その魂に誓って
たゆたう水は清らかで、日の光を乱反射し、金剛石のようにきらきら輝いている。
打ち沈んだリオンの心とは正反対だ。
失意だけを土産にセプトゥスを後にしたリオンは、ハイメルまで戻ってきた。行きは仲間と一緒だった道中を、今度は一人で歩いた。
町の中の、どこをどう歩いたかは覚えていない。気がつけばリオンは、オルシワ湖へと続く水路の側にいた。
つい先日、フィオ達とバーラムの追っ手から逃げた水路だ。
リオンの足は、そこで止まってしまった。どうしても、ここから北へ――故郷ベイルゼンへ向かう気力が起きない。
心残りがあるからだ。本当はこのまま帰るのは本意ではない。
(僕は何のために、ここまで来たんだろう)
最初は、警備員としての隊長代理の任務のためだった。それもほとんど巻き添えをくった形で旅立つことになった。
けれど旅の間に、自分の消極的な性格を変えられるかもしれないと思い、旅立ちを受け入れた。
ところが旅先で待っていたのは、自分の不甲斐なさの再確認と、望みもしなかった出生の秘密と、それゆえの宿命だった。
どうしてうまくいかないのだろう。これまでも、自分なりに精一杯頑張ってきたつもりだ。足手まといになりたくないからと、頑張れば頑張るほど空回りする。そうやってあたふたしているうちに、不測の事態に巻き込まれて、望まない方向に物事が進んでいってしまう。その本流に抗うすべはリオンにはなく、結局周りに流されて、自分の意思とは関係のない出来事の中に身を投じるはめになるのだ。
(僕は何もしていないのに)
何もしていない。
そうだ。自分は何もしていない。自分から何かをしようとしなかった。
性格を変える努力も、強さを得るための努力も、何もしてこなかったのだ。
どうせ抵抗しても無駄だと、起きた出来事に流され、他人との衝突を恐れて意見を貫くこともなかった。
誰かを傷つける怖さより、自分が傷つくことが怖かった。
与えられた場所で、与えられた仕事をこなしてきただけで、自分の手で勝ち得たものなど何一つない。
そうしながら、他人に認めてもらうことを望んでいる。
リオンがこの旅で本当に望んだものは、一人の仲間として認めもらうことだった。
世話を焼かれてばかりの、半人前の警備員ではなく、対等な隊員として。
古代の一族の末裔という、稀有な共通項に括られた者ではなく、共に戦える仲間として。
リオン・グリュアース個人として。
だが、傷つくことも、努力することも、自分の力で何かを変えようとすることも諦めた人間が、どうして認められようか。
(結局僕は、何も変えられなかった)
突きつけられた自分自身の真実からも目をそらした。こんな最低な人間を、誰が必要とするだろう。
(でも、やっぱり怖いんだ)
自分自身の正体を受け入れ、〈アーリマン〉との戦いに身を投じれば、また同じ事を繰り返してしまう。
戦いは戦いを生み、憎しみが憎しみを呼び、同じ惨劇が再び起こるだろう。
もうあんな思いは二度としたくない。もう悲劇はたくさんだ。
リオンはため息をつき、顔を伏せた。
と、あることに気がつき、伏せた顔を上げた。
――「あんな思いは二度としたくない」?
――「また同じ事を繰り返す」?
それは何の記憶だ。自分が、一体いつ、惨劇を経験したというのだ。
――これは、僕の記憶じゃない。
ミスト・アンフィビアンの森の側で、初めて魔力が発動して以降、時々奇妙な感覚が起きた。
リオン自身が考えていることと感情、それとはまた別のところに、違う考え方と感情がある。どちらの“自分”なのだが、“もう一つの感情”はリオンのものではない。
冷静になって、やっと分かった。
(僕の中に“別の自分”がいる)
自分の中の“もう一人の自分”。それが戦うことを恐れているのだ。
その“自分”は、かつて愛する仲間達を失った。戦い続けることの意味を見失った。世界を守り抜くことが出来なかった。
だから、二度と繰り返したくなくて、逃げたのだ。
リオンの左手は、自然と左目に触れていた。それからその手をずらして、右目を覆う。
左目だけになったリオンは、水路を覗き込んだ。穏やかな水面に、リオンの姿が映る。
「怖いんだね」
声に出して言った。
「自分のせいで、また仲間を失うんじゃないかって」
水面が揺らめく。
「でも、もう怖がってばかりじゃ駄目なんだ。逃げ続けたって駄目なんだ。誰かが何かしてくれるのを、待ってるだけじゃいけないんだ」
水面に映る氷青の目が、じっとリオンを見つめ返す。
「待ってたって世界は変わってくれない。自分から動かなくちゃ何も変えられないんだ」
たとえ何の取り柄もないとしても、何かをしようと実行に移すことは出来る。戦う力はなかったとしても、誰かを庇う盾にはなれる。努力は実らなくても、努力をした分だけ成長できる。
他人に認められるばかりが存在意義ではない。
特別な能力などいらないのだ。必要なのは勇気だけだ。
――内なる声に耳を傾けなさい。
古竜の言葉が脳裏を過ぎる。
リオン・グリュアースの本心は、「戻りたい」と訴えていた。フィオ達のもとに戻りたい。戻って力になりたい。
たとえ、カドモン・ティタニールだからという点で協力を求められただけだとしても、それで構わない。
仲間だから。
みんな、僕の大切な友達だから。
「一緒に戦おう」
氷青の目に光が灯る。
「今度こそ守ろう」
リオンは右目を覆っていた手を外した。右と左、違う色の目がそろった。
心を決めたリオンは、水路の側を離れ、通りに向かって駆け出した。
太陽が西に傾き始めている。フィオ達はまだセプトゥスにいるだろうか。
焦燥感を抱いて、ハイメルの町を走り抜ける途中、停車した一台の高速移動ビークル、ブリッターがリオンの目に留まった。
持ち主らしき人物の姿は近くにない。リオンは迷わずブリッターに近づき、考える間もなく、その座席に腰を降ろした。
エンジン起動ペダルを踏み、ハンドルをひねる。轟音と共にブリッターが起動し、約1クルク浮き上がった。
ブリッターの運転も初めてだ。しかし、あれこれ考えている余裕はなかった。おなじ地上用ビークルなのだから、操縦法も似たようなものだろう。
「あっ! おいこら、そこのお前!」
ブリッターの持ち主らしき男が、リオンに気づき、声を張り上げながら、こちらに走ってくる。
「すみません! どうか人生のサプライズだと思って!」
リオンは男に追いつかれる寸前、ブリッターの推進ペダルを踏みつけ、町の外に向けて発進させた。
*
セプトゥス支部の東棟の屋上からは、セプトゥスの町並みと飛空船港がよく見えた。晴れていて状況が違えば、なかなかの絶景を堪能することができただろう。
セルペンティアに引きずられるようにして、屋上に連れてこられたフィオは、拘束されたまま隅に立たされていた。
セルペンティアの右手の中には、黒曜石のような〈扉の石〉が握られている。彼女は石を掲げ持ち、恍惚とした表情で眺め回していた。
どうにかして、あの石を奪い返さなくては。
幸運にも、白い腕輪は取り上げられていない。今はポケットに忍ばせてある。これをなんとかして手の中に収められないか。杖を持つことができれば、反撃の余地もあるかもしれない。
フィオが密かに策を練っていると、もう一人の人物が屋上に現れた。クラト・スタンウッドだ。
「手に入れたか」
スタンウッドの言葉に、セルペンティアは自慢気に石を見せた。
「そっちはどうだったの?」
「問題ない。魔法の使えない魔導師など、とるに足らんよ」
見下すように鼻で嗤い、スタンウッドは肩をすくめた。
「教授はどこですか」
クロードの姿が見えないのは、スタンウッドに捕まったからだ。師匠が捕らわれたままでいるとは考えられないが、万が一、という事態もあり得る。
「彼なら我々の監視下にある。私の実験体になってくれるのだよ。君も一緒にどうだね」
「ちょっとやめてよ。この子は私がもらうって言ったでしょ」
セルペンティアに睨まれても、スタンウッドは怯まなかった。
「冗談だ。そう怒るな」
「あんたは“アルジオの破壊魔”とよろしくやってりゃいいのよ、変態」
と、セルペンティアは吐き捨てるように言った。
「そんなことより、さっさと始めるわよ。早く石を使いたくて仕方ないのよ。あんたも見たいでしょ?」
「ん? 本隊の到着まで待たないのか」
「待つわけないじゃない。そんなの馬鹿正直に従ってたら、上になんて上がれないわよ」
「なるほど。始めから命令に背くつもりだったのか」
スタンウッドは無感動に頷いた。
「問題ある? あんたは“アルジオの破壊魔”が手に入るなら、あとはどうでもいいんだったわよね」
「そのとおりだ。よって君が結社を出し抜こうとしようとも、それを止めるつもりはない。どうぞ、好きにやりたまえ」
「あんたを相棒に選んで正解だったわ。話の分かる男って大好き」
セルペンティアはふざけ気味に投げキッスを送った。スタンウッドはうっとおしそうに、それを避ける振りをした。
二人の〈アーリマン〉の会話で、フィオはある程度状況を把握できた。
セルペンティアは、〈扉の石〉の入手を〈アーリマン〉の本隊に知らせるつもりはないのだ。そしてこのまま儀式を始めようとしている。
〈扉の石〉を手に入れ、儀式を単独で成功させ、結社内での自身の地位を高めようとしているのだ。
(でも、どうやって)
たとえ〈アーリム〉の魂を降ろすことには成功しても、その魂を収める“器”がなければ、復活とはいえない。
フィオが器として使いものにならないということは、セルペンティアも知っているはずだが。
「どうやって儀式を成功させるんだって顔してるわね」
フィオの心を見透かしたように、セルペンティアは言った。
「〈アーリム〉の魂を降ろす器は、同じカドモン・ティタニールでなければならない。でも、あんたにはできなかった。私だってあんたに器の役目は期待してないわ」
セルペンティアは衣装の首元を編み上げている紐をほどき、胸元をはだけた。張りのある乳房があらわになる。
セルペンティアはフィオに近づくと、はだけた胸を誇示するように見せつけた。
セルペンティアの豊かな胸の谷間に、一つの紋様が刻まれている。その紋様の意味は、フィオもよく知っていた。
鋭角と曲線で構成された紋様。何かが鎌を振り上げているようにも見える、奇妙な形。
「あなたは……」
「私が〈銀の眷属〉の末裔だと知る者はほとんどいないわ。この時のために秘密にしておいたの。〈アーリム〉の器には、私がなる。あんたは〈アーリム〉と一体化した私に取り込まれて、私の一部となるのよ。デウム魔法を使えない役立たずでも、同じカドモンとして血肉と魔力を提供するくらいは出来るわよね。下に集めているクズ共も、多少は糧になるでしょ」
セルペンティアはフィオから離れ、天に向かって〈扉の石〉を掲げた。
赤い唇が開き、呪文が唱えられる。
セルペンティアが詠唱している呪文は、エーヴェルシータであった。
呪文の詠唱が進むにつれ、風が更に強くなり、空に黒雲が渦巻き始めた。セルペンティアの声が、一段と大きくなる。呪文が完成した。
セルペンティアの手から、〈扉の石〉が浮かび上がる。その直後、石から目も眩むような金色の光がほとばしった。
光は黒雲を貫き、真っ直ぐに天を目指し、一瞬にして彼方へ見えなくなった。
そして、沈黙が流れる。
風が消え、音が静まり、空気の流れが止まった。不気味なまでの静けさが辺りを包んだ。
次の瞬間。
爆発にも似た轟音が轟いかたと思うと、凄まじい風圧と共に、天から光の柱が降りてきた。
光の柱はフィオ達のいる屋上に突き立った。あまりの眩しさに、フィオは固く両目をつむって顔を伏せた。
やがて光の量は抑えられ、目を開けていられるほどになった。
セルペンティアの、勝ち誇った哄笑が聞こえ、フィオは顔を上げた。
〈銀の眷属〉の血を引く女は、煌々と己を照らす、天から降りた光の柱を、恍惚とした表情で見上げている。
「開いたわ。外次元の扉が開いたのよ!」
「やめて下さい!」
フィオは直感で悟った。
この儀式は失敗する。セルペンティアは〈アーリム〉の器にはなれない。儀式の失敗は惨劇を招く。下手をすれば、この町が壊滅状態に陥ってしまう。
セルペンティアの耳には、フィオの制止の声は届かなかった。彼女はうっとりと光の柱を見上げたまま、その光の中に身を投じた。