デウムの剣
目も眩むほど高い空に、悠然と浮かぶ熱い白雲。
純白の砂の大地に、浅く浅く浸る水。
その水に空の景色が映りこんで、まるで鏡のようだ。
気がつけば、リオンはそこにいた。
――オルトゥトゥム……。
この場所の名前だ。フィオが教えてくれた。全てが生まれ、全てが還るところ。
また夢を見ているのか。それも、永遠の夢を。
リオンは、攻撃を受けたはずのこめかみに触れた。怪我も何もない。
――僕は死んだのか。
不思議と何の感慨もない。
今までいい人生だったと、そんな感傷に浸れるほど、長い一生ではなかった。
あっけなさすぎて、どういう感情を持てばいいのか分からない。
おかしなものだ、と思った。もう死んでいるというのに、まだ何かを考えたり感じたりすることが出来るのか。生きている時と、そう変わらないのだな。
ぐるりと視界をめぐらせ、あたりを見渡す。
相変わらず誰もいない。
しばらくすると、今までの夢には出てこなかったものが、リオンの目の前に現れた。
それは、手の中に収まりそうな大きさの、光の球。星のようにまたたきながら、リオンの目の高さで漂っている。
――あなたは誰?
声には出さず問う。光もまた、音声を発さずに答えた。
光の応答は、言葉で表現するものではなかった。リオンの脳に直接、漠然としたイメージを送り込んでくる。
そのイメージの中で、リオンと光は一つだった。
リオンは“彼”で、“彼”がリオンなのだ。
リオンは右目を隠して、左目だけで光を見つめた。
二人は同じ魂を宿していた。
――僕は、あなたの生まれ変わり……。
“彼”はかつての自分だった。その頃の記憶は全くないが、魂が肯定している。
――なぜ僕は、また生まれてきたんだ。今度は何をするために。
リオンは光に問いかけたが、答えは分かっていた。
また戦いが始まるからだ。同じ過ちが繰り返されようとしているからだ。
その昔、大勢の犠牲者を出し、国を壊し、世界を混沌に陥れたあの戦いが、また起きようとしている。
“彼”はその戦いで、大切な人々を失った。犠牲者の屍を踏み越え、遺された人々の泣き声に耳を閉ざし、ひたすら前進し続け、何もかもを失くした。
そうまでしても、決着をつけることは出来なかった。
その戦いに終止符を打つために、もう一度生まれてきたのだろう。
――でも、また駄目だった。
リオンは光から目をそらした。死んでしまった自分には、もう何をすることも出来ない。
――せっかく生まれ変わったのに、こんな役立たずで、ごめん。
自分なんかではなく、もっと強い誰かに生まれ変わっていればよかったのに。
リオンは打ちひしがれたが、光はリオンを責めなかった。
チカチカと明滅を繰り返し、何かを訴えかける。
リオンは視線を戻し、光の“言葉”を読み取った。
――戻れるの?
行け、と、光が言っている。
――僕でいいの?
一緒に戦おうと言ったのは、お前だ。
今度こそ守ろうと言ってくれたのは、お前だ。
行こう、共に。
光は、音もなくリオンに近づく。リオンは両腕を広げ、光を迎えた。
光がリオンの中に入ってくる。身体が温かくなる。
リオンは胸に手をあてた。なぜだか安心して、少し微笑む。
もう一人じゃない。
「うん。そうだね」
頷き、声に出す。
「一緒に帰ろう」
顔を上げ、白い世界の彼方を見つめる。
迷いは消えた。リオンと“彼”は、共に歩き始めた。
*
目を開けて、最初に見たのは、仲間達の姿だった。フィオとクロードと、ゼファー。
皆、驚いた表情で、こちらを凝視している。
リオンはゆっくりと身体を起こした。少しだるいが、どこも痛くはない。
「……リオン?」
おそるおそる、フィオが声をかけてくる。リオンは彼女を見て、小さく頷いた。
フィオの顔が涙で汚れているのに気づき、リオンは胸を痛めた。
「お前、死んだんじゃなかったのか?」
獅子のようなドラゴンの顔をもたげ、ゼファーが言う。
「うん、多分、死んでた状態に近いと思う」
ゼファーに答えたあと、リオンはクロードにも目を向けた。
魔導師の表情は硬く、どういう心境でいるのかは、はっきり分からなかった。けれどその目が、どこか優しいものに見えるのは、きっと気のせいじゃない。
ふと目線を下げると、腹の上に黒い石が転がっていた。リオンは石を手に取り、ぎゅっと握りしめた。
「僕は……」
リオンの言葉は、突然轟き渡った咆哮によって阻まれた。
階下から悲鳴と怒号が沸き起こる。
テラスの縁から身を乗り出し、下の様子を窺うと、支部の職員や〈アーリマン〉達が、入り乱れて逃げ惑っていた。
魔導師達が、何かに向かって魔法攻撃を行っている。だが効果がないらしく、魔導師達はあたふたと逃げ出した。
彼らを追いかけ、姿を現したのは、身の丈十クルク近くはあろうかという巨大な生物だった。
ひどく歪んだ体躯に翼竜の翼を持ち、人間に似た手足が複数、不規則に生えている。
異形の巨人は、〈アーリマン〉達を次々とくわえては噛み砕き、その骨肉を喰った。
そのおぞましい光景を目の当たりにしたフィオは、声にならない悲鳴を上げ、目をつむって顔をそむけた。
巨人の身体は、一人喰らうたびに、むくむくと膨れ上がった。
「あいつ、喰った奴を吸収してるのかよ」
ゼファーが牙を見せて唸った。
「あれは、まさかジア=バーラムか」
クロードは、珍しく困惑したような表情を見せた。
「〈アーリム〉の代わりに降りてきた奴だな。全く、ろくな置き土産じゃない」
「あのままだと、あいつどんどん人を喰って成長するぞ。町に出られたら大事だ」
「分かっている! 行くぞ!」
忌々しげに舌打ちするクロードは、ゼファーの背に飛び乗った。
「待って! 僕も行く!」
リオンは言うなり、フィオの手に〈扉の石〉を握らせた。
「これを持って、君はここにいて」
「で、でも」
「大丈夫、平気だから」
リオンはフィオに笑ってみせると、クロードを見上げた。
「いくら教授でも、あれを倒すのは無理だよ。僕がやる」
「お前が? 馬鹿を言うな、まともに魔力の制御も出来てないだろうが」
「今なら出来るよ、“彼”がそう言ってる」
リオンは胸に手をあてた。
「“彼”って誰だ」
「前に僕だった人」
クロードはしばし、無言でリオンを見下ろした。何かを確かめようとする、探るような目で。
「よし、来い」
頷いたクロードに、慌てたのはゼファーだ。
「おい本気かよ!」
「うるさいゼファー。こいつが自分で『やる』と言ったのだ。なら、やらせるまで」
「ありがとう!」
リオンは、ゼファーのたくましい四肢を足場にして、クロードの後ろに乗った。ゼファーの体温が感じられ、とても温かな乗り心地だ。
クロードが肩越しに振り返る。
「やれるか」
「うん」
リオンは迷うことなく頷いた。
リオンとクロードを背に乗せたゼファーは、フィオが見守る中、再び空へと舞い上がった。
幾人もの人間を吸収し、更に巨大化したジア=バーラムは、ドラゴンの存在に気づくと、おぞましい咆哮を上げた。
そして、翼竜の翼を数回はためかせると、大地を蹴って宙に飛び上がった。
ジア=バーラムはドラゴンを捕らえようと襲い掛かるが、ゼファーはそれらの攻撃をことごとく回避した。支部の敷地内を飛び、町の方へ出て行かないように、ジア=バーラムを誘導する。
「それで、どうするつもりだ。あれを町に出さないためには、時間をかけずに倒さねばならんぞ」
「教授、ちょっとの間でいいから、あいつの足止めしてほしいんだけど、出来る?」
「誰に向かってものを言っている!」
クロードが自信たっぷりに言うや否や、ゼファーは急降下、上昇、旋回を繰り返し始めた。
魔導師とドラゴンは言葉を交わさなかった。まるで心で意思疎通が出来ているかのように。
ゼファーの動きは不規則で、行動の予測が掴みにくい。追ってくるジア=バーラムは、ぴったりとついて来たが、ゼファーは相手の接近を許さなかった。
激しい飛行に、慣れないリオンは振り落とされそうになったが、すぐにブリッターの操縦感覚を思い出し、どうにか体勢を保つことが出来た。
クロードは時折、懐から取り出した小さな粒のようなものを、一粒ずつ宙に放った。粒は落下せずに宙に浮いた。粒の大きさは小指の爪ほどで、夜の闇の中に溶け込み、どこに浮いているのか、肉眼では確認できない。
幾つもの粒を放ち続け、敷地内を一周したところで、クロードはゼファーを空中停止させた。
ジア=バーラムは、急に逃げるのをやめた獲物に警戒しているのか、距離を置いたまま襲ってこようとはしない。
「いいぞ、そのままおとなしくしていろ」
クロードは右手を伸ばし、呪文を唱えながら複雑な印を切り始めた。
ジア=バーラムが動きを見せた。大きな羽音を立てて翼を広げ、牙を見せて襲い掛かってくる。
その時、クロードの呪文が完成した。
「メルドゥル・フィニィル・ファグリア!」
周辺の空中で、無数の閃光がひらめいた。クロードが空中に撒いた全ての石粒から光の糸が放出し、ジア=バーラムを貫いた。ジア=バーラムを貫通した光は、延長線上にある石粒とつながる。石粒と石粒が光の糸で結びつき、一瞬にして光の網が形成された。糸に貫かれたジア=バーラムは、その網に絡め取られる体勢になった。
自由を奪われたジア=バーラムは、怒りの咆哮を上げ、網から逃れようともがいた。しかしもがけばもがくほど、光の糸はジア=バーラムを更に強く束縛する。
リオンは腰の剣を抜いて、身を乗り出した。
どうすればいいのか、何を言えばいいのか、“彼”が教えてくれる。
リオンはゼファーの背の上で跳躍し、空中に身を投げた。
ジア=バーラムの方へ落ちる。落下のさなか、剣の切っ先を下に構える。
“彼”が、言うべき言葉を伝えてきた。リオンは、それを忠実に口にした。
これまでに聞いたことのない言葉。しかし、魂が覚えている言葉――エーヴェルシータを。
「ウルマティオル・ディグラディボルス!」
着地と共に、ジア=バーラムに剣を突きたてた。古き魔法をまとった剣は、ジア=バーラムの中で閃光を放ち、肉体組織を瞬時にして焼き尽くした。
ジア=バーラムの体内から、浄化の炎がほとばしる。宙に拘束されたジア=バーラムは、空気を切り裂かんばかりの断末魔を吐き出す。
ジア=バーラムの肉体が、灰となって崩れ去る。足場を失ったリオンは、壊れゆく怪物の残骸と共に落下した。
――落ちる……!
そう思った時、一際大きな羽音が聞こえた。
地面に叩きつけられる直前、リオンは腕を掴まれ、一気に引き上げられた。
ほとんど放り投げられるようにして、リオンは再びドラゴンの背に跨る体勢になった。
「ありがとう」
クロードの背中に礼を言う。魔導師は、ふん、と鼻を鳴らした。
リオン達が見届ける中、灰の塊と化したジア=バーラムの成れの果ては、大地に触れた途端、木っ端微塵に砕け散った。
灰の雪が辺りに降り積もっていく。
「教授、まだ終わってない」
リオンはクロードの肩に手を置き、身を乗り出して空を指差した。
その指の指し示すものは、天と地をつなぐ光の柱。
「あれを閉じなきゃ、また何かが降りて来るよ」
「閉じ方は分かるのか」
「分かる」
「室内犬が、言うようになったな! 大口叩いて振り落とされたら、盛大に笑ってやる!」
クロードは、何故だか楽しそうに言うと、ゼファーに上昇を命じた。
ゼファーは弾みをつけて翼をはばたかせると、一気に光の柱に向かって飛んだ。
気流に乗り、風の上を滑るように飛行する。その姿はまさしく〈雲を貫く者〉。
幾層もの雲を越え、ついにリオン達は、高層雲上に到達した。尚も上昇を続けると、おぞましい光景が見えた。
光の柱の彼方から、無数の蠢くものが、地上を目指して降りてこようとしているのだ。
リオンはドラゴンの上に立ち、剣を逆手に持つと、その腕を引き、背中をのけぞらせた。
リオンがやろうとしていることを察したのか、クロードはリオンの右腕を掴んで支えた。
剣を握る手が熱くなる。自身の内側から、強いエネルギーが流れ出し、掌から剣に伝わっていくのが分かる。
剣の刀身に魔力が満ちた。外次元に唯一干渉できる、最も古い魔力――デウム。
リオンはありったけの力を振り絞り、剣を投げた。
放たれたデウムの剣は、碧い彗星となって、真っ直ぐに光の向こうへ飛んだ。
剣の影が見えなくなった。
束の間、世界に静寂が訪れる。その数秒後。
天の彼方で光が爆発した。
爆発の余波は広範囲に及び、夜闇の空を、明け方のような金色に染め上げた。身体を震わせる爆風が、地上に向かって吹きおろす。
あおられたリオン達は、光の柱の中から弾き出された。
ゼファーは急いで体勢を立て直し、その場から離脱した。
自分のやるべきことをやり遂げたリオンは、ほっと安堵の息を吐き出した。途端に急激な脱力感と睡魔に襲われ、全身から力が抜け落ちた。
リオンの頭は、自然と前のクロードの背中にもたれかかった。
目を開けているのも辛いほどに眠い。
(少し休もう。大丈夫、もう終わったんだから)
リオンはそのまま目を閉じた。
爆風が収まったあと、天と地をつないでいた光の柱は、ぷっつりと途切れた。上空にわずかに残っていた柱も、徐々に薄れ、風に上昇気流に流されて消えていった。
それからしばらくして、空を覆っていた暗雲が、少しずつ晴れ始めた。
雲の消えた空に、星ひとつ、ささやかな輝きを湛えていた。
夜明けをもたらす暁であった。