プロローグ・突然に、出逢い
竜の大陸、竜の国。
『竜聖母』の加護を受けし所。
ファージと呼ばれる国――そこから全ては始まる。
かっぽかっぽ。馬車はゆったり進んでいく。
彼女は深く深くため息をついた。
冗談じゃないと心の中で強く呟く。
彼女の名は、リラ・ファージ・フォルシア。
十六歳になったばかりの少女で、この聖王国ファージの重要人物である。
たった一人の王女は近隣にも名高いほどの美少女だ。
亜麻色の髪に生気輝く新緑の瞳。鼻筋はスッと通っていて、可愛らしく小さな唇。少し細身ではあるがプロポーションだっていい。
彼女の姿を見た者は誰もがうっとりとしただろう。
だが、当の本人は不機嫌の骨頂にあるためにすねたような表情になっていた。それはそれで可愛らしく、どんな表情であろうとも美人は絵になる。
「……姫様。どうかご機嫌を直してくださいまし」
姫の身の回りの世話をしている侍女が、苦笑して言い聞かせるようにそう言ったが、リラは聞こえないフリをしてそっぽを向いた。
視線の先には窓がある。
その外には美しい緑が広がっていた。
天気もよく、日光に照らされた緑は美しい。寝転がるには最適の日和である。
そんなに天気がいいのに、リラは反対に憂鬱なため息をつく。
外に出かけるのはいい。馬車に乗るのもかまわない。それが単なる旅行や散歩なら。
問題は行き先なのだ。
何が悲しくて大嫌いな婚約者のところに遊びに行かなくてはならないのか。
リラの意思で決まったことではないので、なおさら嫌だ。
親の決めた将来の伴侶は、ちび、でぶ、ぶ男の見事に三拍子揃った軟弱男で、認められるのは 家柄のみという、女性から見たならば最悪の男であった。
この婚約が決まったとき、リラは本気で父王を恨んだものである。近隣国一の美女と名高い自分が、『無能・無知・ぶさいく』の三拍子男を婿にしなければならないのか。
外交のためとはいえ、拷問だ。
確かに彼は結構大きな国の王子なのだが、せめてもう少しましな人をと思うのはわがままなのだろうか?
「……白馬に乗った王子様……とはもう言わないから、せめてもうちょっと……」
不満が口をついた。『白馬に乗った王子』というならあの男でも当てはまってしまう。
身分は王子で、白馬も持っているのだ。言葉に合わないのは本人の容姿だけである。
「……命懸けて守ってくれる美形の騎士とか……勇者とか……身分なんていいわよこの際……アイツを見てたら身分なんてなくていいわ。どうしてあんなのが王子なのよ……王子って言ったらやっぱり白馬に乗っててもおかしくないくらい美形でないと」
ぶつぶつ。不満は止まらない。
向かいに座っている教育係のキツそうな印象の中年女性が、王女の言葉遣いにこほんと咳払いをした。
聖王国ファージの姫が、庶民のような口の利き方をするなと言いたいのだろう。
リラとてそれはよく分かっている。公の場ではそれらしい口の利き方をするが、こんなお忍びの中で堅苦しい話し方をするのは息が詰まる。
はあーとため息をついて、リラは言葉を止めた。なんだかこのまま呟いているとお小言が来そうな気がしてきたからだ。
ただでさえ行き先が憂鬱なのに、このうえお小言なんて御免である。
気を紛らわせるためにお菓子の皿に手を伸ばした。
同時刻。
お忍びの姫の馬車をかなり先から目にした旅人がいた。彼の向かう先からこちらへと、森の緑にまぎれない護衛つきの物々しく立派な馬車が来るのを見て、彼はさりげなく道をそれた。一目で中にいるのがややこしい立場の人間だと分かったので、面倒を避けたのである。あんなにゆっくり進む馬車なら、よほどの人物が乗っている。
森の中のために道をそれたら獣道くらいしかないが、それでもあの馬車と鉢合わせするよりはましだろう。
「お、いいもん見っけ」
嬉しそうに彼は呟く。それた先には小さな泉があった。ちょうどいいと彼は馬から下り、一休みしようと座り込んだ。
どうせ当てのない気ままな旅だ。目的も意味もない旅。
けれど彼はそれで満足だったのだ。何かに縛られて生きていくのは真っ平だったし、自分が何かを縛り付けることもまた、彼の好むことではなかったから。
風のように雲のように自由にのんびりと毎日を過ごしていた。
水を汲み、飲んでみる。泉の水はほどよく冷たかった。今日は陽気がいいので水浴びするのも気持がよさそうだ。
とりあえず靴を脱いで冷たい水に足を突っ込む。背負っていた愛剣は脇に置いた。
「きもちいいなぁ」
のんびりとくつろぐ。
ごろりと寝転がると、隣に馬も座り込んできた。彼の大切な相棒である。
寄り添うように休んでいると、馬車の音が近付いてきた。
例の厄介な馬車だろう。あんなにゆっくり進んでいて、御者はいらいらしないのだろうかなんて他人事のように考えた。
音が進んでいく。そのうちすれ違うだろう。向こうからこちらは見えないだろうが。
だが。
「…………? どーした?」
彼の相棒がそわそわしだした。立ち上がり、ある一点を見続ける。
その頃には彼も気がついていた。泉から足を出して素早く靴を履く。立ち上がり、剣を背負う。
馬車の音がうるさい。御者や護衛は気がついているのだろうか。
先ほどから馬車が近付くごとに強くなる殺気に。
道をそれる前から人の気配は感じていたが、殺気にはなっていなかったため、旅業の集団でも休んでいるのだろうと思っていたが、どうやら違っていたようだ。
緑を透かしてうかがってみるといくつかの人影が見える。
特に隠そうともしておらず、動きも粗野だ。野盗の類に見えるが、普通野盗が狙うのなら個人で旅をしている者か、あるいは金を持っていそうな旅業を狙うのが一般的だろう。
あれだけごてごてと護衛がついている馬車など普通狙わない。返り討ちにあう確率のほうが高い相手をわざわざ狙うより、簡単に襲えて儲けが大きい旅業のほうが楽なはず。
それでもあの馬車を狙うという理由はなんだ?
――まぁ、自分には関係ないなと彼は思った。騎士の護衛がついているのなら野盗程度に手こずることなどないだろう。
貴族などの厄介な存在に自分から関わるつもりもない。
無視を決め込んだ瞬間、彼の視界の隅に気になる身のこなしをする男が映った。野盗とは動きそのものからして違う。修練した動き。それも正規に鍛えたものとは思えない。
――暗殺者だ。彼の直感がそう告げている。
余計関わりたくなくなった。そんな存在が出て来るということは、ひたすら厄介な問題が絡んでいるに違いない。財産問題とか後継者問題とか、どろどろしたものだろう。
関係ない関係ない、心の中でそう呟いたとき、状況が動いた。
お菓子を一口かじったとき、がくんと馬車が揺れて止まった。
乱暴な操作に侍女が不満げに「何事ですか」と声をかけた。
何が起きたのだろう。そう思うリラの前で、教育係の女性がいぶかしげに窓から首を出して前方をうかがおうとした
銀の光が走る。
教育係の首が裂けた。馬車の外に向かって鮮血が吹き上がる。
何が起きたのかも分からぬまま、リラは悲鳴を上げた。
「きゃあああああっ!!」
殺気がそこかしこで吹き上げるのとほぼ同時に女の悲鳴が響いた。
声からして若い女性と思われる。彼は眉を寄せた。
女がいるらしい。貴族などには関わりたくないが、危機に陥っているのが女や子供、老人となると……それでも数瞬、彼は悩んだ。
相棒が鼻先でツンツンと彼の肩をつついてくる。そして、馬車を示した。
そこには文様が彫りこまれている。
よりにもよって、ファージ国王家の紋章・『竜聖母』を表したものだ。中心の青玉、左右の翠玉、その根元の紅玉、それらに添うように真珠が配置されたもの。
がっくりと彼はうつむいた。アレを見てしまった以上、見捨てるわけにはいかない。
「ここで待っててくれな」
相棒にそう言って、彼は剣を抜いた。
伝承はここより始まった。