ソリ (2)
城の入り口が開き4匹の灰色狼たちがソリを引っぱった。
暗い城内から外に出ると、ぼんやり晴れでもまぶしく感じるほどだった。
「ああ、ほんとに、外の空気ってステキ」
とコーネリアが言った。
「そうですとも、もちろん」
マシウスが灰色狼にムチを打つと、狼たちは力強く走り始めた。
「こんな空気を吸うことができるなんて。夢みたい」
「まだまだ、これから、スーメルクの氷に閉ざされた、きれいな世界を走りますよ」
コーネリアは、うっとりと、窓の外を眺めた。
岬をぐるりと取り巻く道を滑るように降りながら、マシウスは、ふと自分が住んでいる城を見上げた。
「光っていますね」
城の石肌についた氷がぼんやりした光を反射していた。
「ほんとうね、ガラスのお城みたいだわ」
それから、ジョンキョンの港へ降りると、ソリはスピードを落とし、歩く人にぶつからないように、慎重に進んで行った。
皆、マシウスのことを知っていたから、何かしら、声をかけたり、手を振ったりして、ソリに乗る二人に笑顔を向けた。
「久しぶりだね、マシウス!」
声をかける人の顔を見ても、マシウスはちっとも思い出せなかった。
青年になる前には、このあたりまでよく遊びに来ていたのだ。今は城の地下にもぐり、坑道を整えることに専念していて、その間にすっかり忘れていた感覚がよみがえって来るようだった。
「少し歩いてみたいわ」
とコーネリアが言った。
「それは…」
とマシウスが口ごもった。
「ふふふ。あなた、本当にジムントにそっくりなのね。ジムントもいろいろ心配して、わたしが外に出るのをいやがったわ。それはわたしを思う気持ちだと思って、うれしく思ったこともあったのよ…」
マシウスが答えを迷っていると、コーネリアはいたずらっぽく笑った。
「わかったわ。今日は歩くのをやめておきます。それは、次の時の楽しみにするわ。どう?」
そう言われて、マシウスはホッとした。
「そうしましょう。また、晴れの日を待って、外に出ましょう」
「なんてうれしいことかしら。私の希望がかなったばかりか、また新たに楽しみが増えるなんて。マシウス、あなたは本当にすばらしい贈り物をくれたのよ」
マシウスは、心がポッと熱くなるのを感じながら、
「それは、息子として当然のことです」
と答え、
「今日は、まず帰りましょう」
と、港から城への道をぐるりと上り始めた。
「あなたたちが、皆で楽しそうにお城の下を掘って、いろいろ話したり笑ったり、騒いでいるのを見て…、わたし…、やきもちをやいていたんだわ。なんて、つまらないことにこだわっていたのかしら」
とコーネリアが言った。
マシウスにはそれはわからない気持だったので、マシウスはただそれを聞いていた。
「外に出て、こんなに気持ちがきれいに、洗われたようになるなんて…」
そう言いながら、コーネリアがふっと目を閉じた。
その時だった。右はじを走っていた灰色狼が、ふと道から足を踏み外したのだ。
ガクっとソリが傾いた。
そこは岬の切り立った崖の上で、道幅はじゅうぶんにあったのだが、ソリが右に寄りすぎていたらしい。一匹の灰色狼がその崖からすべり落ちそうになっている。
「あ」
とマシウスが声を上げると、その一匹の灰色狼の重さに引っぱられるように、他の灰色狼もすべり、歯止めがきかかくなり、ソリの車体はまっさかさまに岬の下に落ちてしまった。
車体は天井が下になる形で、崖の下の張り出した岩の上にとどまり、その時、ガリガリと氷の中に突き刺さるような強い衝撃があった。マシウスは目がくらみ、しばらくもうろうとしていた。冷たい風が頬を刺し、マシウスは我に返った。
今、マシウスは天井を背中にして仰向けになっており、ソリの下だった部分を見上げていた。ふと横を見ると、狼たちはソリの前側から綱で下にぶら下がっている。
マシウスは、あわててソリの外に出ると、狼たちの手綱を一本一本確かめた。
その手に、赤い血がっべっとりとついていたので、マシウスはぎょっとした。
「あ、お母様!」
とマシウスは真っ先に確認しなければならないことを思い出し、あわててソリの中を見ると、コーネリアはソリの天井に仰向けになっており、うつろな目をやっとの思いで開いていた。
「マシウス」
声がかすれて、やっと出している感じだった。
「お母様!」
そう言うと、母の目から涙があふれ出て来た。
「あ、あなたの目。痛くないの?」
「え? 目?」
マシウスの右目には、凍った石の断片が刺さっていた。マシウスの手を染めていた血は、マシウス自身のものだったのだ。
「なんということかしら。あなた、わたしの顔が見えて?」
「ええ、ええ」
コーネリアはマシウスに手を差し出すと、マシウスはその手を取った。その瞬間、頭がくらくらっとした。
「マシウス、ありがとう…」
コーネリアが目を閉じた。
「お母様、寝てはいけません。こんなに寒い中で…」
そう言い、動こうとしたが、身体が動かなかった。目の奥に熱いものが走り、もう何も考えられなくなった。世界の果てとは、こういう所なのだろうか、とぼんやりとマシウスは思った。
目の前が暗くなり、意識が遠のこうとしていた。でも、なんとかしなければ。どうにかして灰色狼を引っ張り上げなければ…。そう思いはしたが、引っ張り上げてからどうする? ここは道にはつながっていない。今見えるのは崖の下と、上がれそうもない岬の上だ。そう思うと、さらに頭がくらくらと回るようになり、立っていることができなくなった。マシウスはコーネリアの横にからだを横たえた。コーネリアは手袋をぬいで、マシウスの首を触った。
その手はほんのり暖かかった。マシウスもコーネリアも、もう、何もしゃべることができなかった。
マシウスはもう自分の力ではこれ以上考えることも、動くこともできないのだと思った。身体が重く沈んで行くように感じる。それはなんだか心地よく、その重さに合わせて、どこまでも沈んで行きたいと思った。
ぼんやりしたお日様はまだ出ているのだろうか。
マシウスの場所からはそれを確認することはできなかった。マシウスの気力は尽き、意識が遠のいていった。




