35話・ただいま…
アントスは、ちんまりとした一軒家を見上げて。
緊張を和らげるように、一つ呼吸をおく。
周りの家は、ほぼ高級な造りゆえ。
さらに、この家の貧相さが、際立っていた。
このボロ家こそ…アントスの家であり。
彼の家族が待つ、大切な場所なのである。
幸運にも、感染者の姿は見当たらない。
あとは我が家に、感染者の魔の手が、及んでいないか、どうか?
アントスは、緊張で高鳴る胸を抑えながら。
ボロい扉を、ゆっくりと慎重に開く。
この家は、とても小さいので。
玄関に入ってから、部屋の大体を見渡せる。
部屋の中央には、安っぽい「木製のテーブル」。
そして、古びた椅子が、三脚ほど佇んでいる。
また、「小さな押入れ」が、部屋の脇にあって。
この押入れは、息子の大のお気に入りだった。
押入れを、秘密基地にしては、親子二人でよく遊んでいた。
黄金の満月が、窓辺から部屋を照らしてゆき。
薄暗い部屋に、静寂が流れてゆく。
『ただいま』と言えば。
いつものように、息子が笑顔で、飛び出してくるかも…
しかし、アントスの口は、すっかり固まってしまう。
もし、返事がなかったら?
そう思うと、思考が凍りついてしまうのだ。
息を潜めながら、狭い部屋の中を、右往左往する。
『どこも、荒らされていない…きっと、大丈夫』
妻と息子の姿なく、アントスの影だけが、虚しくさ迷い続ける。
二人(妻と息子)とも、家から出たのだろうか?
もし、外の地獄に、出たのなら。
二人の無事は、絶望的だろう。
押し寄せてくる不安が、目眩を誘ってくる。
アントスはふらつきながら、テーブルに手を置くと。
目を閉じてから、家族の事を考えた。
じっと、目をつむってみると。
想像以上に、息子の笑顔が、鮮明に映った。
「ほらほら~こっちこっち!」
息子は愉快に笑いながら、押入れの中に隠れる。
「こら~まてえ!にがさないぞぅ」
息子との時間を、楽しむアントスは、どこにでもいる父親だ。
アントスは、押入れを、勢いよく開けると。
「ガオォ!」
変顔をしながら、息子を驚かせようとする。
父親の可笑しな顔に、息子は腹を抱えて笑いながら。
「このぉ、悪いドラゴンめ~」
と、玩具の剣で、父親の頭を、ポンポンと叩く。
かつての親子二人…幸せの記憶が、ゆっくりと流れていく。
だが、この瞬間…
アントスは、この記憶の中にて、妙な違和感を抱く。
「押入れ…」
息子が、大好きだった隠れ家。
そう、アントスはまだ「押入れ」を、確認していない…




