黒髪の少女
世界に住まう生き物は、人間や動植物だけではない。
科学が進歩した現代でも、人が踏み入ることの少ない場所には、ドラゴンや妖精などの幻獣種が、未だ数多く存在している。
そんな多種多様な生物の中で、もっとも危険視されているのが、バーラムだ。
バーラムは、いわゆる「魔物」である。彼らはなぜか、ネズの木の生えた場所に出没する。ネズの木がバーラムを呼び寄せるのだと、昔からまことしやかに言われているが、具体的な理由はまだ解明されていなかった。ネズの木が生えるはずのない海上でも、バーラムの出現領域があるので、この説の信憑性はあまり高くないのだ。
とはいえ、棲息地帯によって生態も違ってこようから、一概に否定することもできない。少なくとも、地上のバーラムには適用するだろう。
バーラムは人間を襲うが、縄張りに踏み入らなければ姿を見せない。更にバーラムは、人間が大勢住む村や町には近づかない。人間の生活臭のこもったような場所を嫌うのだという。
つまり、ネズの木が生え、人里から離れた地。そういう所は、バーラムが出現する可能性が極めて高い。
ベイルゼン郊外の森には、まさしく条件にあてはまるネズの木の群生地があるのだ。
心臓が、微かに早鐘を打っている。
この小心者、と、リオンは己を叱咤した。
色の不揃いな敷き石で造られた森の遊歩道を、リオンは警戒しながら歩いていた。
よく晴れた午前だ。生い茂る木々の葉の隙間から、日光がきらきらと輝く光の糸のように射し込んでいる。柔らかな風が髪を撫で、草花を揺らし、ささ、と音を立てた。
穏やかで平和な光景だった。この森の川向こうに、恐ろしい魔物が棲んでいるなどとは到底思えない。
郊外の森の巡回は、古参の警備隊員が、毎日交代で行っている。新人は任務に慣れた頃に、先輩隊員の巡回に幾度か付き添い、やがて一人で受け持つようになる。
リオンは以前、レスターとの巡回で一度だけ森に訪れた。その時は何も起こらず、ただ遊歩道を見回り歩くだけで終わった。
郊外巡回は退屈で地獄だ、とレスターはよく愚痴をこぼす。いっそのこと、一体でもバーラムが出てきてくれれば、少しは警備隊員としてのやりがいもあるだろうに、とも。
冗談ではない。魔物など一生現れなくて結構だ、というのがリオンの本音である。
森の巡回は毎日行われているが、警報弾が使われたことなど、リオンが覚えている限りでも片手で数えられる程度だ。それも注意警報の一発である。
バーラムは滅多に姿を見せない。レスターを始め数人の警備隊員は、森の巡回は数日に一度程度でよいのではないか、と考えている。
リオンもそう思う。
何も起きないのが一番いい。退屈だろうがなんだろうが、平和である以上に幸運なことはないのだ。
そう考えてリオンは、面白みのない自分自身が、少しだけ嫌になった。
男たるもの能動的であるべし。警備隊の誰かがそう言っていた。何事も自分から行動を起こせ、それこそ男である、というのだ。
その意見にはリオンも賛成である。しかしリオンの性格は、それとは正反対だった。
自分から積極的に、何か行動を起こすことがない。いつも誰かの意見に従い、そのあとをついていくだけだ。
こういう生き方がお似合いなのかもしれないと、半分あきらめたような結論を出している。所詮はただの一般人。他人より良く出来ることもなければ、特別な才能があるのでもない。
日々を安穏に、平凡に過ごしていくだけだ。
とりとめのないことを考えながら、ふらふらとやる気なく遊歩道を歩き続けた。
そのうち、微かな音が耳に入り、リオンははっとして足を止めた。
遊歩道が途切れている。音の正体は、流れる水だった。
リオンはいつの間にか、川の側まで来ていたのだ。
アラミア山の麓の森から続くこの川の幅は約40クルクほどで、一番深い所でも膝までしか水深がない。春になれば雪解け水が大量に流れてくるが、氾濫するほどではない。
(この川の向こうに、バーラムが)
喉を鳴らして対岸を見やる。川沿いに生い茂る木々が、濃い影を大地に落としている。古い歩道があるのだが、奥まで光が届いていないので、道がぶつりと途絶えているように見える。
この先は人間の世界ではない。得体の知れない何かから、そう警告されている気がして、自然とリオンの身体は強張った。
利き手である左手は、無意識のうちに、腰に提げた剣の柄に触れていた。右手は聖灰の入った袋を握っている。
大丈夫だ、と自身に言い聞かせた。何も起きやしない。今までだってそうではないか。バーラムが現れることは滅多にないのだ。
異常なし、引き返そう。
深呼吸して踵を返した、その時だ。
突然リオンの左目がずきりと痛んだ。針で目の裏を刺されたような、鋭い痛みだ。思わず呻き声を上げ、左手で押さえた。
痛みは脳にまで伝わり、リオンは立っていられなくなり、地面に膝をついた。
(なんなんだ、これは)
目にゴミが入ったなどという、そんな生易しい痛みではない。いっそのこと、この左目を抉り出してしまいたいほどに苦しい。脳が巨人に掴まれたかのように軋む。
いったいどのくらいの間、その苦しみが続いただろうか。
しばらくして、左目の激痛は唐突に失せた。さっきまでの痛みが、嘘のように消えたのだ。
「なんだったんだよ、今のは」
荒くなっていた息を整え、ゆっくりと立ち上がった。
ふと、何かの気配を感じて、川の方へ視線を向ける。
一瞬にして心臓が凍りついた。
川の向こう岸で、黒い四足の犬に似た獣が四体、こちらをじっと睨んでいる。
(そんな……)
リオンは震える手で腰をまさぐり、警報弾を握る。
(どうしてこんな時に)
実物を見るのは、実は初めてだった。これまでは本の挿絵や、写真と呼ばれる、まるで現実の風景を切り取ったかのような貴重な資料画でしか見たことがなかった。
だがそれでも分かる。あれは野犬などではない。
(バーラム……!)
四体のバーラムは、弾かれたように走り出した。盛大に水しぶきをあげながら川を横断し、真っ直ぐにこちらを目指してくる。
バーラムはその四体だけではなかった。木々の間からコウモリのような翼を生やしたバーラムが、何体も飛び出してきたのだ。
飛行型のバーラムは、四足のバーラムよりも迅速に川を渡りきり、奇声を発しながら町の方へ飛び去っていった。その数、十体ほどだろうか。悪夢のような光景だった。
「駄目だ!」
リオンは気力を奮い起こし、警報弾の発射口を空に向け、引き金を引いた。
打ち上げ花火のような甲高い音が、三度、空に響き渡った。
警報弾三発は迎撃態勢の合図。頼む、気づいてくれ、とリオンは願った。三発撃ったのは間違いではない。本当にバーラムが現れたのだ、と。
町の仲間に危険を知らせることに気をとられたリオンは、自分自身にも危険が迫っていたことを失念していた。警報弾を撃ち終え、視線を地上に戻すと、いつの間にか四体のバーラムがリオンを取り囲んでいたのだ。
闇の一部が、野犬の形に切り出されたかのようなバーラムだ。獲物――リオンをとらえる不気味な双眸は真っ黄色で、生き物の持つ命の輝きが微塵も感じられない。
リオンが後ずさると、四体のバーラムはじりじりと距離を詰めてきた。おぞましいまでに赤い口を開け、牙をむき出しにして威嚇する。
リオンは聖灰の袋を手に取った。
聖灰はヤドリギを燃やして出来たものだ。この聖灰はバーラムに触れると、その肉体を焼く。バーラムに対抗する手段の一つであるが、複数体を相手に、どれほどの効力を発揮するだろうか。
(しっかりしろ、警備隊だろ!)
このままこのバーラムを町に行かせるわけにはいかない。どうにかして撃退しなければ。
だが、怖い。リオンは実戦経験がない。四体ものバーラムを、自分一人でどうやってやりすごせばいいのだろう。
考えている間にも、バーラムは距離を縮めてくる。リオンは袋に手を入れ聖灰を一掴みすると、一番近いバーラムに投げつけた。
聖灰はバーラムの鼻先をかすめただけで、大したダメージを与えられなかった。
もう一度、と、再び袋に手を入れようとした。すると、別の個体が飛び掛ってきて、リオンの手から袋を叩き落した。
袋の中の聖灰が、全て地面にぶちまけられた。
対バーラムの有効手段を失ったリオンは、後退しつつ剣の柄を握った。戦うしかない。
こんな時、兄ならば躊躇なく前に出て、バーラムを倒すために剣を振るうだろう。
リオンは深呼吸した。剣術教室で習ったことを、そのまま実演すればいいのだ。相手が練習台の木柱から、バーラムに代わった。ただそれだけだ。
腹をくくった、その時。
リオンの後方から赤い光の球が飛び出し、バーラムの一体に命中した。途端、バーラムは炎に包まれ、肉体を焼かれた。
炎上するバーラムは、耳を塞ぎたくなるような絶叫をあげ、しばしのたうちまわっていたが、やがて地に倒れ動かなくなった。
一体何が起こったのだろう。リオンが背後を振り返り、その正体を確かめようとすると、
「下がっていて下さい」
涼やかな声と共に、華奢な影がリオンの横を通り過ぎた。その影を追い、視線を元に戻す。
華奢な影の主は少女であった。腰まで届くほど長い黒髪を、ふたつのおさげにしてまとめており、薄桃色のワンピースを身につけている。手には細長い白の杖を持っていた。
白い杖を身軽に操り、少女はバーラムに立ち向かっていく。
飛び掛かってくるバーラムを恐れもせず、ひらりと身をひるがえして、攻撃をかわす。むき出された牙を回避し、すかさず杖を突きつけ、炎の球を放つ。
バーラムは顎が外れんばかりに口を開け、少女の柔らかな肉を食いちぎろうとするが、少女はそれをものともしなかった。バーラムに反撃を許さない少女は、一体また一体と、着実に炎を命中させ、燃やし尽くした。
リオンが介入する隙はまったくなかった。本当なら少女の助太刀に入るべきだ。いやそもそもバーラム退治は、少女ではなく、自分がやらなければならない務めである。
逡巡している間に、少女の放った炎が、最後の一体を倒した。
早い仕事であった。結局リオンは、彼女の鮮やかな戦いぶりを、呆然と見守ることしかできなかった。
少女がこちらを振り返った。長い黒髪のおさげが揺れる。
同い年くらいだろうか。真っ直ぐにリオンを見つめるその瞳は澄んだ菫色、まつ毛が長く、唇は淡くつややかな桜色だ。美しい少女である。間近で見ると、本当に身体つきが細く、四体もの化け物を一人で倒してしまうような人物には、とても見えなかった。
「お怪我はありませんか」
少女は心配そうに、そう声をかけた。
リオンは首をふり、つばを飲み込んで、乾いていた口内を湿らせた。
「僕は平気なんだけど、君は……?」
「私は大丈夫です」
答えて少女は、手にしていた細い杖をくるりと一回転させた。すると杖はたちまち形状を変え、純白の腕輪となった。
「えっと、あの、助けてくれてありがとう」
少女が腕輪を左の手首にはめる様子を眺めつつ、遅ればせながらリオンは礼を述べた。
「君すごいね。あれだけのバーラムを一人で倒してしまうなんて」
心の底から感心するとともに、リオンは自分の不甲斐なさに呆れた。腰に剣を提げているというのに、何の役にも立てていない。
リオンの言葉に、しかし少女は苦笑する。
「いいえ、全然だめです。四体倒すのに三分もかかってしまいました。これでは師に怒られてしまいます」
「三分なら充分なんじゃないか」
「だめです。二分は切らないと拳骨です」
少女は悩ましげにため息をついた。リオンにしてみれば充分な成果なのだが、彼女の師というのはよほど厳しいのだろうか。
「ところで君は誰? どうしてこんなところに?」
これほど綺麗な容姿の少女なら、狭いベイルゼンの町で目立たないはずがない。彼女は町の外から来たのだと、リオンは察した。
「ここは一人歩きには危険だよ。ネズの木の群生地が1メル=クルク先にあるんだ。バーラムが寄ってくる可能性があるから、滅多に近づく人はいないんだよ。さっきみたいに襲ってくることは稀なんだけど」
「そうなんですね。でも、そう言うあなたは?」
「僕は見回りで。これでも市街警備隊員なんだ。その、全然役に立ってなかったけど」
それどころか腰が引けていた。そんなこと口が裂けても言えないが。
少女についてもう少し訊いてみようと思った時、リオンは大変な事実を思い出して、あっと声を上げた。
「そうだ! 町の方にもバーラムが行ってしまったんだ!」
リオンは慌てて、町へ戻るために駆け出そうとした。
すると少女が、落ち着いた口調で言った。
「大丈夫だと思います」
「え?」
「町の方へは私の師が向かいましたから。今頃は片付いているはずです」