その四
心の財産という言葉が掻き消える程、村人たちは疎ましく、村人たちの会議が掻き消える程、女は強かった。
女は手を繋ぎ直し、侘丸をまるで従えるかのように、家へと入る。
引き戸を閉めるその動きには勢いがあった。
「…あぁいうの、ムカつくんだよね。クソが。」
齢の割りに口の悪い女だ。
侘丸は背中からカゴを下ろす女を見て、心の中で独り言ちた。
だが、そんな女でも、一人の人間の姉である。
「ごめんな、美雪。大きい声出して。」
憤りを覚えても、妹を想う心は忘れない。
女は自身のしなやかな指先で、美雪の頭を撫でた。
怖い姉も優しい姉も、少女にとっては、
「うぅん、気にしてないよ!」
同じ姉だ。
だから、自然な笑顔を、美雪は姉に向けることができた。
家族を知らない侘丸には、その光景が奇妙に見えた。
それと同時に女は呟いた。
「あ、いけね。」
「どうしたのお姉ちゃん?」
「水汲むの忘れた。」
「えーー!?」
飯に使う水か。
「すまん美雪、ちょいと戻って汲んできてきれなぇか?」
「えー、えー、えーー!??」
「……んあ?」
「…行ってきまーす。」
姉の面構えが般若となる前に、美雪は家を後にした。
「さて…飯の準備は後回しにして…。」
女は、首を横に振り、肩が軋むような音を鳴らした。
そして右の手で眼前のカゴを隅に避けた。
飯の準備…?
まさかこのカゴの中身が飯の材料か?
侘丸は移動されたカゴを覗いた。
中に入っているモノは、侘丸にはただの「草」にしか見えなかった。
しかもごくわずかの。
貧しい村だ。
彼は眉間に皺を寄せた。
女は口籠ることなく、次の言葉を口にした。
「ありきたりなこと聞いてすまないが、アンタ、ワケありだろ?」
侘丸の眉と眉はさらに距離を縮めた。
だからあの子を…美雪を外に出したのか。
聞きたかったから
「ワケ」を聞きたかったから、外に出したのか。
最初からそのつもりで、さっきの川で水を汲まなかったのか。
「そんな怖い顔しないでくれ。アタシゃ詮索するつもりで聞いた訳じゃないさ。ただ、ワケがあるんだったら、ここではそんなややこしいことは忘れて、さ。気楽に過ごせって言いたかっただけだ。答えたくなかったら、答えなくていいさね。アンタがホントに英雄かどうかなんて、どうでもいいよ、アタシは。」
「……。」
「これもまたありきたりな台詞かもしれないけど、いつまでもいていいからさ。三人分の飯くらい、どうにかなるさ。」
女は、侘丸に帰る場所がないと思っているからそう言ったのだろう。
だが、現実には、違う。
侘丸には故郷はないが、帰る場所…いや、戻る場所はある。
雇われている主の下に、戻らなければならない。
それをしないのは介抱してくれた美雪の為、そして傷が癒えていないからだ。
しかし、前者の理由が霞んでしまった今、侘丸には女の優しさが偉大に見えた。
食べるモノも満足に無いだろうに、彼女はそれを三人分工面しようと言うのだ。
……三人分?
「何だ、不思議そうな顔して?あ、そうか。アンタとアタシ達で三人分だよ。……アタシ達は二人だけの家族さ。
侘丸の中で家族という概念がぼやける。
「捨てられてね、親に。あの子はまだ赤ん坊だった。アタシもここまで大きくなかったけど。二人一緒にポイーっさ。」
同じだ。
捨てられた。
捨てられたのに
僕には家族がいなくて
二人は家族。
捨てられたのに、家族を知ってる。
なんか、よくわからない。
「そうだ、まだ名前言ってなかったね。アタシ夏樹ってんだ。よろしく。」
「……。」
傷が癒えた三日後の晩。
侘丸は姿を消した。