対決の果て
「リオン! 目を開けて! お願い!」
倒れた少年の肩を掴み、フィオは激しく揺さぶった。少年は目を閉じ、ぐったりとして、フィオに揺さぶられるままになっている。
魔法が直撃した部分は、痛ましく焼け焦げ、耳から流れ出した血が固まっている。
少年はすでに冷たくなりつつあった。頬に触れても、手を握っても、温かさがどんどん奪われていくのが分かる。
フィオの菫色の双眸からは、とめどなく涙があふれている。フィオは顔を濡らす涙を拭いもせず、リオンに呼びかけ続けた。
もはやその声は、届かないと分かっていながらも、やめることは出来なかった。
「あら、戻ってきたの、そのヘタレ」
セルペンティアから、見下したような言葉が吐き出された。
「馬鹿みたい。あんたの盾になるために戻ってきたのかしら。わざわざ死にに来るなんて、馬鹿としか言いようがないわ」
あまりの物言いに、フィオはセルペンティアを睨みつけた。
「弱いくせに、かっこつけてのこのこ出てくるから、こういうことになるのよ。ヘタレはヘタレらしく、隅っこで隠れてれば良かったのに」
「今の言葉、取り消して下さい」
「なに?」
「取り消しなさい!」
動かなくなったリオンの肩を抱き、フィオは精一杯声を張り上げた。リオンに対する侮辱は許さない。
セルペンティアがせせら笑う。
「あーら怖い。彼氏が死んで、そんなに悲しいのなら、すぐにあとを追っていけば? 手伝ってあげるわよ」
すうっと持ち上げたセルペンティアの指先に、再び魔法の火が灯る。
フィオは乱暴に涙を拭い、リオンを抱いたまま杖を構えた。
その時、セルペンティアが背後を振り返った。彼女の視線の先は闇である。セルペンティアには、その闇に身を潜める者が見えているらしく、苛々と話しかけた。
「なによ、これからって時に。だいたいあんた、何しに来たのよ。人質はどうなったの? まさか放ってきたんじゃないでしょうね」
闇の中で何かが蠢いたのが、フィオにも分かった。その途端、フィオの背筋に冷たいものがはしった。
闇の中に、“よくない何か”がいる。
「ちょっと、聞いてるの? 答えなさいよ、グズね」
セルペンティアが闇に歩み寄った瞬間、触手のようなものが飛び出して、彼女の五体に巻きついた。
「な、なにするの!」
セルペンティアは触手から逃れようと、激しくもがいた。が、その抵抗をものともせず、触手はセルペンティアを闇の中に引きずり込んだ。
「やめなさい! 命令が聞けないの!? この……」
セルペンティアの声が途切れた。間もなく、壮絶な断末魔が聞こえてきて、フィオの肝胆を寒からしめた。
ぐちゃぐちゃという、鳥肌の立つ音がする。闇の中で何が起こっているのか、想像するのもおぞましい音だ。
音は長く続かなかった。ほどなくして、闇に潜む何かの気配は遠ざかっていった。
「な、なんなの……」
訳が分からず、フィオは呆然と呟く。ただ一つはっきりしているのは、セルペンティアはもはや生きていないだろう、ということだ。
フィオは腕の中に抱えた少年を見つめた。そっと横たえ、リオンの顔についた血を、フィオは自分の服の袖で拭いた。
翼のはためく音がした。そちらに顔の向けると、ゼファーがテラスに降り立つところだった。
ドラゴンの上には師の姿がある。クロードは従魔の背から飛び降りると、弟子のもとに駆け寄った。
クロードはフィオを見、彼女の側で物言わず横たわる少年を見降ろした。
クロードの背後から、ゼファーが覗き込むように顔を近づける。
「おい、冗談だろ……」
ドラゴンは耳を垂れて、悲しげに唸った。
「私をかばって……」
フィオは説明しようとしたものの、言葉がうまくつながらなかった。口から漏れるのは嗚咽だけだ。
クロードはフィオの向かいに片膝をついた。二人でリオンを囲む形になった。
少年は顔の半分を血で染め、固く瞼を閉ざしている。その瞼が開かれることは、もうないのだ。
「この粗忽者め。なぜ戻ってきたのだ」
呟くように細く、魔導師は言った。だらりと投げだされたリオンの腕を、そっと手に取り、胸に添えてやる。
その時だった。
フィオのポケットから、〈扉の石〉が漂い出てきたのだ。黒く艶めく石は、フィオ達が見守る中、すうっとリオンの胸の上に移動した。
「これは」
師と弟子は、互いの顔を見る。そして、視線を石と少年に戻した。
〈扉の石〉はささやかな光をまとい、リオンの上で、くるくると回り始めた。
*
冷たい石の感触で、スタンウッドは意識を取り戻した。
身体は動かない。指先までの感覚が失われている。精神で従魔の存在を探ったが、何も感知できなかった。亜空間に呼びかけても返事はない。おそらく消滅している。
クロードとの対決は、彼の完敗だった。宿敵の放った最後の電撃によって、フェストールとともに東棟の屋上に墜落したのである。
筋肉が麻痺したせいで、口元も動かせなくなったスタンウッドは、心の中で自嘲する。
本心では解かっていた。自分では、クロード=クラウディオ・ハーンには勝てない、と。
たとえ自身の能力を上回る力を手にしたところで、結果は同じだろう、と。
実際スタンウッドの肉体は、すでに魔力に蝕まれていた。強すぎる力を急速に取り入れたために、身体がついていかなくなっていたのである。遅かれ早かれ、スタンウッドの肉体は限界に達し、塩の塊となって崩壊しただろう。
(それでも……)
力が欲しかった。遥かな高みに到達してみたかった。
クロードは、力になど恵まれたくはなかった、と言った。それは、恵まれた者だからこそ口に出来た言葉だ。
(君には解かるまい。この先、一生)
始めから高みにいる者に、心身を削る思いで這い上がろうとする凡人の思いなど、理解できるわけがない。
だからこそ、一矢報いてやりたかった。惨めに身を滅ぼす結末を迎えようとも、全身全霊で高みを目指そうとする者の意地を、なんとしてでも認めさせたかったのだ。
それは、おそらく叶ったと信じたい。
力ある者にも、それなりの苦労があるという。ではクロードには、せいぜい苦労してもらわなければならない。力あるがゆえの苦しみを、存分に味わうがいい。
薄らぐスタンウッドの視界が、一時だけはっきりした。
彼の目に映ったのは、奇妙な塊がうずくまって、もぞもぞと蠢いている光景だった。
人に似た形状をしている。しかし、人の数倍は巨大である。
巨大なそれは、何かを食べているようだった。くちゃくちゃと耳障りな音をたて、せわしなく咀嚼している。
巨人の陰から、見覚えのある翼と尾が覗いた。喰われているのはスタンウッドの従魔だ。
くるりと、巨人の顔が振り向いた。双眸は空洞で、目玉がない。鼻や唇は削がれている。フェストールの体液にまみれたその顔は、およそ顔とは言えない状態だ。
それなのに、不思議とスタンウッドには解かった。
(やあセルペンティア、君か)
巨人はセルペンティアを喰ったのだ。それが表面上の形態に反映している。おそらく、彼女の従魔も、同じ末路を辿っているだろう。
フェストールを喰った巨人の身体に、変化が起きた。ぶるぶると身を震わせたかと思うと、いびつな背中に翼竜の翼が生えたのだ。
(おお……なんということだ)
スタンウッドの魂は、歓喜で震えた。あれは誕生したばかりなのだ。まだ定まっていない己の存在を形作るために、周囲の生命を喰い、吸収し、進化しようとしているのだ。
あれこそは、〈アーリム〉の代わりにこの地に生まれ落ちた、原始の生物。
――ジア=バーラム。
現存するバーラムを遥かに上回る、強大な闇の住人。召喚することも困難な、幻の存在だ。
生まれたばかりのジア=バーラムは、赤子のようにふらりとおぼつかない足取りで、スタンウッドに近づいた。
(そうだ、来い)
(私を喰らえ。お前の一部とするのだ)
(お前の存在を知らしめてやれ)
ジア=バーラムの口が、かっと開かれる。スタンウッドは、動かないはずの口元を歪ませて嗤った。
ジア=バーラムが、スタンウッドの上半身に喰らいつく。その瞬間、彼の身体は、塩と化して砕け散った。