36話・おかえり…
アントスは「まさか」と思いながら、押入れに近づく。
きっと気のせいで…
押入れの中は、空っぽに違いない。
『少しだけ…押入れの中を、覗いてみよう』
いつも通り、押入れを開くだけ。
何一つ、難しいことはない。
だが、いざ押入れの前に、立ってみると。
一段と、アントスの緊張が強ばっていく。
押入れのドアに触れると、手から変な汗が出てきて。
いつも以上に、押入れのドアが、重く感じてしまった。
この瞬間さえ、永遠に思えてしまい。
彼はもう、周囲の事など、眼中にすらなく。
今はよっぽど、押入れの中が重要だった。
この時、アントスの背後にて、小さな足音がしたが。
その足音に、彼は気づいてない。
アントスは体を強張らせ、不安を薙ぎ倒すように。
力一杯、押入れのドアを開く。
押入れのドアが、一気に開放されて。
その先には…
「おかえり!」
笑顔の息子が。
「お帰りなさい」
笑顔の妻が。
父親の帰りを、明るく迎えてくれる…ことは無かった。
グチャ、グチャ。
肉を喰う音が響く。
グチャ、グチャ、グチャ。
肉を喰う音が、アントスを現実に戻す。
グチャ、グチャ、グチャ、グチャ。
誰かが、誰かを、食っている音。
その誰かとは、正真正銘…アントスの「妻と息子」であった。
あんなにも、優しかった妻が…
愛しの息子を、まるで食料のように、ボリボリと貪っている。
一体、何が起こっているのか?
理解できないまま、アントスは、完全に困惑しており。
唖然と、呆けたまま、いつものように話してみる。
「おにぎり…美味しかったよ」
彼の声は、妻に届かず、肉を貪る音に掻き消された。
「帰ってから、遊ぼうって…約束したよな」
息子の体は、殆ど食べられ、小さな肉片が落ちてゆく。
もはや、幾ら声をかけようとも。
誰にも、父親の声は届かない。
「頼むから、たのむから…」
声が震え、涙が流れ、非情な現実を噛みしめる。
「おかえりって…言ってくれ」
バリ、グチャ、バリバリバリ!
妻は、息子の頭を、荒々しく噛み砕き。
まるで、果物を食べるように、我が子を食らっている。
「あ…あっ…あ…」
アントスにはもう、喋る気力すらなく。
枯れた花のように、ぼーっと、立ち尽くすのみ。
枯れ木のように、棒立ちのアントス。
感染した妻が、夫である彼へ、標的を代えてくる。
しかし、アントスに抵抗の意思はなく。
ただ、空虚の眼差しで、妻だったモノ(感染者)を眺めていた。
『ごめんな…ゴメン、ごめん、ごめ…」
謝罪の言葉が、心の中でグルグルと廻る。
『もう、どうでも、いいや』
謝ることすら、疲れ果てて、考えることを放棄する。
だが、そのとき…背後から。
「ふぅ」
女の子の声が、一つ呟き…
「まだ、閉幕じゃないけど?」
その声はまるで、小さな鈴の音色だった。