天使にありがとう
私は勢いよく玄関のドアを閉めた。
すごい音がした。
その後、足音を立ててアパートの階段を下りた。
しばらく歩いて後ろを見た。
誰もいない。
てゆうか、旦那が追いかけて来ない。
私はトボトボと歩きだした。
言うことを聞かない息子。
理解の無い旦那。
そして、育児ノイローゼ気味の私。
こんな家で本当に楽しいのか?
気がつくと歩道橋の上にいる。
このまま飛び降りてやろうか。
そしたら旦那は責められるだろうな。
いい気味だ。
「何してるの?」
突然話しかけられた私は、歩道橋の手すりに足をかけていた。
見ると、小学生くらいの少年がこちらを向いて立っている。
「おばさん。」
おばさん・・・。
まだ二十七なんですけど!
が、手すりにかけた足をおろして自分を見てみた。
みすぼらしい。
髪はバサバサ。
服装は、今時の流行とはかけ離れたスウェットの上下。
もちろん化粧も何もしていない。
ハァ。
溜息をついて確認した。
間違いなくおばさんだ。
「ここから飛び降りようとしてたの?」
少年に言われて、さっきの気持ちを思い出そうとしたが、思い出せない。
わからない。
私は死にたかったのか?
「ここから落ちて、車にひかれたら痛いよ。」
そうだ。
痛いだけで終わってしまって、死ねないかもしれない。
てゆうか、私は死にたかったのか?
「なんで何もしゃべらないの?」
特に何も話すことが見当たらなくて、私の口から言葉が出てこない。
「ねぇ、おばさん、声出せないの?耳が聞こえないの?」
そう言う少年を見て、一息ついて言葉を出した。
「聞こえてるし・・・出せるよ、声。」
「そっか。良かったね。」
そのまま二人は向かい合って立っていた。
なんだこれ?
私は今、なぜ少年と向かい合って立っている?
私は、少年に背を向けて立ち去った。
視線を感じて後ろを見ると、こちらを見て立っている。
何、コイツ。
少年はそう思っているのかもしれない。
私も思ったけど。
私は再び少年に背を向けて歩き出した。
このままどこかに行って帰って来なければ、旦那も少しは困るかもしれない。
が、理性が邪魔をして私を家に帰らせようとする。
このまま帰っても、またつまらない毎日が始まるって言うのに。
家事と育児を頑張っても、誰かに褒められるわけでもなく、お金をもらえるわけでもなく。
何のために頑張っているのかわからない。
私が旦那と子供のことが、好きで好きで愛してやまないならわかるけど、そうじゃないし。
私、何でこんなに頑張っているんだろう。
それでも理性が邪魔をして、家に帰った。
帰ると、またつまらない生活が待っていた。
掃除をして。
買い物をして。
洗濯をして。
育児をして。
そして、最後に旦那に「お気楽専業主婦」と言われる。
時々頭の中がぐちゃぐちゃになる。
こうゆう時、友達に愚痴を聞いてもらえば少しは楽になるのかもしれないけど、私には友達なんていない。
何と言うか、基本的に人間が嫌い。
人間とどう付き合っていいかわからない。
結婚した頃は旦那のこと、好きだったんだけどな。
いつから変わってしまったのかな・・・。
なんか、辛い。
子供が生まれて、余計に辛くなった。
不器用な私が子育てをするなんて、始めから無理だったのかもしれない。
私はどうしたらいいのかな。
そんな感じで今日も終わって明日も終わって、どんどん年をとって・・・。
私は何のために年をとっているんだろう。
何のために生きているんだろう。
この命を、死ななくていい命にあげたい。
私なんて、死んじゃえばいいのに。
私の人生。
面白い事、何もなし。
今日も寒い中、息子を連れて公園に行く。
こんなに頑張っているのに、なんで誰もわかってくれないんだろう。
私はブランコに乗って息子をボーっと見ている。
私のことをこうやって見てくれてて、どこかに連れ出してくれる王子様はいないかなぁ。
「昨日のおばさん。」
そんな声が聞こえたが、自分のこととは思わず、私はずっと息子を見ている。
「ねぇ。」
突然目の前に顔が現れた。
私はびっくりして、ブランコから落ちた。
私は落ちたまま空を見ながら、そう言えばさっき聞き覚えのある声でおばさんって聞こえたな。
「何やってるの?」
その言葉、昨日も聞いた気がする。
再び現れた顔を見ると、昨日の少年だ。
私は起き上がって頭の砂を払い落とした。
ふと見ると、息子が近くにいた。
何事か、と思ってこちらに来たらしい。
「ママ。」
息子が私に抱きついた。
いつの間にかベンチに座って落ち着いている少年が言葉を出す。
「おばさんの子供?何歳?」
「2歳。」
いまだにおばさんと呼ぶ少年と呼ばれる自分に腹が立ち、息子を連れて帰ろうとした。
「名前は?」
まだ話しかけてくる。
「ユウヤ。」
息子が、言えるようになった自分の名前を嬉しそうに言った。
「そっか。ユウヤ、よろしくな。」
そう言って息子に絡んできた。
「おばさんは?」
私にも絡んでくる。
てゆうか、それは名前を聞いているのか?
それとも、年齢を聞いているのか。
どっちを答えたらいいの?
「私の名前?」
一応確認しておいた。
「うん。」
ハァ、良かった。
いや、別に年を聞かれてもいいんだけど。
「私はミナコよ。」
「ふーん、そっか。俺はタツヤ。よろしく。」
「はい、よろしく。じゃ。」
早いとこその場を立ち去ろうと思った。
「じゃ、またね。」
タツヤって子はそう言って手を振っていた。
「バイバイ。」
息子が言って手を振った。
あの位の子供と接すると、ちょっと自分が嫌になる。
ちょっとイライラするし。
もともと子供が嫌いなのかな。
それに、変に仲良くすると相手の親とか出てきたりしたら面倒くさいし。
もう、ほんと人間って面倒くさい。
これから息子が幼稚園とか行き出したらもっと面倒くさいな。
あー嫌だ。
こんな人生、何で選んじゃったんだろう。
私はいつからこんな考えになっちゃったのかな。
「ミナコさん。いつもこうやってユウヤと遊んでるの?」
次の日、公園に行ったらまたタツヤがいた。
しかも、おばさんの次はミナコさんって。
「遊んでるってゆうか、ユウヤが遊んでるのを見てるのよ。」
「ふーん。」
なぜか今日もタツヤに絡まれる。
「ミナコさん。」
「何?」
「死にたいの?」
「え?なんで?」
「歩道橋から飛び降りようとしてた。」
「そう言えば・・・そうだったっけ。」
「そうだよ。死ぬの?」
「死なないよ。あんなの本気じゃないよ。」
「そっか。良かった。」
「あなたには関係ないでしょ。」
「ユウヤにお母さんがいなくなるのはかわいそうだよ。」
「・・・・。」
何でこんな話をしているの?
とりあえず、もっともな意見を言われて何も言えなくなった。
「僕、お母さんいないから。」
「え?なんで?」
「死んじゃったの。」
「・・・・。病気とか?」
「うん。ガンだったよ。」
意外な身の上に、自分が恥ずかしくなってしまった。
「ゴメン。」
思わず謝ってしまった。
「なんで謝るの?」
「何となくよ。」
「明日も来る?」
「晴れてたらね。」
「じゃぁ、晴れてたら明日も来るから。」
「家帰らないの?」
「帰ってもばあちゃんしかいないし。」
「ばあちゃんは心配しないの?」
「僕がいない方が楽できると思う。」
「そう?」
「そうだよ。腰が悪いし。」
「そうなんだ・・・。」
「じゃぁ、また明日ね!」
タツヤは帰っていった。
私も息子を連れて帰った。
ちょっと心があったかい感じだった。
次の日から、タツヤと話をするようになった。
そして今日も当然のようにタツヤと話している自分がいる。
いつまで続くのかな?
でも、悪くないな、とか思ってしまう。
「僕、引っ越すみたい。」
「え?そうなの?いつ?」
「来月。お父さんが転職して再婚するんだって。」
なんだ。
こうやって話せるのも、あと少しか。
「ミナコさんも一緒に行こうよ。」
「な、なに言ってるのよ!」
タツヤが変なことを言うから、つい大声を出してしまった。
「あぁ。じゃぁユウヤにお母さんがいなくなっちゃうか。」
そうゆう問題じゃなくて。
「なんで私も一緒に行くの?」
「だって、ミナコさんといつもこうやって話をしたいんだもん。」
「新しいお母さんといろいろと話をしたらいいんじゃない?」
「うん・・・。」
さすがにすぐにはお母さんって思えないのかな。
まだ子供だし。
「僕、今日はもう帰るね。」
「あぁ、うん・・・。」
なんか元気無い。
どうしたんだろう。
その時、自分の心のゆとりを感じた。
少し前は余裕なんて無かったのに。
タツヤのおかげかも。
こうやって息子も元気で、私も元気で。
普通に生活ができて、何が不満だったんだろう。
そう思うと、今の自分は幸せなんだって思えた。
なんであの時歩道橋に足をかけたんだろう。
タツヤはそんな私を見て、何を思ったんだろう。
次の日からタツヤは公園に来なくなった。
引っ越しの準備が忙しいんだと思った。
そして、やっぱりタツヤがいなくなるのは寂しいとか思ってしまった。
それから半月くらいして、タツヤは急に現れた。
公園のベンチに座っていた。
「久し振り!」
タツヤの肩を叩いた。
すると、タツヤは私を見て微笑んだ。
「僕、明日、引っ越しなんだ。」
「そっか・・・。寂しくなるね。」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。こうやって話をするのがすごく楽しかったんだよ。」
「じゃぁ、一緒に来てくれる?」
「それはできないよ。」
「どうして?ユウヤも一緒に来たらいいんだよ。」
「そうゆうわけにはいかないんだよ。」
「なんで?」
「う〜ん。ユウヤのお父さんがここで仕事してるし、私とユウヤだけ行ったら、ユウヤのお父さんは一人になっちゃうでしょ?」
「そうだけど・・・。」
タツヤは黙ってしまった。
「じゃぁさ、文通しようよ?」
「ブンツウ?」
「手紙のやりとりよ。携帯はまだ持ってないでしょ?」
私は鞄からメモ帳を取り出して、自分の住所と携帯の番号を書いた。
「はい。引っ越してから落ち着いたら手紙ちょうだい。」
タツヤは手紙を受取って、何かを考えるようにうつむいた。
「あなたって、なんだか天使みたいね。」
私はタツヤに話をした。
「あなたとここで話すようになってから、私の心は優しくなれた。あなたとあの歩道橋で出会うまでは、私の心はギスギスしてて、自分のことが大嫌いで。でも、あなたと話をすると、なぜか優しくなれるのよね。それって不思議だけど、とにかく、あなたって天使みたい。」
タツヤは何も言わずベンチから離れようとした。
「ひとつ聞きたいんだけど!」
タツヤは立ち止った。
「あなたは、あの歩道橋で私を見た時、どう思った?」
すると、タツヤはこちらに歩いてきた。
そして、私にキスをした。
驚いて固まってしまった私に、タツヤが言った。
「僕、あの歩道橋でミナコさんに一目ぼれしたんだ。ほんとだよ。」
「うそ・・・。あの時、おばさんって言ってたし。」
「ほんとだって。悲しそうな顔をしたおばさんのことが好きになっちゃったんだ。」
そう言いながらタツヤはユウヤを見た。
「ほんとはミナコさんが欲しいけど、ユウヤからお母さんを取っちゃうことはできないよ。だから、僕、諦める。」
そう言ってタツヤは走り去った。
私は顔が熱くなって、少しの間頭が真っ白になってしまった。
我に返った私の前には、タツヤの姿は無かった。
ユウヤが無邪気に遊んでいる。
やっぱりタツヤは天使だったと思う。
こんなに心が澄んでいるのは、いつ以来だろう。
あの天使のおかげで、私も変われると思う。
もっと、前を向いて、自分の進むべき道を進もう。
とは言え、キスされたのは驚いたし、かなりドキドキしてしまった。
もしタツヤにもう一度会えたら、こう言おう。
「ありがとう、私の天使。」