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『国難』  作者: 中仙堂
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時宗は些かも動かじ


文永八年夏四月十五日大風吹き荒れ

延暦寺の常行堂、法華堂から出火した。

六月日照り続きで人々は大変な難儀を経験した。

九月二日、北條時宗奏状する。

高麗国より書を奉る。

蒙古の来寇の知らせを告げる書であった。

十五日法皇宮にお還られた。

冬十月二十三日、北條時宗奏状する。

蒙古の使い趙良弼、

高麗の使いと共に来朝した。

彼らは通好を求め

国書を写し


朝廷にし奏上を進めた。

北條時宗は些かも動かされなかった。


十一月二十二日、熾盛光法(熾盛光仏頂・摂一切仏頂輪王とも。

釈迦牟尼仏が衆生教化のため忿怒(怒り)の相を表わした姿といい、

身の毛孔から熾盛の光明を出すという。天災地異の際これをまつり

除災招福を祈る熾盛光法がある。)を行い

蒙古国難の止むを祈られた。

十二月十六日権中納言藤原公守を遣わし

蒙古の難を大神宮にお告げに成られた。

十九日、皇姪満仁を以て親王と成された。

この月北條義宗は六波羅の北方面に侍す。

九年春正月十六日法皇、疾にて國栖奏(国栖奏くずそうとは

奈良県吉野郡吉野町南国栖の浄見原神社きよみはらじんじゃで、

毎年旧暦1月14日に奉納される歌舞である。

今日では国栖奏という呼称が定着しているが、従来は「国栖舞」

または単に「翁の舞」と呼ばれ伝えられてきたもので、「国栖奏」

とは大嘗祭や諸節会などでの、宮廷儀礼として奏上の折の称である。)

を中止とした。

二十六日幣を九社に奉る。

法皇の疾を祓う。

十七日法皇崩ず。

十九日後嵯峨天皇を葬る。


秋八月九日皇后崩ず。

十三日京極院に葬る。

都に冷たい風が流れたという。

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