黒衣の魔導師
少女と共に町へ戻ったリオンは、周囲の様子を見て驚いた。町の被害が思った以上に少なかったからだ。
リオンが確認した限りでも、町へ飛んでいったバーラムは、十体いたはずである。それなのに町の中は、ほとんど荒らされていなかった。建物のいくつかには、飛翔するバーラムがぶつかったと思われる破損箇所が確認できたが、それ以上の被害はないようだ。
バーラムが襲撃したにしては、損害があまりに少なすぎる。
「どういうことだろう」
リオンの呟きに、そばにいた少女も不思議そうに首を傾げた。
「町の中が荒らされてない。なんだか変だ」
「そうですね」
前方から見慣れた人物が、こちらに向かって走って来た。レスターだ。
「レスター!」
リオンは手を振り、彼に駆け寄った。
レスターはリオンを前にすると、安心したようにほっと息を吐いた。
「リオン、お前無事だったか。森にはお前一人だったから心配したぞ」
「心配かけてごめん。でも、あの子が」
リオンは、自分の後ろに控えめに立つ少女を、レスターに示した。少女はレスターに対し、丁寧に会釈する。
「誰だあの子は。かわいいじゃん」
「うん、まあ、そこはあとで話すよ。それよりバーラムはどうなったの? かなりのバーラムが町に行ったはずなんだけど、被害がほとんどないみたいだ。それに町のみんなは? 司堂に避難してる?」
「それなんだがよ」
レスターの表情が、なんともいえない、複雑そうなものになった。
「お前が打ち上げた警報弾を確認した直後に、あの飛行型のバーラム……ヘテロって言う名前だったか、奴らが襲ってきたんだが、途中の町の連中には何もしないで、真っ直ぐ司堂に向かって行きやがったんだ」
「司堂に?」
「ああ、心配するな。みんなが司堂に避難する前のことだったからな。急遽、避難先を学校に変更した。みんなそっちにいる。妙なのはバーラムどもさ。あいつら司堂だけを狙ってたみたいだ」
「そんなことってあるの?」
バーラムが特定の建物を目標にして襲うなど、噂話にも聞いたことがない。
レスターは肩をすくめた。
「俺には分かんねぇよ。とにかく司堂には入れるなってことで、俺達はどうにか奴らを追い払おうとしてたわけだが、そこに変な奴が現れてさ」
「変な奴?」
「魔導師だ。とにかく妙な男だよ。ちょっと、ここがヤバい奴かも」
レスターは顔をしかめ、右手人差し指を、こめかみのあたりでくるくると回した。
「まあ、そいつがバーラムどもを倒してくれたんで、文句は言えねぇんだけどな」
「それ、ひょっとして……」
リオンは少女を振り返った。少女は恥ずかしそうにうつむき、
「すみません、私の師です」
と、答えた。
司堂に向かう途中レスターは、件の魔導師について話してくれた。
その男は、レスターたち警備隊がバーラムの群れを司堂に近づけさせまいと奮闘している最中に、どこからともなく現れたそうだ。
「おはよう、山麓の田舎者諸君。死にたくなければとっとと失せろ」
男は開口一番そう言い放ち、さっと片手を振り上げた。
次の瞬間、彼の手の中に、翠光輝く魔法の陣が現れた。
何が起きようとしているのかを察したレスター達は、巻き添えを食らってはかなわぬと、慌ててその場を離れた。
直後、閃光とともに轟音が響き渡った。
すさまじい爆発がいくつも起こり、レスターや他の隊員の多くが、爆風によって吹き飛ばされた。
幸い、落下地点が柔らかい芝生の上だったので、誰も怪我をせずにすんだ。
爆風がおさまり、あたりが静かになると、司堂を襲撃していたバーラムどもは、全て姿を消していた。
その残骸かと思われる何かの燃え滓のようなものが、空中を弱々しく漂うばかりであった。
男が現れてバーラムが消滅するまで、その間一分弱ほどだったか、とレスターは言う。
「その人は、今どうしてるの」
リオンが素朴な疑問を投げると、レスターは肩をすくめてみせた。
「好き放題やってるよ。宰師長と話をさせろとか、その前に朝飯を食わせろとか。今頃マルク隊長と睨み合ってるんじゃねぇかな」
レスターは露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
「なんなんだかな。あれなに、都会の人間か? 都会の魔導師ってのは、みんなああいう奴なのか」
「いや、そういうわけじゃないと思うけど」
リオンはちらりと少女を見やる。少女は申し訳なさそうに縮こまり、
「すみません、わがままで」
と謝った。レスターは怪訝そうな顔で、少女に尋ねた。
「あんたのお師匠さんだって?」
「はい」
「あんたみたいな女の子が、ああいう男の弟子とはね。大丈夫?」
「レスター、失礼だよそれ」
リオンはそうたしなめたが、少女は苦笑して首を振った。
「いいえ、かまいませんよ。よく言われますから」
三人は言葉を交わしながら街路を進み、やがて司堂前広場にたどり着いた。
広場と司堂の状況は、ここまでに見てきた町の様子とは打って変わって、ひどい有り様であった。
広場の石畳はあちこちがえぐられ、その下の土がむき出しになっている。植木は薙ぎ倒され、花壇もめちゃくちゃになっており、花びらが哀れに散っている。
司堂の赤煉瓦の壁には、無数の爪痕が刻まれ、壁を破壊しようとしていたと思われる痕跡も、複数ヶ所確認できた。ステンドグラスの窓も、無惨に砕けてしまっている。
レスターの説明どおり、バーラムは本当に司堂だけを標的にしていたようだ。
(なにが目的で……?)
リオンには分からないことだが、バーラムが何らかの目的を持っていたことだけは確かだ。
そのバーラムは、今や影も形も見当たらない。
仲間の警備隊員の面々は、司堂の玄関先にそろっていた。彼らは開け放たれた入り口の前に、遠巻きに立っていて、中に入ろうとしない。
「よう、リオン連れて来たぜ」
レスターが声をかけると、仲間達が一斉にリオンを取り囲んだ。
「リオン、無事だったんだな。よかった」
「すまん、俺達はてっきり、森にビビったお前が、間違って警報弾を三発鳴らしたもんだと思っちまった」
「どこもやられてないか?」
仲間達は口々に、リオンを気遣う言葉をかけてくれた。リオンは彼らに、「大丈夫、ありがとう」と答えた。
リオンの側にいた少女は、リオンと一緒になって囲まれたため、警備隊員らの好奇の視線を集中的に受け止めるはめになった。
「この子誰だ」
リオンが答えるより早く、レスターが口を開いた。
「そんなことより、あいつどうしてるよ」
「あの男か。あいつなら、さっきからずっとあの調子だ」
レスターの問いに答えた隊員が、顎で司堂内を指した。
リオンはレスターの肩越しに、中の様子を覗き込んだ。
司堂内部は、天窓から射し込む外光に、明るく照らし出されていた。破壊されて司堂内に散ったステンドグラスの破片が、光を受けてちらちらと輝いている。司堂内の被害は、その程度に止まっていた。
等間隔に幾列も並んだ長椅子が左右にあり、その向こうに祭壇が設置されている。祭壇の背後にはタペストリーが飾られ、すぐ手前には石膏像が立っている。
長い髪と髭を生やした男の上半身に、牡鹿の下半身。右手に遭難者を導く杖、左手に魔除けのベルを持つ。山の守護司セルワイの像だ。
セルワイの像が見守る中、祭壇の側で、三人の男がなにやらもめている。
そのうち二人はリオンもよく知る、警備隊長のマルクと、この司堂の宰師長だ。
隊長は腕を組み、宰師長は不安そうに、三人目の男と向き合っていた。
三人目の男は、長椅子にどっかりと座ってふんぞり返っている。
「すみません、通ります」
少女がレスターの脇をくぐり、司堂内に身を滑り込ませた。リオンも彼女に釣られるように、入り口をくぐった。
「教授」
小走りで駆け寄る少女に気づいた男は、彼女に一瞥をくれ、軽く手を上げた。男の視線は、そのままリオンに移った。
男は三十代半ば頃の歳だろうか。黒いコートに黒いズボン、ベストもブーツも全て黒、シャツだけが白い、という出で立ちだった。茶色の髪はくせがあるのか緩くうねっており、しばらく切りそろえていないようで、伸び放題だ。
伸びた前髪から、柳の葉のような渋い緑の目が、リオンを鋭く見上げる。三白眼気味で威圧感があるが、顎と鼻筋が細く、整った顔立ちと言える。
男は右手に、ソーセージとレタスをはさんだパンを持っていた。食べかけである。おそらく宰師長が用意したものであろう。
リオンは男の刺すような視線を感じつつ、マルクの側へ行き、「戻りました」と短く言った。
「リオン、よく無事で戻った。警報弾が三発鳴った時は、まさかとは思ったんだが。そちらの様子はどうだったんだ」
「四体バーラムが現れましたが、彼女に助けられました」
リオンは少女を示し、素直に報告した。見知らぬ少女に窮地を救われたというのは、警備隊員としては褒められたことではない。しかし、ごまかしては助けてくれた少女に対して失礼に当たると考え、恥を忍んで正直に打ち明けた。
マルクはリオンの報告に対し、ただ頷いただけで、詮索するようなことはしなかった。
「お嬢さん、うちの若いのを助けてくれたようで感謝する」
マルクに礼を言われた少女は、気恥ずかしそうに頬を薄く染めた。
「君は、この男の連れかね」
「私はこの方の弟子です。あの、教授が何かご迷惑を……?」
「迷惑というか、こちらの質問にまともに答えてくれんので、辟易していたところだ」
「おい、一方的に悪いような言い方はよせ」
男が口を開いた。
「質問に答えんのではない。答える必要がないから答えないのだ」
屁理屈である。
マルクと宰師長は顔を見合わせ、うんざりだと言うようにため息をつきあった。
「魔導師よ、君に救われたのは事実であるから、その点は感謝する。だが、私はこの町の警備隊長だ。今回襲ってきたバーラムは普通じゃない。何がどうなっているのか知る権利がある。君は何か知っているような素振りを見せた。だから説明して欲しい、とさっきから頼んでいるのだが」
「だから、答える必要はない、と言っている」
男はパンを口に運びながら、面倒くさそうに言った。
「バーラムはあんた達の司堂を襲いはしたが、あんた達には用がない。つまりあんた達には関係ないことなのだ。関係のない人間に話すことはない」
「関係ないことがあるものか。我々の町にバーラムが現れたのだ。それだけでも充分関わる理由になる」
「いいや、ないね。関係があるというなら、この司堂の連中だ」
「しかし、私どもは何も……」
宰師長は困惑している。
「ここは小さな司堂です。賊が狙うようなものもないのです。ましてバーラムなどと」
「ある。バーラムは魔物ではあるが獣だ。獣が本能にそぐわない行動を起こすものか。それが群れを成して、特定の場所を狙って襲撃したのだぞ。捕食対象である人間を眼中に入れずにだ。これがどういうことか解かるか」
マルクは宰師長と、リオンは少女と顔を見合わせた。
少女が口を開く。
「あのバーラム達は、誰かに操られていた、ということですか」
「そうだ。その、バーラムを操っている奴が狙う何かがここにある。だからそれを出せと言っている」
男の態度は終始横柄で、それがマルクの神経を逆撫でしているようだ。隊長の表情がどんどん険しくなっていくのを、隣に立つリオンはひやひやしながら見ていた。
宰師長は男の要求に困り果て、ううんと唸った。
「もし。もしも、そういった何かがあるとするならば」
宰師長はゆっくりとした口調で、言う。
「ひょっとすると、あれかもしれません」
「そらみろ、やっぱりあるんじゃないか。持って来い」
宰師長への敬意が微塵も感じられない男の態度に、ついにマルクの顔が怒りで真っ赤になった。
リオンは慌ててマルクと男の間に立ち、上司の怒りが爆発するのを防ごうとした。
「隊長、ここは僕がいますから、宰師長さまと一緒に行って下さい」
マルクは納得いかない様子で、しばらく黙っていた。が、宰師長に促され、しぶしぶながら頷いた。
「分かった。リオン、ここは頼むぞ」
そう言い残し、マルクは宰師長とともに司堂の奥へと向かった。去り際に男を軽く睨んだが、男はその視線を完全に無視していた。