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京師焼く
建治三年春正月三日 後宇多天皇元服(後嵯峨上皇の意志により文永5年(1268年)
生後8か月で立太子。同11年(1274年)1月に亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から
譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。)
二十二日、新院に亀山殿に見える。
船を大井川に浮かべて、鵜を放たれたと云う。
時に元寇を弭めんことを(弭:弓の両端の弦をかけるところ。弓筈
恐らく討つと道義語かと)十二社に祈るに、この月より始めて、月ごとに一社
ととす。二月二十一日右大臣、藤原忠教左近衛の大将を罷む。
夏四月二十六日、摂政兼平太政大臣を罷む。
五月八日、春日の神木遷座す。
秋七月十四日、京師(京の都)大いに焼ける。
二十六日、興福寺に震して災あり。
八月1日、左大弁藤原経長を遣はして調査させた。
冬十月一日、日に食に當りたれども、陰雨して見えず。
(天文の日食を当時既に予知出来たのでしょうか。
雨天にして目視出来なかった
と云う事でしょうか。)
十二月六日、秋より、疫多きをもって、仁王経を法勝寺にて轉読(熱心に)せしむ。
疫を祓はしめる。