その伍
幾日も主の下を離れていた侘丸であったが、主はそんな彼を責めようとはしなかった。
むしろ、彼の姿を見て、安堵の表情を浮かべていた。
「お前が無事で何よりだ、侘丸。」
「……。」
そこは静寂な環境に建てられた、城の中だった。
侘丸、彼の主である大羽、そして大羽の側近である琴弾が今いるこの部屋はただただ広く、ただただ落ち着いていた。
沈黙を尊ぶ大羽らしいと言えばそれまでだが、静かなのは彼だけではなかった。
「珍しいな。どうしてこんなにも帰りが遅れた?」
「……。」
琴弾の口調は冷静さに満ちていた。
別に、彼は何も喋らない侘丸を糾弾しているわけではない。
「大羽様はずっと心配しておられたのだぞ?」
彼は主のことを思い、発言していた。
侘丸は琴弾の性格は知っている。
長年、大羽に仕えているから知っている。
故に琴弾の心中を察することは簡単だった。
だが、それでも、侘丸は口を開こうとしなかった。
いや、できなかった。
彼の主に跪いたその格好だけが、琴弾にとっての判断材料となった。
「……。」
「…まぁ、お前が言葉を喋れないのは知っている。何かやむをえない事情があったのだろう。」
琴弾は軽く息を吐くと、包みを侘丸に渡した。
「今回の報酬だ。とっておけ。」
侘丸は頭を垂れ、それを受け取った。
「あと、食事も用意してある。……本当はいつものように、お前を労って質のいいモノを用意していたのだが…。何分、帰りが遅いので家来たちに全て食べさせてしまった。腐ってもいけないしな。だからあまり良いモノではないが……許せ。」
「……。」
「後でお前の部屋に用意させる。下がっていいぞ。…次は大羽様の御心を乱すなよ。」
琴弾が言い終わると同時に、侘丸は煙のように一瞬にして姿を消した。
「…暗殺者というより、これではただの忍よのう。」
そんな奇妙で不気味な侘丸に怯えることなく、大羽は扇子を、余裕綽々と仰いだ。
「しかし、何もモノを言わぬのは、少々不便です。最近になってようやく意思が交換できるようになってきましたが。」
「そう言うな。あいつの生まれは知っておるだろう。」
かつて、あの川で。
赤子だった侘丸が捨てられていたあの川で、大羽は侘丸を拾った。
大羽がその胸に侘丸を抱いた時から、侘丸の声を聞いた者は誰もいない。
「…失礼しました。捨てられたことによる精神的な病、と皆も噂しております。」
身寄りのない子どもを、拾う。
大羽は一国の主だ。
その行為は酔狂とも解釈できるし、彼の大器ぶりを表している行為だとも言えよう。
「……琴弾よ。」
だが、主はモノを言わず、親を、家族を知らない侘丸を、
「わたしを笑うか?」
人殺しにした。
「あいつはこんな風に育てたわたしを。」
殺ししか生きる術を知らない、光を浴びることを許されないような、人殺しにした。
「わたしを罵るか?」
しかし、大羽にも正義があった。
彼は彼なりに、考えていた。
「偽善者ぶり、依頼された悪人を、あいつに殺めさせるわたしを。」
侘丸は、善人は殺さない。
大羽もまた、悪人しか殺させない。
『悪い奴に虐げられている弱者を、裏の正義が守る』
それが主である、大羽の思いであった。
今回の盗賊も、結果として美雪の村を助けることになった。
それも『正義』の賜物と言えよう。
だが、裏の仕事である以上、報酬はそれなりに貰う。
だから、彼は、自分のことをよく知る男に問う。
「琴弾。わたしを嘲るか?」
「……。」
侘丸の真似をして、琴弾は黙っているのではない。
ましてや、回答に困り、口を閉じているのではない。
琴弾は、呆れたのだ。
「…何を今更。」
琴弾にとって、主を蔑ろにすることなど。
琴弾にとって、主をコケにするなど。
万に一つも、ない。
「私は貴方様を笑いませんし、罵りませんし、嘲りません。貴方様に対する忠義は、例えようもないくらいに、大きなモノです。」
「ふ、この部屋よりもか?」
「はい。」
琴弾は当然のように、真っ直ぐな目で、それに答えた。