浮かし彫り職人のヴェロニケ
ジルシア街道の通るアルセル平原は、なだらかな起伏が繰り返す丘陵地帯である。
広い平原には、あちこちに小規模の林が点在し、川や沼も遠くに見える。
ビークルの荷台に揺られるリオン達のそばでは、木箱に詰められた空き瓶が、カチャカチャと小気味良い音を奏でていた。
農家の男性クリスト氏はベリーの果樹園を営んでおり、数日に一度、自家製の果実酒やジュースを、レドニスの雑貨屋に納品しているのだそうだ。今日はその空き瓶を回収しにきていたのだ。
クリスト氏は、その自慢のジュースを、リオン達に気前よく振る舞ってくれた。やや酸味の利いたさわやかな味で、果肉が少し入っているのが更に美味である。
道行きは平穏で、のんびりとビークルの荷台に乗り、ジュースまで飲んでいては、いつ何時敵襲があってもおかしくない状況下に置かれていることを忘れてしまいそうだった。
ふと空を見上げると、遥か上空を一隻の飛行船が南西に飛んでいくのが見えた。この辺りで飛行船港があるのは、カナン領内のセプトゥスという町だ。
あの船はセプトゥスに寄航するのだろうか。リオンはそんなことを考えた。
二時間近く立った頃、前方に街並みが見えてきた。カナン領の領境町である。
徒歩なら倍以上の時間をかけた道のりを、善良な男性のおかげで随分短縮できた。
その善良なクリスト氏との旅も、間もなく終わる。
カナン領の入り口には、門が立てられていなかった。クリスト氏の説明では、関所が廃止された直後に撤去されたのだという。
ビークルは領境町に入ると、最初の十字路の路肩に停まった。リオン達はそこで荷台から降りた。
快く荷台に乗せてくれたクリスト氏に、クロードがお礼の包みを雑に渡そうとすると、彼は赤ら顔に優しい微笑みを浮かべ、やんわりと断った。
「こういうのはな、そんなものでお礼をするもんじゃない。旅人が無事に目的地までたどり着くこと。乗せた側にしてみれば、それが何より報われるのさ」
よい旅を。クリスト氏はそう言い残し、ビークルと共に通りの向こうに去っていった。
見送ったあと、感心したようにゼファーが一言、
「粋だねぇ、あのおっさん。人間にもあんな粋な奴がいるんだな。見習えよお前」
白い前足で、クロードの爪先をつつく。
「馬鹿を言うな。俺がこれ以上粋になったらどうする。もてて仕方がなくなるだろう。そうなっては嫁をやきもきさせることになるぞ。それはいかん」
クロードは大真面目に答えた。その自信がどこから湧くのか、リオンは知りたかった。
「それはいいとして教授。カナンに到着しましたが、これからどうしますか」
と、フィオ。
弟子の質問に、彼は簡潔に答えた。
「飯だ!」
近くの食堂で遅い昼食を済ませた後、一行は浮かし彫り職人の手がかりを求めて、領境町のすぐ隣の町ハイメルへ移動した。
領境とハイメルは、川を隔てて目と鼻の先にある。この川はハイメルのオルシワ湖につながっていた。
ハイメルはカナン領では、飛空船港のあるセプトゥスに次ぐ大きな町である。オルシワ湖に沿うように町が広がっており、住宅や商店の建物がひしめき合うように軒を連ねていた。
ここに来てリオンはようやく、「別の領に来たのだ」と、心から実感したのだった。
同じ国とはいえ、領にはそれぞれ特色がある。
アランセルは山岳地帯でもあるためか、領全体が落ち着いていて領民も控えめな性格の人が多い。
カナン領ハイメルは商店が多く、国内各地から商人や旅行者が大勢集う町だ。どの通りも人であふれかえっており、せわしなく人々が行き交っている。
話し声、荷車の車輪、ビークルのエンジン音。様々な音が町に満ちている。
リオンはこれまで、これほど賑やかな場所を見たことがなかった。
物珍しげにあちこち見渡していると、何人かとぶつかってしまった。
「リオン、こっちに来て」
フィオが裾を掴み、通りの隅まで引っ張っていく。
「あまりキョロキョロしちゃだめですよ。土地に不慣れだとバレたら目をつけられます」
「目をつけられるって?」
「お財布や荷物を盗られたり、喧嘩の因縁をかけられたりです」
「え、なんでそんなことするの」
アランセルでは考えられない行為である。
リオンが首を傾げると、クロードが片眉を吊り上げた。
「お前は世間を知らんのか。とんだ『おのぼり』だな。そんなことでは、あっという間に人気のない所に連れて行かれるぞ」
「『おのぼり』『おのぼり』言わないでよ。だいたい、人気のない所に連れて行かれたら、なんだっていうのさ」
この問いに、フィオは複雑な表情で目をそらし、クロードは底意地の悪い笑みを浮かべた。
「フハハハハハ! いいぞ、その無知加減、イジり甲斐があって大いに結構!」
なぜか満足そうなクロードは、バシバシとリオンの背中を叩き、笑いながら先に進んだ。
クロードの上機嫌さが、不気味に思えるリオンであった。
浮かし彫り職人の手がかりを得るために、一行はまず商店街に足を向けた。ありとあらゆる分野の商店が並ぶ場所なら、情報も得やすい。
数少ない職人を探し出すのは難航するかと思われたが、数軒目の店を訪ねたところで、店主から浮かし彫り職人の居場所を聞き出すことができた。
浮かし彫り職人の工房は、賑やかな表通りから離れた、閑静な区画にあった。様々な工房の集まった区画らしく、あちこちの建物から、槌や鋸など何らかの作業をしているような音が漏れ聞えてくる。
その工房には、立て看板も何も掲げられておらず、一見するとただのガレージであった。しかし内部は立派な木工作業場で、一人の中年女性が、使い込んだ机の前に座っていた。
女性は二の腕ほどの大きさの木片に、一心に彫刻を施している最中だった。リオン達の訪れに気づくと作業の手を休め、怪訝な顔で、
「誰?」
と、言った。
「あの、浮かし彫り職人のヴェロニケさんですか?」
リオンの問いかけに、女職人ヴェロニケは少し表情を歪めた。
「そっちの注文は、今は受け付けてないわよ。悪いけどよそを当たって」
「あ、いや、注文じゃないんです」
「じゃあ何の用」
訊かれてリオンは、クロードを振り返った。例の箱は彼が持っている。
クロードはコートのポケットから小箱を取り出し、リオンに差し出した。
また僕なのか、と目で訴えると、当然だ阿呆、と無言の圧力をかけてきた。
仕方がないので素直に小箱を受け取り、ヴェロニケに見せた。
「この箱のことで、ちょっと伺いたいことがあって」
「それ?」
「はい」
リオンは箱の蓋を開けた。中身の鍵は取り出して、紺色ビロードの敷き布だけを残し、ヴェロニケに手渡す。
箱を手にしたヴェロニケは、一通り箱を観察した後、採光窓から射す光に箱の蓋をかざした。
彼女の作業机に、隠されたメッセージが映し出される。その文言を呼んだ彼女は、ぷっと吹き出し、声を上げて笑い出した。
「どうかしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、あんた達一体どこでこれを見つけたの?」
「えー……それは」
「まあいいわ。これね、あたしの父が作った物よ」
「本当ですか!?」
「本当よ。クシオにサティーナ。ここに彫られている二人は、父の友人夫婦の名前よ」
ヴェロニケの箱を見つめる眼差しが、遠い昔を懐かしむそれに変わっていった。
「この箱に、どういういわれがあるんですか?」
と、フィオが尋ねた。
「いわれってほどのことはないわよ。二十年前かしらね。父の友人のクシオが、浮かし彫りの箱を作ってくれって、父に頼んできたの。浮かし彫りはね、バトランゼルでもごく一部の職人しか受け継がれていない、珍しい技術なの。よほどのことでもない限りは、一般人の注文は受け付けてないのね。通常なら、たとえ近所友人でも、おいそれと引き受けたりしないわ」
「それを引き受けたということは、よほどの理由が?」
ヴェロニケは笑いながら、片手を振った。
「大した理由じゃないわ。浮気がバレて女房が実家に帰った、お詫びの印に贈りたいからどうか作ってくれ、っていうのがクシオの依頼内容よ」
ふん、とクロードが鼻を鳴らす。
「不貞の償いを物でするとは情けない」
すると彼の足元に控えるゼファーが、ヴェロニケに聴こえない程度で呟いた。
「お前もよく使う手だろ。浮気じゃねぇけど」
ゼファーの尻尾が、クロードの片足の下敷きになった。ヴェロニケの工房に、黒猫の絶叫がこだまする。
「で、まあ、父はそれを引き受けた。というのもね、父にも同じ経験があったからよ。他人事と思えなかったんでしょうね。お情けで浮かし彫りの仕事を引き受けたのは、後にも先にもそれっきりよ」
語り終えたヴェロニケは、箱を机の上に置いた。
「それで、あんた達はこの箱の何が知りたかったの?」
「うーん……」
リオンは首をひねった。どうにも謎めいた気配がしない。やはり肝心なのは鍵であって、箱そのものは無関係なのではないだろうか。
考え込んでいる間に、フィオがヴェロニケに問うた。
「あの、その箱たまたま手に入った物なんですけど、どうして手離されたんでしょうか」
「そうね、手離したくて手離したわけじゃないと思うわよ。五年前に夫婦が亡くなって、息子さん一家が家財一切を片付けに来たけど、その時手違いで処分してしまったのかも。それが流れ流れて、あんた達の手に渡った。そんなところじゃないかしら」
ヴェロニケのさばさばした返答に、三人は顔を見合わせた。
箱自体は、今回の一件には関係なさそうだ。
「他に訊きたいことでもある?」
「いえ、僕達、本当はこっちの鍵について調べてたんです」
リオンは箱から取り出していた鍵を、ヴェロニケに見せた。
「鍵の手がかりを探すために、まず箱から調べてみようと思ってたんですが」
「当てが外れたみたいね、その顔じゃ」
「はあ」
「ちょっと見せてくれる?」
リオンは差し出された掌に鍵を乗せた。
ヴェロニケは鍵をつまむと、持ち手部分をじっと見た。しばらく鍵を眺めていた彼女は、
「ここ、見て」
鍵の持ち手の一部分を指差した。
「角張ったマークが小さく刻まれてるの、分かる?」
リオンは鍵を手に取り、ヴェロニケに言われた部分を確認した。
確かに彼女の指摘どおり、鍵の持ち手に小さなマークが印されてあった。歪な四角とも、星の形ともとれる、奇妙なマークだ。
リオンはマークの部分を指差し、フィオやクロードにも見せた。
「何だこれは」
と、クロード。
「分かりづらいと思うけど、それ、岩塩のマークよ」
「岩塩?」
「そう。少なくとも、そのマークを作った本人にしてみれば岩塩のつもり。その鍵、ソルトが作ったものね」
「塩? だから岩塩」
「ひねりも何もないでしょ。ソルトは自分の作った鍵の全てに、その岩塩のマークを入れるのよ」
「ソルトって人はどこにいるんですか」
「この町にいるわ。あんた達ついてるね、あてが外れたつもりが、ビンゴだったってわけ」
「町のどこですか?」
「闇市よ。表通りの商店街から離れた裏通りの先にある。闇市って言うくらいだから当然、無認可、非合法がまかり通ってる危険な場所よ。そこのあんたはともかく」
ヴェロニケの人差し指が、クロード、リオン、フィオを順に差す。
「あんたとあんた。十代の子供がのこのこ行くような所じゃないわ」
「そうか。ならお前達は宿で留守番だな」
クロードは一人納得して頷くが、即座にフィオとゼファーの反対を受けた。
「だめです。教授をそんな所に一人で行かせるなんてできません」
「そうだぜ。そういうとこにお前一人だと、絶対何かしら揉め事起こしてくれやがるからな。俺らが首根っこ押さえてねぇと」
「ふ、馬鹿な。俺が好きで揉め事を起こすとでも?」
「どう甘めに考えても、騒ぎのだいたいの原因はお前にあっただろうが今まで」
突然喋りだした猫に、ヴェロニケは両目を見開いた。
「なに、その猫喋るの?」
「今時喋る猫など珍しくもないぞ。俺達はその塩野郎の所にいかなきゃならん。あんたに責任を課すつもりはないから、その闇市の入り方を教えろ。どうせ簡単には入れんのだろう」
ヴェロニケはため息をついた。明らかに気乗りしない様子だった。
「まあね。闇市に入るには“招待状”がいるのよ。でもその“招待状”は、“裏側”の人間しか手に入らない。意味分かるわよね? 正面入り口から入るしかないけど、そこには門番がいて、簡単には通してくれないわ。それなりの通行料を払わないとね。それでもいいなら、もう止めないわ。ただし、今日はもう遅いわ。日が暮れてきた。夜間に闇市に行くのだけはやめておきなさい。その子達がどうなっても知らないわよ」
ヴェロニケの言葉通り、太陽は西の果てに傾いていた。
有力な情報を与えてくれたヴェロニケに、リオンとフィオは心からの感謝を述べた。
工房を去る時、クロードは浮かし彫りの箱をヴェロニケに譲った。
それから一行は、ヴェロニケの最後の忠告を聞き入れ、夜間に闇市に行くことはしなかった。
商店街に戻り、五階建ての宿屋で部屋を取って、一泊することにしたのである。