怪しき彗星の明かり
十年春正月十六日
都の西方に怪しき彗星の明かりを見る。
三月二十二日
客星見る
夏四月二十三日
詔して曰く、
我が朝の聖代を云う者は、延喜の治(延喜の治は、
平安時代中期(10世紀前期)の醍醐天皇の治世を理想視した呼称。
延喜は醍醐天皇の治世の元号である。)を歌い
天暦の政(藤原忠平の死後、村上天皇親政による天暦の治が始まっ
た。後に理想の時代とされる天暦の治は、前時代の戦乱にまみれた
日常と一線を画すべく、パワーバランスと遠距離外交による平和を
作り上げた社会だった。それは次の時代の文化を基盤となり、後の
平安文化の花を咲かせる土台となる。)を称せざるはなし。
然れども、猶、明を屈して化を問い、
思いを淳素の風(淳素とは飾り気の無い 様 素直な様)に焦し、
心を虚しくして規を求め、耳を守文の日に側てたり。
朕、
不敏を以て謬りて洪緒を受く、
譬えば猶、淵水を渉らんと欲して、
未だに濟る所を知らざるが如し。
爰に彗客春見れて、
奇合の徴を示し、
坤儀、
夏震いて、
厚徳の應を観す。
是
朕が政の闕くることあるか、
若しくは民心の未だ
足らざるか云々…
朝に夕べに
天皇は世の全ったからざる事を憂い嘆かれた。