暁星
ひやりと冴える空気の満ちる、森の沼のほとり。
水の古竜ミスト・アンフィビアンのマレイスは、短い首をもたげて、濃紺の空に煌く一つの星を見上げていた。
あれこそは暁星。世界に夜明けを招くもの。
暗い静寂の闇に、光奏でる太陽を呼ぶ。
(星が、起きたか)
齢三万に迫るマレイスの、すでに盲いた双眸では、実際に星は見えていない。
しかし彼には、はっきりと“視え”ていた。
その星はまだ若く幼い。けれども、たしかに自ら輝き始めたものである。
マレイスはその昔、同じ星を見た覚えがある。その星もまた、始めは頼りなく、それでいて荒々しい、不安定な星であったが、やがては数々の星を束ねる強い星となった。
マレイスの側を、淡く金色に光る小さな蝶が、ひらりひらりと舞っている。
「ごらん。我らの現世に、また一つ星が生まれた」
答えるように、蝶はマレイスの鼻先を通り過ぎる。
「そう。まだ産声を上げたばかりの星じゃ。いずれ、あの星のもとに添い星達が集うであろう」
星が育つには、長い長い時間が必要だ。幸い、マレイスにはまだ余生がある。
老ドラゴンはお気に入りの岩の上に寝そべり、稚き星のまたたきを、ゆるりと見守ることにした。
*
強張った身体をほぐそうと思い、両腕を上げて思い切り伸びをした。
背筋が伸ばされて気分がいい。
ベッドから降り、立ち上がると、少しふらついた。なまっている。
窓のカーテンを引くと、さっと明るい陽光が部屋に射し込み、リオンはまぶしさに目をくらませた。
背後でドアの開く音がした。振り返ると、フィオが呆然と立っていた。
「あ、おはよう」
声をかけたが、フィオは答えなかった。代わりに無言で駆け寄ってくると、リオンの首に腕を回して抱きしめた。
「え、あ、ちょっと……」
突然の抱擁と、フィオからほのかに漂う柔らかないい香りに、リオンは心臓が飛び出しそうになった。
「よかった……本当に。もう目を覚まさないかと思った」
フィオの声はかすれそうに細い。
「ごめん、心配かけたね」
リオンは優しく返し、フィオの背中に腕を回そうとした。が、その手はすぐに固まる。女の子を抱きしめたことなど、今まで一度もない。この手はこのまま背中に回していいものか。許可もなく触れるのは失礼ではないだろうか。何もしない方がいいのか、何か反応するべきなのか。
対処法が全く分からないリオンは、ただ頬を赤らめてどぎまぎしたまま硬直するしかなかった。
すると、
「ドスケベ退散んんんんーーーーー!!」
怒っているのか楽しんでいるのかよく分からない奇声を発しつつ、リオンの利き腕をひねり上げる者が、どこからともなく現れた。
「いたたたたたたたたた痛い痛い!!」
「俺のいない間に、この手は何をしようとしていたかこの青春真っ盛りが! おおいやらしい! 近年の若者の早熟加減には全く呆れてものが言えん! 離れろチェリーボーイめが! 十年早い!」
「な、何言ってんだよ教授! 僕は別にそんな……て言うか、指の関節グリグリするのやめてよ! 地味に痛いから!」
「教授やめて下さい! やめて! やめなさい!」
フィオに思い切り背中を叩かれたクロードは、ようやくリオンへの“制裁”をやめた。
「まったく、変なこと言わないで下さい! 何を考えているんですかッ」
「師匠に暴力を振るうようになるとは。これが思春期の恐ろしいところだ」
さすがに効いたのか、叩かれた背中をさするクロードは、なぜかリオンを睨んだ。
「なんで僕を睨むの……」
フィオは頬を染め、憤慨して腰に手をあてた。
「起きたばかりのリオンになんてことするんですか。それと、すぐ変な方向に話を向けようとしないで下さい」
ついでに、いつの間に部屋に入ってきたのか訊いてほしいリオンである。
「こいつがぶっ倒れた時に大泣きしたくせに」
クロードは柳の目を、意地悪く細めた。
「そ、それは当然じゃないですか」
「死なないでーとか叫んでたくせに」
「あ、あの時は、全然目を覚まさないから、つい」
クロードに攻められ、あたふたし始めたフィオは、落ち着きなくもじもじした。
そこへ、
「うるせーなー。病み上がりの奴の側で騒ぐなよ」
ひょいとリオンの肩に飛び乗る、黒いふわふわの猫が、もっとも意見を述べた。
その一言で、フィオは我に返った。
「そ、そうね。ごめんなさい、うるさくして」
「いや、全然いいんだけど」
むしろ、本当に心配されていたのだと実感できて、とても嬉しかった。
「あのさ、僕、どのくらい眠ってた? あれからどうなったの」
クロードとともにゼファーに乗り、ジア=バーラムを倒して、外次元への扉を閉じたところまでは覚えている。
だが、役目を終えた次の瞬間からの記憶がない。
フィオが教えてくれたことによると、突然の睡魔に襲われたリオンは、そのまま丸三日間眠っていたらしい。
リオンが眠っている間、支部は色々とてんやわんやだったそうだ。
戦いの跡の片付け、異変に気づいたセプトゥスの人々への対応。予定の時刻に、飛空船でセプトゥス入りした新支部長への説明などなど。
ヨナスがそれらへの対処に、一日中動き回っているらしい。
「三日も? その間に支部長さんが来たのなら……。その飛空船で本部に帰るんじゃなかった?」
「あなたに黙っていくわけにはいきませんから」
フィオはそう言い、はにかんで微笑んだ。
(待っててくれたんだ。僕の目が覚めるのを)
フィオだけでなく、クロードとゼファーもだ。リオンの心は、感激で打ち震えた。
今こそみんなに抱きつきたい気分だが、十中八九クロードに殴られると考えられるので自制した。
「石はどうなったの」
「ここだ」
リオンが寝ていたベッドに腰掛けたクロードが、黒い石を手の中で弄んでいる。
「おもちゃにしちゃ駄目だよ。それ、まだ魔力が生きてるんだから」
「お前に言われなくとも分かっている」
そう言いつつ、クロードは石を放っては取り、放っては取りを繰り返している。
「別の場所に保管するんでしょ」
「その前にアーマに見せびらかしてやる」
クロードの顔付きが、要人の暗殺計画でも企てているかのような、邪悪なものになった。
「〈アーリマン〉がまたしても〈降臨の儀〉の決行を計り、それを阻止するのに、今度も俺が関わっていたと知れば、あの連中どんな顔するだろうな」
口元を歪ませて、クロードはフハハハハと不敵に笑う。そりの合わない相手を出し抜けることが、よほど楽しいのだろう。
「訊きたかったんだけど、教授って結局どういう立場なの?」
リオンは不気味な哄笑をあげるクロードを見つつ、肩の上のゼファーに尋ねた。
「あの馬鹿は、ちょっとした特殊階級でさ。立場的にはアーマや姑と同等、協会では最高指導階級なんだ。〈十三人目の賢師(マギステル=トレデキム〉って、ご大層な役職名があってさ。もともとなかった階級なのに、あいつのためだけに設けられたんだよ」
「そんなに凄い人だったんだ」
「凄くねぇよ。十五年前の〈降臨の儀〉騒動の時、敵の鎮圧に貢献したからって、当時の総裁が直々に任命したんだ。だから文句があったって誰も言えやしねぇ。それをいいことに、こいつは協会内で好き放題やってやがるのさ」
会話が聞こえたらしく、クロードは〈扉の石〉を弄ぶのをやめ、すっくと立ち上がった。
「俺は別に、こんな肩書き欲しかったわけじゃない。くれるというからもらったまで。得た権限を、どう使うかは俺の勝手だ。俺のことは、今はどうでもいい。問題はお前だ」
「あ、うん」
リオンは頷く。
「ジア=バーラムを屠ったあの呪文は、全系統最上級呪文〈剣の魔法〉の一つ、〈悪魔払いの霊剣(ディル=セスト)〉だ。お前はそれをエーヴェルシータで唱えて発動させた。更には、外次元への扉を閉じることにも成功した。これについて、簡潔に説明しろ」
「そう、だね。えーっと、つまり、僕はカドモンの子孫っていうか、誰かの生まれ変わりだったみたい」
自分の口から言うことで、リオンは強く自覚した。前世の記憶はほとんどない。だから、前世の自分が“誰”だったのか、そこまでは分からなかった。
「転生だったのですか。それなら、私と状況が違っていたのも納得ですね」
感慨深げに何度か頷くフィオ。
「だけど、まさかカドモンの転生者が存在するなんて」
「まあ、おおかたそんなところだろうとは思ったが」
と、クロード。
「転生によって、エーヴェルシータを理解でき、デウム能力も受け継がれたわけか。転生者の前例がまったくないこともないが、信憑性は低いな」
「信じないのですか?」
フィオは責めるようにクロードを見た。
「そういうわけじゃない。つまり、正体がバレにくいということだ。“生まれ変わり”は物的証拠を得にくいからな。やたらとデウムを使わなければ、怪しまれることもなかろう」
「だったら大丈夫だと思う」
リオンは自信たっぷりに言った。
「あんな魔法、もう使えないよ。やり方分からないし、そもそもどうやって魔法を使えるのかも分からないし」
「お前何言ってんだ? あんなすげぇ技かましておいて」
と、ゼファー。
「あれはほとんど“彼”がやったようなものだよ。僕は指示通りに動いただけ。目が覚めたら、全部頭の中から消えてた」
今のリオンは、魔法を知らなかったつい最近のリオンと、全く変わりがない。指先に明りの一つも、灯すことは出来なかった。
クロードは呆れたように鼻を鳴らし、目元を引きつらせた。
「なんだそれは。まるでポンコツだな」
彼はきっとそう言うだろうと、リオンは予期していた。
「それで、その“彼”は?」
「もういない。消えたって言うより、僕の中に溶け込んだ感じ」
魂が一つに戻ったのだろう。もう、あの夢を見ることもないはずだ。
「これからやることは、たくさんありそうですね」
フィオの言葉に、リオンは頷いた。
前世の正体、魔法の使い方、強くなるための訓練。休む暇はなさそうだ。
「で、どうするつもりだ、リオン」
名前を呼ばれて、はっとしたリオンは、クロードを見た。
初めて彼に名前で呼ばれた。
心は決まっている。リオンはやっと、自分の進むべき道が分かったような気がした。
夢でわずかに見たように、いつか父は、リオンを殺そうとしていた。おそらく、リオンが抱える宿命を知り、将来を嘆いた父は、いっそのこと、と思い詰めたのではないだろうか。
たしかに、この先に待ち構えるものは、予想を超えるような困難なものになるだろう。
しかし今のリオンには、それほど怖くなかった。
もう、一人ではないから。
「お願いがあるんだ。僕を……僕も一緒に……」
*
「呼びましたか?」
警備隊詰め所の会議室に、ひょいと顔を覗かせたレスターは、椅子に腰掛けるマルクに声を掛けた。
マルクはレスターに気づくと、手にしていた数枚の紙切れを、ひらりと振ってみせた。
「リオンからの報告書が届いたぞ」
「マジっスか」
レスターは嬉々とした表情で、マルクの側に寄った。
「今読み終えたばかりだ。いやはや、我々が思っていたより大変な事態だったらしい」
「手紙ですか。本人はどこです?」
帰ってきたのなら、必ず知らせが入るはずだが、今のところ何の連絡もない。
「あの子なら帰ってこない。少なくとも、当分のうちはな」
マルクはどこか嬉しそうに、柔らかく笑った。
「どういう意味で?」
「読めば分かる」
レスターは促されるまま、近くの椅子に座り、手紙を読み始めた。
内容は、例のバーラム襲撃事件の背後にあった、かなり大きな出来事の報告書だった。
十枚にも及ぶ報告の終わりに、少年からのメッセージか記されていた。
「おいおい、マジかよ」
レスターは首を振るも、やはり嬉しくなって口元が緩んだ。
「手紙と一緒に、家の鍵が入っていた。君に持っていてほしいそうだ」
マルクが鍵を投げ、レスターはそれを宙で受け止めた。
同封物は鍵の他にもう一つ。報告書よりも一回り小さい封書で、表書きがある。
『徐退願』
「字ィ間違ってるだろ、バーカ」
レスターは鍵をくるくると回しながら、もう一度笑った。
預かった鍵を持って、レスターは少年の家に向かった。長く留守にするなら、戸締りなど、改めて確認しておいてやる必要がある。
幼い頃から知るあの少年は、ようやく本当にいるべき場所を見つけたらしい。
これも「守護司の思し召し」というものなのだろう。
ふと見上げた秋晴れの空は、どこまでも高かった。
アラミア山脈の頂の白雪が、澄んだ空の青に美しく映えていた。




