといってはみたが、長距離など歩いたことのないお姫様だ。
ただでさえ徒歩で時間がかかるというのにこれ以上面倒をかけないでくれと疲れきった様子でラディに言われては、おとなしく従うしかない。
不満ではあったが、少年のいうことを聞いた。たしかに長距離を歩く自信はなかったのだ。
森の中を歩いたことすらない。まして夜間だ。
それは三拍子王子も同様で、歩く端から転んでいる。
木の根につまづいたり、石を踏んだり……まるで歩き始めたばかりの幼い子供のようだ。
王子が転ぶたびに『幼い子供』のラディが助け起こしてやっている。少年剣士は慣れているのか転ぶどころかひょいひょい危なげなく進んでいた。
「う」
どたん。またエオスが転んだ。
「下見て歩けよ……」
助け起こすラディが阿呆らしいと言いたげなのも仕方がないだろう。
「うぅ、暗くて分からぬ……」
べそべそ。はーっと、ラディは息をつく。
よく見て歩けと言ってから、姫が妙に静かなことに気がついた。さっきまで王子の様子にイラついていたのに。
視線を向けて、納得した。
「眠いなら寝ろよ」
リラはストームの首にしがみつくようにして、それでもうとうとしていた。もう真夜中だ。
眠気がまぶたを押さえつけているのだろう。一時的にとはいえ、刺客から逃れたので安心したというのもあるようだ。
一気に眠くなったのを、必死に我慢しているのが見て取れた。
「ヒメサマ」
「ね、眠くないわよ」
意地を張るリラである。自分より小さいラディが歩いているのに、眠るのも悪い気がしているのだった。命を狙われているというのに危機感が無いと思われるのもシャクだわ、と、素直でないことも考えている。
まぶたをこすったとき、見かねたラディがもう一度言ってきた。
「寝とけ」
「眠くないったら!」
ますます意地になる。ラディは肩をすくめた。
このお姫様ときたら……一体何を考えているのか分からない。
王家の姫っていうのは皆こんな風なのか? だったら金輪際、二度と、ぜったいに王族とは関わらん。少年剣士はそう思う。
大体リラがファージ国王家の者でなかったら、ここまで面倒は見なかった。
刺客たちから助けた後、頼りない騎士たちにおしつけて、さっさと別れていたはずだ。
「……あーもー……ホントおれって親孝行……」
呟きは小さかったため、半分眠っているリラには届かなかった。聞こえていたらどういう意味かと問い詰めただろう。
ラディはファージ国王家と何か関係があるのか、と。
けれど耳に聞こえぬものを問えるわけがなく、姫君が剣士の言葉の意味を問うことはなかった。
眠気を我慢しながらも、三人は暗い森の中を進んでいく。
大人のほうがお荷物ですね。