鼎 2/3
儀式
一
漸う寒さが弱まってきた晴れ晴れとした空の下、人気の無い中学校の校舎裏で、数人の男女が一人の少年を囲んでいる。囲まれている少年は少し太っていて、上半身はシャツを着ていたが、下半身は下着すら身に纏っていなかった。必死になって露になった下半身を隠そうとしている彼を、少年二人が脇を抱えて押さえつけている。取り囲む男女はその必死な姿を見てパチパチと猿の様に手を叩いて笑っている。
「おい、犯罪者の息子の癖に暴れんなよ」
一人の少年が嵩にかかった態度で、声を上げると、押さえつけられている少年の顔を思いきり殴った。
「ぐっ」
殴られた少年は鼻から血を流す。また周りの男女が笑った。女は手を叩いて、男は大きく口を開けて。殴った少年はとても誇らしげだった。
「笑える。何こいつ。鼻血流してるよ。アハハッ」
「すげぇ顔してっぞ、吉岡。すげぇ。ギャッハッハッハッ」
笑う彼らに押さえつけられたまま吉岡は尋ねる。
「ど、どうして、こんなことをするの・・・」
彼らは吉岡が口を効いたこと自体が気に食わないようで、一様に押し黙ると、真黒な、人に向けるのではない目を彼に向けて、男たちは無言で殴り始めて、女たちは黙ったままそれを眺めていた。
「いやだ。止めてくれ。止めてくれ」
吉岡は声の限りに必死に叫ぶけれど、それは意味が無く、ただ虚空に消えていく。いつの間にか押さえつけられることもなく、地面にじかに転がされると、今度は容赦なく蹴りつけられる。吉岡の顔からは血が溢れて、着ている服はボロボロになって、体は泥だらけになってしまっていた。
と、そこへ、もう定年間際の白髪頭をした国語教師が歩いてきた。彼は手にゴミがたっぷり入っているゴミ箱をぶら下げていた。吉岡を思う存分殴り、蹴っていた男女はその国語教師に気が付いて振り返ると、吉岡のことを隠そうともせずに、急に態度を一変させてにこやかになり、元気よく挨拶をする。
「あっ。先生こんにちわー」
「こんにちわー。ごみ捨てですかー」
不気味に語尾を伸ばして彼らは笑ってみせる。吉岡は縋るように瞳に涙を浮かべている。国語教師はにこやかな彼らと、涙目の吉岡を少しの間じっと眺めると、何も言わずにそのままふいと焼却炉の方へと歩いていった。彼らは爆発するように笑った。吉岡は逃げようとした。彼らは逃がさなかった。あっさりと捕まえてまた殴り始める。
「何、逃げようとしてんだよ」
「サイテー」
「お前の親父が悪いことしたんだからな」
「死ねよ」
また彼らは笑い始める。大きく手を叩いて。吉岡は落涙する。泥だらけの体で。晴れ晴れとした空では穏やかに雲が流れていて、遠くからは微かに部活をする生徒たちの声が聞こえてきていた。
ひとしきり殴って満足したのだろう。吉岡を置いて彼らは去っていった。すっきりしたような笑いを浮かべて。吉岡は泥だらけになった体を引きずって、同じように泥だらけになった下着とズボンを掴むと、それを履いて帰路についた。帰り道で先ほどの国語教師と鉢合わせた。国語教師は無様な彼を見て、少しだけ嘲りの色を浮かべると、そのまま何も言わずに去っていった。吉岡は虚脱して足を引きずった。
かび臭いとても小さなアパートの一室が彼の家だった。彼は持っている鍵で扉を開ける。部屋は真っ暗で、ひっそりとしている。
「ただいま・・・」
吉岡は電気をつけると急いで洗面所に向かった。彼は下着姿になるとまず、制服についた泥を落とそうとした。布にたっぷりと水を含ませて制服を懸命にこする。しかし、泥はむしろ服に染み込んでいくようで、吉岡は更に焦るが、一度汚れてしまったものはもうどうにもならないようだった。
しばらく彼がそんな無為な行為を続けていると、
「ただいま。善人、帰っているの?」
と、嫌になるくらい朗らかな声がした。吉岡は急いで手に持っている、まだ泥の落ち切っていない制服を隠すと、それに答えた。
「ああ、母さん。もう帰っているよ。今お風呂に入っているんだ」
「ああ、そうなの。じゃあ、すぐご飯にするからね」
「うん、ありがとう」
吉岡は慌てて洗面所から風呂場へと移った。そして、風呂に火を入れて自分はシャワーだけを浴びた。
「お帰り、母さん」
風呂から出た吉岡はダイニングにいる母親にそう声を掛ける。
「善人、今日は奮発してお肉買ったの」
「そうなんだ、うれしいよ」
吉岡はそう答えて席に着く。平べったいステーキが吉岡の前にだけ置いてある。母親はにこにことしている。吉岡は一切の躊躇を見せないようにして「おいしい、おいしい」と言ってそれを淀みなく食べ始めた。母親はよりにこにことした。
「善人、明日、三者面談でしょう。お母さんちゃんと行くからね。今日ね。お願いしたら、明日早引けしてもいいって言ってくださったから」
吉岡は少しだけ手を止める。そして、母親を見た。母親は話を続ける。
「善人、お金のことなら気にしなくていいからね。お母さん頑張るから」
吉岡は何も言わないでまた肉を頬張る。母親はにこにこしている。蛍光灯の真っ白で硬質な光が、彼ら親子と食べかけの薄っぺらな肉を照らしていた。
教室で、くすくすと生徒たちが笑っている。白髪頭の国語教師の話など誰も聞いてはいなかった。吉岡の制服も薄汚れていて、一日で泥を取り切ることなどできないようだった。誰も彼も自分たちに夢中だった。
チャイムが鳴る。国語教師は逃げるように教室から出て行った。最後までみんな笑いあっていた。
吉岡と他数名が三者面談の為に、母親とともに教室の前で待っている。ただ、吉岡だけ一人だった。彼らは、吉岡を見ると皆一様にこそこそと何かを耳打ちしあっている。しばらくして彼の担任の教師が現れた。彼女は若い家庭科の教師で、いつも派手な化粧をしている。彼女は至極明るくそこにいた母親たちに挨拶をすると教室に入るように促した。
二人、三人と面談が進んでいき、吉岡の順番となった。だが、彼の母親はまだ到着していなかった。
「じゃあ。吉岡君は後に回しましょう。では、和田君、次ね」
仕方なしと担任は次の生徒へと順番を飛ばす。吉岡は黙って、ただじっと廊下に目を落としていた。
もう誰も居なくなったオレンジに染まった廊下で、それでも一人、吉岡は待っている。彼の目の前の担任はしきりに時計を見てはじれったそうに吉岡に尋ねた。
「お母さん、本当に来るって言ってたのね?」
吉岡は廊下を睨んだままで、声を出さず、かといって何か身振りで答えるでもなく、じっとしている。彼女が苛立ち紛れに時計を見るたびに、振りかけ過ぎた香水の匂いがあたりに撒き散らされている。辺りをちょっとだけ確認してから、彼女は忌々しそうに溜息を吐くと、今までの笑顔を取り去り、ゆっくりと口を開こうとした。
「ごめんなさい、遅れてしまって」
とても弾んだ声がした。吉岡は顔を上げる。彼の視線の先に、よれよれの服を着て、化粧もしていない母親が立っていた。彼女は自分よりもだいぶ年下の担任に頭を下げる。吉岡はまた顔を伏せた。
「・・・ああ、いいえ、お母さん。いいんですよ。ではさっそく面談を始めましょうか」
少しの間をおいて、担任は笑顔で答えて彼女を教室へと案内する。彼女は扉と閉めるその瞬間にわずかにため息を漏らした。
「ーそれで、うちの子は、出来れば大学まで進ませたいと思っているんです」
面談が始まってからずっと続く母親の熱心な言葉の数々が、吉岡の体を小さくさせる。担任はそれを真剣に聞くようなふりをして、何度も何度も腕につけた時計を確認している。また香水の香りが強くなる。でも、子供の輝かしい未来を語る母親は気が付かない様で、吉岡はますます小さくなった。
「そうですね。お母さん。吉岡君の学力なら、そんなに難しくないとは思うのですが、その、失礼ですが、経済面のことで・・・」
担任は心配する素振りをわざわざ見せる時も、自分の時計が気になるようだった。吉岡は希望を語る母親のことがもう我慢ならないようで、明後日の方向へと目を移していた。夕焼けが真っ赤でその光が教室の床で鈍く反射している。
「・・・その、奨学金とかっていうのは」
母親は怯えたように尋ねる。風が締め切っている窓を揺らして音を立てる。ほんの少しだけの静寂の後、部活をしている声が聞こえてきた。
「お母さん。そういったことは高校に入ってからで・・・」
担任はその場限りの言葉で返す。まだ、時計を気にしている。香水の匂い。母親は少し恥ずかしそうにしていた。吉岡は母親を見ることができなかった。
「とってもいい先生ね」
母親はとぼとぼと隣を歩く吉岡にそう話しかける。夕日はもう沈み切る寸前で、家々からは夕食の匂いが漂ってくる。
「善人、今日の夜は何食べたい?」
母親はとても幸せそうに笑って訊ねるが、吉岡は答えられない。彼らの横を吉岡と同じ制服を着た少年たちの一団が通り過ぎていく。吉岡は少し顔を伏せて母親から離れた。母親は初め怪訝に思ったようだったが、一団を確認すると、そのまままっすぐに歩いて行ってやり過ごす。一団ははしゃいで歩いて行って、母親の横を通り過ぎてしばらくするとどっと笑った。吉岡はまた母親の傍に戻ってきた。母親は哀しそうな、悔しそうな顔をしていた。
「・・・善人、ごめんね」
「・・・別に」
吉岡は母親の涙声にそう短く答えることしかできなかった。
ニ
ずっと機械の音が喧しいプレハブ建ての工場の中で、汗をだらだらと流して、吉岡は働いている。彼の顔はその半分ほどが火傷で爛れていた。何かわからない機器が延々と流れてきて、彼はそれにナットをはめる。
「おい、吉岡。お前おせぇんだよ。さっさとしろよ」
金髪の男が吉岡を蹴った。吉岡はよろける。
「ははははっ」
金髪の男はそんな吉岡を見て笑う。しかし、吉岡は流れてくるよくわからない機器に必死に追い縋って、ナットをはめる。
「ははははっ。必死だな」
金髪の男はまた笑う。吉岡の火傷を負った顔からは汗がだらだらと流れ続けている。彼は必死によくわからない機器のナットを閉めていて、金髪の男には目もくれない。
「犯罪者のガキがよ」
金髪の男は急に真顔に変わるとそう吐き捨てて、もう一度吉岡を蹴って去っていった。吉岡はまたよろけたが、また必死に食らいついていた。
吉岡はロッカーから自分の服を出す。服には〝犯罪者の息子″とでかでかと真っ黒なマジックで落書きされていた。吉岡はそれに袖を通さずに鞄に詰めると、作業着のままそこから出て工場から少し離れたところにある事務所に向かう。事務所は、一応空調は効いてはいるが、机が三つほどしかなく、お飾りのパソコンが一つあるだけで閑散としている。そこでは勤続年数の長い工員が一塊になって駄弁っていた。彼らは一様に笑いあったり、ふざけ合ったりしていた。その中心には先ほど彼を蹴った金髪の男の姿があった。
「お先に失礼します・・・」
吉岡がタイムカードを切って彼らに挨拶する。彼らは笑いあっていたのを止めて、いったんじっと吉岡を眺めると、今にも吹き出しそうになりながら
「おう、お疲れさん」
「お疲れー」
「じゃあなー」
と、返す。吉岡は一礼して、その事務所を出た。扉が閉まるか閉まらないかのところで、大きな笑い声が一気に弾けた。
「はははははははははははは」
「はははははっはははははははははは」
「ははっはっはっははははっはははっは」
なんだかとても空虚なそれを背にして、吉岡は帰路に就いた。町は星すらない真っ黒な夜に覆われていた。
「お帰り、善人」
母親が彼を出迎える。彼女の頬はこけて、目は窪み、手はもう皮だけしか残っていなかった。吉岡は「ただいま」と言わず、彼女と目も合わせなかった。彼は彼女を置いてさっさと風呂場へと向かう。そんな彼に母親はとても小さな声で
「ごめんね・・・」
と、呟いた。吉岡の足は一瞬止まったが、彼女に声を掛けることはなかった。
吉岡は今日も機械の音が煩わしい工場で、次々と流れてくる何かわからない機器にナットを閉めている。顔からはだらだらと汗が流れて、それが赤い火傷跡を濡らしている。
ビーと、機械音がする。ベルトコンベアは一度止まり、工員たちがそれぞれ休憩に入る。吉岡も工場の一角に腰を掛ける。そこは機材やらなんやらを搬入するための大きな扉から若干離れており、蒸し暑く、空気も淀んでいる。鉄の匂いや油の匂いが立ち込めていて、床は微小な破材のためかざらざらとしている。彼から少し離れたところではあの金髪の男が中心となって輪を作っていた。彼らはドアのすぐそばを陣取り、短い休憩時間にもかかわらず、大いに騒ぎ立てている。
「ーそれでよ。そいつときたらわかんねぇんだよな」
「ああ、そうだな。最近の奴らってよ。礼儀ってもんを知らねぇよ」
金髪の男の提案に、近くに座っていた五十がらみの男が同意する。彼は腕組みをしてしきりに頷いていた。
「おっ、斉藤さん。さすがですねぇ」
「はっはっはっはっ。まぁ俺のころは厳しかったしな」
「やっぱりそうですか。俺も先輩にえらいしごかれましたからね。まぁ、今では感謝してますけど」
金髪の男は一瞬吉岡に目を滑らせる。それに気が付かない腕組みをしている男は得意に話し出す。
「そうなんだよな。今の奴らは全く甘やかされてるぜ。どうしようもねぇよ」
「はははははっ。そうっすよねー」
「はははっはははっははっはっはっは」
彼らはパチパチと猿の様に手を叩いて笑い合う。吉岡は工場の隅っこでさらに体を小さくした。
「おう、元気でやってるかお前ら」
と、そんな馬鹿笑いしている彼らのところに、四十ほどの、かなりでっぷりと太って、しかし日に焼けた男性がやってくる。彼が来ると、馬鹿笑いしていた工員たちは一様に立ち上がり、頭を下げて挨拶をした。
「社長。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「焼けてますね。またゴルフですか」
「おう、まあな。今度お前らもいくか」
「いや、そんな金ないですよ。給料上げて下さいよー」
冗談めかした彼らの願いに、社長は笑って答える。工員たちは、社長はそんなんだからなと、また笑って見せた。
そんな彼らを横目に吉岡は隅っこに座ったままだった。金髪の男はそれを見つけて、舌打ちをする。社長はというと彼らに軽く挨拶をして、吉岡の方へと向かってきた。
「おう、善人。どうした。元気がねぇじゃねぇか」
吉岡は顔を上げると軽く会釈をする。社長はその態度に今までにこやかだった表情を崩すと、懇々と説教を始める。
「善人。お前も大変なのはわかるけどな。もっと、みんなと仲良くしねぇといけねぇぞ。お母さんだって病気なんだ。お前がしっかりしねぇとな。わかるだろ?」
社長の後ろで金髪の男たちがにやにやしている。吉岡は顔を背ける。社長は困った顔をして、また説教を始める。
「善人。お前な。お母さんも頑張ってたんだぞ。一日中働いてな、お前を育ててきたんだ。わかるな。今度はお前の番なんだからな。それにー」
ビーと、機械音。工員たちは立ち上がって仕事に戻って行く。吉岡も立ち上がって仕事に戻ろうとした。社長は一度彼を引き留めて、説教を続けようとしたが止めた。彼の表情はいかにも不満そうだった。
吉岡は定位置に戻ると、また流れてくるよくわからない機器にナットをはめていた。それは延々とどこまでも続くようだった。
吉岡がロッカーを開けると、また私服にでかでかと犯罪者の息子と書かれていた。もう倦みきっていた吉岡は回らぬ頭でそれに着替えた。彼は一応、事務所に挨拶に行く。皓々と光る窓から笑い声が聞こえてくる。
「ははは、社長。それはないっすよー」
「いいんだよ。中卒のあいつには結局ここ以外じゃ仕事なんてねぇんだからよ。あの女はよく勉強ができるって自慢してたけどよ。そんなもんが一体何の役に立つんだよな。まず礼儀だよ。礼儀」
「まぁ、そうっすよね。勉強なんて社会に出たら何の役にも立ちませんもんね。まず礼儀っすよね。なんかむかつきますもんあいつ」
「はははっ。まぁ、母親は結構いい塩梅だったんだけどな・・・」
「あれ、社長、ひょっとして・・・」
「うるせぇな。はははっ」
「けど、俺らの給料の三分の一って。マジで。なんか俺、あいつに優しい気持ちになりましたわ」
「はははっ。それならよかった。まぁ、あんな奴それくらいがちょうどいいんだからな」
「最低っすね社長。この犯罪者」
「犯罪者はあいつの親父だろ」
「ははははははっ」
「ははははははっ」
夜空にかかっていた黒く厚い雲から俄かに大粒の雨が落ちてくる。一度零れてしまったそれはもう抑えが効かず、それはあっという間にアスファルトを真っ黒に濡らす。人々は雨をよけるために走っていたり、庇の下に隠れたりしている。そんな中で犯罪者の息子と、でかでかと書かれた服を着た吉岡は、ただ地面を睨んで歩き続けていた。
彼が帰宅すると、母親が出迎える。くぼんだ瞳、こけた頬、皮だけの手。彼女は彼の様子と見て取ると精一杯ににっこりと笑った。
「・・・お風呂沸いてるから入ってらっしゃい」
吉岡は頷くと風呂場に向かった。湯船に入っていると、外からすすり泣く声が聞こえてきた。彼は湯船に顔を浸けた。
吉岡が風呂から出ると母親が出迎える。
「善人、ご飯食べるでしょう」
吉岡は無言のまま机に腰かける。そこには三つの椅子が並んでいて、母親は微笑んで、夕食は湯気を上げている。吉岡はその椅子に母親と向かい合って座った。
「善人・・・。きっと、きっとわかってくれる人もいるから。だから、頑張るのよ。いつかきっと・・・」
母親の顔は蛍光灯の灯に照らされて、ただでさえやつれている顔の影を濃くするが、瞳だけは病的に煌いている。吉岡は何も言わずに煮物のごぼうを口に含んだ。母親は微笑んで「おいしい」と、訊ねる。まだ、瞳は煌いていて、影はくっきりとしている。吉岡は母親の顔をまっすぐに見返すことができない。
「大丈夫だから。貴方はよくやっているって、社長さんだってー」
吉岡は急に立ち上がる。いきなりのことに母親は唖然とした表情を浮かべて彼を眺めた。彼女の瞳に映る吉岡の顔は何かを物語っていた。瞳は潤み、歪んだ。吉岡はそのまましばらく、無言のままだったが、やがて、ゆっくりと寝室に向かった。彼は扉を力なく閉めると、もう出てくることはなかった。母親はうなだれて、まだ湯気の立つ料理をぼんやりと眺めていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の陽ざしが、吉岡の顔を照らしている。吉岡は眩しそうにそれを眺めると、億劫そうに体を起こして寝室からダイニングへと出た。
ダイニングは奇妙だった。夕食は昨日、彼が寝室に入った時のままで、彼の母親までもが昨夜と同じような姿勢で椅子に腰かけている。
「母さん・・・」
吉岡は母親におずおずと声を投げかける。彼女はうなだれたまま顔を上げない。
「母さん、母さん」
少し強い彼の声。母親はやはり何も答えない。吉岡は彼女に近づくと肩を揺する。
「・・・母さん」
吉岡は肩から手を離すと小さくそう言って、その場に突っ立ったままだった。夕食はもう冷め切っていた。
三
よくわからない機器が次々と流れてくる。吉岡はそれに黙々とナットをはめる。
「おい、おせぇんだよ。お前よ」
金髪の男性がいきなり現われて、吉岡を蹴った。吉岡は倒れてしまう。機械は次々と流れていく。
「なに倒れてんだよ。さっさと仕事に戻れよな。この給料泥棒がよ」
いくら彼に怒鳴られても、吉岡は立ち上がることはなく、よくわからない機器を無言のまま見送るだけだった。金髪の男はそんな吉岡をもう一度蹴った。
ビーという機械音。機械が止まって、物言わぬ工員たちがぞろぞろと動き出す。それは金髪の男も例外ではなく、吉岡をそのままにしてその場から離れた。彼らは皆、風通しの良い入口に固まって、金髪の男を中心にしてはしゃいでいる。
「あっ。お疲れ様でーす」
「お疲れ様でーす」
日に焼けて、でっぷりと太った男が現れる。工員は立ち上がって挨拶をする。彼は得意そうにそれに応えると、
「おい、善人はどこだ」
と尋ねる。金髪の男が薄笑いを浮かべて、薄暗い工場の隅を指さす。
「社長。あいつ最近弛んでんですよ。一週間も休みやがってよ。普通ニ、三日でしょう。仕事なんだと思ってんすかね。言ってやってくださいよ」
周りの人間は誰も声を上げない。社長は一応、金髪の男を宥めるように手を動かすと、吉岡の方へと歩いていった。
「善人、今日終わりにちょっといいか」
小さな破材が鬱陶しい床にじかに腰かけていた吉岡は、社長の問いかけに顔も上げずに頷く。社長はちょっと溜息を吐くと、そのまま事務所へと戻った。金髪の男たちは社長を見送ると、また話し始める。
「社長よ。また太ったと思わねぇ」
「ああ、確かに。ちょっと太りましたよね」
若い男が金髪の男に同調する。
「いくら金持ってたって、あんなに太ってたんじゃ先が長くねぇな」
「ええ、言いすぎっすよ。斉藤さん」
五十ぐらいの男のぽつりと言った一言を目ざとく拾って、金髪の男が大声を上げて、わざとらしい社長への気遣いを見せた。
「ああ、そうだな。社長には黙っててくれよ」
「はははっ。そんなこと言うわけないじゃないっすか。・・・けど、実際俺も太り過ぎだと思いますけどね」
「ははははははははっはははっははははっ」
「ははっはははっははっはっはははっははは」
「はっはっはははっははっははっはっはっは」
彼らは訳も分からず笑い合う。空からの強烈な白光が彼らを照らしていて、影がなく、顔の見分けがつかなかった。
「じゃあ、社長お疲れでーす」
「おお、お疲れー。明日もよろしくなー」
金髪の男のずさんな挨拶に、社長は笑顔を浮かべて、趣味の悪い金の時計を巻き付けた日に焼けた腕を振って応える。事務所には吉岡と社長以外はもう誰も残っていない。外はもう暗く、ジーという音を立てる蛍光灯だけが目を刺す。社長は吉岡を前にして、なかなか話しださないで、書類をわざとらしく音を立てて読んだり、そこに置いてあったハサミを手で弄ってみたり、座っている事務椅子をキイキイと音を立てて揺すっていたりした。それからしばらく背もたれに体重を預けて、天井を眺めていたかと思うと、突然目の前の吉岡に顔を近づけて話し始める。
「善人。お前もう十六だっけ」
吉岡は弱弱しく頷く。社長はまた顔を遠ざけて、背もたれに体重を預けると、値踏みするように、じろじろと吉岡を眺める。吉岡は座ったままで社長を見るでもなく、ただぼんやりと床に目を落としていた。
「善人。俺はな、十五の時から働いてきた。俺にも何にもなかったからそれこそ必死にな」
吉岡は何も反応を示さないが、社長は口を止めない。それどころかより雄弁になって、昔話を延々とする。
「いいか、善人。そりゃ嫌なこともあったんだけどよ。それでも必死にだ。そうでねぇと世間様に顔向けできねぇからな。働くってこたぁそういう事なんだ。わかるだろ」
吉岡はまだぼんやりと床を眺めている。社長の手首には金の時計がまかれている。彼は腕を組んで話を続ける。
「それなのにお前はどうだ。今日だって、全然仕事してねぇじゃねぇか。どれだけミスしたかわかってんだろ。いいか、それはな、こっちの迷惑にもなんだぞ。まぁ、そりゃな、おふくろさんが死んで大変なのはわかる。だけどだな、一週間も休んだうえに、仕事にも身が入らねぇじゃこっちだって困るんだ。わかるだろ」
演技ぶって顔を歪ませる社長に対して、吉岡は顔を上げず、大して反応を示さない。社長は大きな溜息をついた。
「ふっ。まぁいいや。とりあえず、お前クビだから。役に立たないやつに給料払うほど俺は甘くねぇんだよ。じゃあ、明日から来なくていいからな。もう居場所なんてねぇよ」
社長はそう吐き捨てて立ち上がると、一瞥もくれずにさっさとその場所から去ろうとした。だが、何か思いついたように吉岡に振り返る。
「ああ、そうだ。ふつうこんなこと言わねぇんだけど、その作業着だけは置いてけよ。何せ、お前、あの犯罪者のガキだからな。何時もみたいに着て帰るふりして盗まれたんじゃたまんねぇからな」
社長は留飲を下げたようにその分厚い頬の肉を持ち上げて薄笑いを浮かべる。だが、吉岡はずっと床に目を落としていて、社長のことなどは気にも留めていないようだった。社長は顔を歪めると、そんな自らを無視する彼に対して、
「あーあ。あの糞女も育て方間違ったな」
と捨て台詞を吐いた。すると、吉岡は勢い良く立ち上がる。そして、机にあったハサミを握りしめた。
「おっ。なんだよ。一丁前にむかついたのかよ。犯罪者のガキの癖によ。意外と生意気だな、お前」
社長は彼がハサミを持っていることに気が付いていなかった。それどころかわざとらしく手を広げて、吉岡に近づいてきた。彼らの頭上の蛍光灯からジーと音が漏れる。外の暗さを入れないその人工的な光のせいで、吉岡の握るはさみがきらきらしている。社長の腕に巻き付けられた金の時計と同じように。
「どうした。なんか言うことあんだろうが。なぐってみるか。あっ。犯罪者の息子の癖によ。偉そうにしやがって。学校の成績が良かったからって何だってんだよ。馬鹿なんだよ。お前はよ。お前のおー」
社長が悪口を言い終わる前に吉岡は思い切り社長の目にはさみを突き立てた。頭上ではずっと蛍光灯が音を立てている。
「うあああああっ」
社長は大声を上げて蹲って目を抑える。そこからは血が溢れて、金の時計を汚していった。社長は一心不乱に、逃げようと事務所のドアへと向かって行く。痛みを堪えているのだろう、今までの驕慢な態度など嘘のように情けない悲鳴を上げて。吉岡は倦みきった目で血の付いたハサミを持って、ぼんやりと逃げ惑う社長を眺めている。蛍光灯の音、パタパタと滴り落ちる血の赤、そして、情けない悲鳴。彼は足を引きずるように歩いて、もう一度社長に近づいていった。
「いやだ。止めろ。止めてくれ」
社長は声の限りに必死に叫ぶけれど、それは意味が無く、ただ虚空に消えていく。吉岡は、彼が近づいた為か半狂乱になって転んでしまった社長に馬乗りになる。彼は腕を必死に振るけど、若い吉岡の力には敵わないようで、再び目にハサミを突き立てられてしまう。吉岡はゆっくりと力を込めて、それを奥まで押し込んでいった。硝子体が溢れて、血と混じって垂れていく。ハサミはもう刃のすべてを社長の頭に隠した。社長は最後にまた情けなく薄く伸びた悲鳴を上げると動かなくなった。金色の時計はもう真っ赤になっていた。静寂が戻ってくると、一人分の息遣いと、再び蛍光灯から音がした。
赤くなった瞳はもう瞬きしなくなっている。しばらく呆然としていた吉岡はやおら立ち上がると、いつもと同じように事務所の扉を開いて、ロッカー部屋へと赴き、作業着を脱ぐと、もう血と硝子体で汚れてしまったそれをきっちりと畳んでその場に置いた。彼は私服に着替える。何時もの様にでかでかと犯罪者の息子と書かれているそれは彼の手にこびり付いた硝子体と血で薄汚れてしまっていた。彼はひざを折ってその場に蹲ってしまった。
吉岡は足を引きずるように歩いている。でかでかと侮蔑と否定の言葉の書かれた服には血がついていたが、それを隠そうともしていない。空は厚く黒い雲に覆われていて星すら見えなかった。ぽつぽつと灯る街灯だけが白く光っている。すると、深夜だというのに前方から十代半ばほどの男女の集団が歩いてくる。彼らは酒でも飲んだのだろうか、空の色など関係ないほどに陽気に騒いでいる。顔を伏せて、服の血を隠すと道の端に寄る。
急に大粒の雨が落ちてくる。男女の集団はそれでもケラケラと楽しそうだった。とても愉快そうで溌溂としている。吉岡のことなど目の端にも入らないように彼らは通り過ぎていった。吉岡は振り返ると、彼らを暗い瞳で眺める。雨はいよいよその勢いを増して、体を強く打った。
四
「いやだ。止めろ。止めてくれ」
男は声の限りに必死に叫ぶけれど、それは意味が無く、ただ虚空に消えていく。どこだろうかとても暗い部屋だった。その場にいるのは吉岡と、頭からガソリンをかけられ、椅子に手足を縛りつけられて身をよじる男だけだった。吉岡はマッチを擦る。勢いよく上がる炎が暗い部屋をわずかに明るくした。
「おい。吉岡。あのことは悪かったって。俺たちだって反省してる。だから止めてくれ。お願いだ、止めてくれ」
哀願する目の前の男の悲痛な叫び。いつかの彼と同じ叫び。だから、彼と同じようにそれは聞き入れられない。
「おい。いい加減にしろ。そんなことやってみろ。今度こそお前のことぶっ殺してやるからな。だいたい犯罪者の息子のくせー」
マッチを投げる。火が上がる。悲鳴が上がる。炎の為に縛り付けていたビニール紐が呆気なく燃えて、自由になる。炎を纏って辺りを歩きまわり、あちらこちらに火が移る。また悲鳴。とても、とても悲痛な悲鳴。いつかと同じ叫び。いつかの彼と同じ肉の焦げる匂い。しばらくすると倒れてしまう。すると、それは何かから身を守るように体を丸めた。火が移ったために辺りは明るくなった。そこは普通の部屋だった。ベッドがあり、テレビがあり、教科書の詰まった本棚があり、勉強するための机があった。それらが燃えていく。赤々とした炎に嘗められて全ては灰に帰っていく。佇む伽藍の瞳にはのっぺりとその灯が反射していた。
吉岡は部屋を出る。リビングには二つの人だった肉塊があった。それは多量の血を流し、見開いた瞳は白濁してもう何も映ってはいない。彼はそこをすっと通り過ぎて、玄関から外に出た。マンションの高層に位置するそこからは遮るものもなく、大きな月が彼を照らす。真円なそれをぼんやりと眺めて、顔の火傷の跡に指先で軽く触れると、彼はゆっくりと階段を下りていった。
「いや。止めて。止めてよ」
女は声の限りに必死に叫ぶけれど、それは意味が無く、ただ虚空に消えていく。部屋は外から差し込む日差しの為に明るい。そこには可愛らしい小さな小物や、アイドルだろうか、男性のポスターがそこかしこに貼ってある。それは皆、にこやかに笑っている。
「やっぱりあんただったのね。南や相沢や品川を殺したの。この殺人鬼。あんたなんて死ねばいいのよ」
激昂する目の前の女の怒りに満ちた叫び。いつかの彼に向けられたのと同じ叫び。だから、もうそれは聞き入れられない。
「ね、ねぇ、ちょっと。止めてよ。あんなの冗談じゃない。これ解いてよ。そうしたら。そうだ。あんたやったことないでしょ。私うまいのよ。どう、私がー」
マッチを投げる。火が上がる。悲鳴が上がる。ポスターに炎が反射しててらてらと光っている。ポスターの男性がみんな笑っている。手を叩く。パチパチと音がする。また悲鳴。とても、とても悲痛な悲鳴。手を叩く。手を叩く。手を叩く。パチパチパチパチパチパチ。
吉岡は外に出た。強烈な太陽光が彼の瞳を射貫いた。彼の背後の家の一室からは煙が立ち上り始める。野次馬が集まり出したそこを離れて、彼は悠然と歩いていった。
あるアパートの一室のカギを開ける。昼間なのに陽のあまり差し込まないそこの電気をつけると、入ってすぐにある台所の床に、金髪の男が縛り付けられて転がされている。ぐったりとしている彼はこの暑い中でもあまり汗をかいていない。吉岡はその男の腹を思いきり蹴った。金髪の男はひび割れた唇からくぐもった声を吐きだした。
吉岡は彼をおいて、居間へと移った。テレビをつけると、ワイドショーがやっていた。彼らは事件の話をしていて、皆口を揃えて、酷い、酷いと顔をしかめている。吉岡はそれを聞くと柔らかく笑って、台所に舞い戻って、そこに置いてあった麺棒を手に取り、思い切り金髪の男の頭に叩きつける。
虚ろな瞳が揺れている。振り上げられた麺棒にはべったりと血が付着している。頭からたらたらと流れる血が顔を伝って落ちていく。それは血だまりとなって頬が浸る。また振り上げられる。また振り下ろされる。息が荒くなってくる。顔は真っ赤に染まっている。笑っている。笑っている。笑っている。
しばらくすると、金髪の男は動かなくなった。吉岡は顔に付いた血をぬぐって、棍棒を投げ捨てると、その場から立ち去った。外はもう夕焼けに染まり切っていて、遠くでは豆腐屋の笛が鳴っていた。
「いやだ。止めろ。止めてくれ」
男は声の限りに必死に叫ぶ。バシャバシャ、バシャバシャとガソリンがかけられる。たくさん物の置いてある部屋にガソリンの匂いが充満する。顔を背けて、それを必死に避ける男を尻目に、吉岡はゆったりとマッチを取り出した。
「おい、吉岡。悪かったって。お前にあんなことして、火傷のことだって悪かったって思ってる。だから止めろって」
吉岡は辺りを見回す。綺麗な机、綺麗な服、綺麗な本。どれもピカピカと光っている。吉岡は黙ったままで笑う。
「吉岡。俺だって止められなかったんだって、わかるだろ。止めろ。止めろ。なにも殺すことないだろ。そうだ。金だ。金をやるから、金ならいくらでもやるから。どうしてこんなことするんだ」
吉岡は微笑みを失うとどこにも焦点のあっていない虚のような瞳をして彼の問いかけに答えた。
「僕にもなにがなんだかわからないんだ」
マッチを投げる。悲鳴が上がった。何時ものようにそれを眺める。頬の肉を上げてぎこちなく表情を作ると拍手をする。パチパチ、パチパチ。それはとても弱弱しかった。すると、急に部屋の扉が開かれる。制服を着た人々が叫び声を上げて、吉岡を取り押さえた。消火器の白い煙が、縛り付けられた男に吹きかかる。吉岡はそれを見て、床に押さえつけられながらも声を上げて笑った。とてもとても嬉しそうに笑った。炭化した肌を晒す縛り付けられた男の息はまだ少しあるようだった。
五
吉岡が裁判官の前に立っている。傍聴席の民衆は彼の後姿に怒りを込めた眼差しを向けている。そこには記者か何かだろうメモをしきりに取っている者もいた。日に焼けた太った男や金髪の男、そして、若い男女が写った写真を抱えた人々のすすり泣きが吉岡まで届いている。裁判官たちや陪審員席に座る人々はそんなすすり泣く人々の怒りに立脚して、義憤に駆られているようだった。
陪審員の一人の年配の男性が、あくまでも感情を抑えた調子で彼に尋ねる。
「では、あなたは自分のしたことをすべてお認めになられるんですね」
下手くそな敬語を使って、精一杯に上品っぽく尋ねる彼に吉岡は動じずに答える。
「ええ、すべて私がやりました」
彼の目線は今か今かと常に裁判官に向いている。年配の男性は怒りを露にする。
「一体、何の考えがあって、あんな凶行をはたらいたんだ。この悪魔め」
それが口火となって、口々に彼に罵詈雑言を浴びせる。
「そうだ。そうだ。いったいお前は何を考えている」
「生きた人間に火を放つなんて信じられない」
「縛り付けて暴力を振るうなんて考えられない」
「抵抗できない人間を一方的に甚振るなんて人間の所業じゃない」
「そのうえ反省もないなんて。なんて自分勝手な人間なんだ」
やいのやいのと、陪審員席からどころか、後ろの傍聴人席からも声が上がる。
「酷い、あなたを雇ったあの人をあんなむごい方法で殺すなんて」
「まだ若いのに、まだまだこれから未来があるのに。なんで、なんで殺されないといけないのか」
「この鬼畜。お前のやったことは許されるようなことじゃない」
喧騒をだいぶ堪能してから裁判官が槌を何度も打ち鳴らして「静粛に、静粛に」と、声を上げて周りの人間を落ち着かせる。あらかじめ決められていたかのように陪審員たちは再び席に腰を下ろして、嘘みたいに傍聴人席も静かになって、わざとらしいすすり泣きの声だけがした。裁判官は自分の職能に満足した様子だった。吉岡はそんな彼をずっと眺めている。裁判官はちらりとそのメモを持った方へと目を滑らせてから、必要以上に大仰に吉岡に尋ねた。
「貴方は自分のしたことがどういったことか本当にわかっていますか」
柔和なように尋ねているが、それは得意さをにじませた奇妙なにこやかさで、薄気味が悪かった。吉岡はぼんやりと笑うとゆっくり口を開く。
「ええ、もちろん」
待ってましたとばかりに陪審員席と、傍聴人席から声が上がりそうになる。裁判官はまた大仰な手ぶりで何度も何度も槌を打ち鳴らすと「静粛に、静粛に」と、唱える。メモを走らせる男たちを横目で覗う。
「わかりました。吉岡善人さん。では、あなたは自らの罪をすべてお認めになるということですね」
「ええ、もちろん。私のしたことはとても悪いことだと思います」
こともなげに吉岡はそう言い切った。彼はとてもにこやかで、その様子にまた回りがどよめいたが、それを制するように裁判長は再度大きな声を出す。辺りは静まって、裁判長はまた得意そうだった。吉岡は今か今かと我慢が効かないようだった。
「では、判決を言い渡す。主文、被告人吉岡善人を死刑に処す」
どよめきが上がる。裁判長はまだ判決を読み上げているが、それは周りに人間の狂乱で聞こえてこない。メモを取っていた人々はいの一番にその場を飛び出していった。裁判長は次から次へと目に入る文字をなぞって機械のように口を動かしているが、ほんの少しだけ、安心と高揚を滲ませる。彼以外の人々はみんなが拍手をする。パチパチパチパチ。誰も彼も浮かれている。写真を持っていた人たちはそれを手放して、義憤に駆られていた陪審員の人々は急ににこやかになって、皆が喜びに満ちてパチパチと手を叩くその様はまるで猿の様だった。吉岡はそんな狂乱の中でとても満足そうに笑みを浮かべると、たった一言だけ言葉を零した。
終わり
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