想い、ほのかに
二十分後、朝食のために食堂に集まった時も、弟子の機嫌は良くなっていなかった。いつになくむっつりと、唇を少し尖らせ、食事中クロードの方を見ようともしなかった。
弟子の隣にはマリエットがちょこんと座って、パンをかじっている。マリエットは機嫌の悪いフィオを、不思議そうに見上げていた。
クロードは幼い少女を、極力視界に入れないように努めた。
二人の少女の向かいには、ヨナスがいる。若い庶務室長の方は、すでに今朝の剣幕を治めており、クロードとフィオの間に漂う微妙な空気を感じ取って、どうにも落ち着かない様子であった。
ゼファーは外に出ている。見た目は猫だが本性はドラゴンだ。捕食者である。敷地内のどこかで、獲物を狩っているだろう。
彼らの周りのテーブルでは、館内の職員が各々朝食をとっている。その視線のほとんどが、クロード達に集中していた。
悪名高い“アルジオの破壊魔”とその麗しき弟子の“特攻少女”が、ここセプトゥス支部に泊まり込んでいると聞きつけ、一目ご尊顔を拝んでやろうと、わらわら集まってきているのだ。
男達のもっぱらの興味は、やはり弟子の方らしい。艶やかな黒髪と、相対する白い肌。澄みきった菫色の瞳は、異性を惹きつけてやまない。
本部では、クロードの目の届いていないところで、デートに誘う命知らずの男連中が大勢いるらしい。その誘いを、弟子が受けたことは一度もないが。
当然だ、とクロードは思う。そこいらの馬の骨にはフィオはやれない。
何度か、ナンパ現場に出くわしたことはあった。その都度、軟派野郎をこらしめている。
こらしめられたナンパ者は、恐れをなして、二度と彼女に――クロードにも近づくことはなかった。
「おい、コショウ」
フィオの側にコショウの瓶がある。声を掛けたが、フィオは無視した。
「取れ、と言っているんだが」
「手の届くところにあるでしょう? ご自分で取ったらどうですか」
口調がひんやりしている。
苛つくものの、クロードは少し腰を上げて、コショウ瓶に手を伸ばした。
「いい加減にしろ。そんなにあいつがいないのが気に食わんのか」
「マリエット、口にバターがついてるわ。“んー”ってして」
「あのな、そういう態度は評価出来んぞ。俺が話しかけているのだ、こっちを見ろ」
「弟子にも主義主張があります。いつでも何でも素直に従うとは思わないで下さい」
「……お前だんだん、うちのに似てきたな」
「えっ? クロード、奥さんと喧嘩した時は、こんな感じなんですか」
ヨナスが嬉々とした顔を見せたので、クロードは即行でナイフを投げつけた。ナイフはヨナスの耳元をかすめ、背後の床に突き刺さった。ヨナスはそれっきり口を閉ざした。賢明な判断である。
「まったく気づかなかったんだが、お前はいつからあいつに“そういう感情”を持っていたんだ?」
苛々が募ってきたので、少し意地の悪いことを言ってやった。案の定、フィオは顔を赤くして、きっとクロードを睨みつけた。
「すぐそういうことを! 教授のそういうデリカシーのないところ、どうにかして下さい!」
フィオはカトラリーをテーブルに置き、すっくと立ち上がった。
「今日はマリエットについていますから、お側を離れさせていただきます」
言うなりマリエットの手を引き、弟子は食堂を去って行った。歩く都度、猫の尻尾のように揺れ跳ねるおさげ髪が、彼女の苛立ちを表していた。
「ありゃあ。本当に怒っちゃいましたね。珍しいんじゃないですか?」
三つ編みを揺らしながら出て行くフィオを見送り、ヨナスが言った。
「追いかけましょうか?」
「なんでお前が。放っておけばいいのだ」
食事を再開しようとしたクロードは、フォークを持つ手を、ぴたりと止めた。
周囲の人々の視線が、ますます集中していた。“破壊魔”と“特攻少女”の口喧嘩という、貴重な現場に居合わせているのだから、致し方ないだろう。
クロードの苛々は頂点に達し、怒鳴る代わりに、バンッとテーブルを殴りつけた。効果覿面、人々は一斉にクロードから視線を外し、食事を続けるか、そそくさと退席した。
クロードは周囲にとどめの睨みをくれてやると、鼻を鳴らしてヨナスを一瞥する。
「で、飛空船の到着はいつだ」
「予定通りであれば、今日の夕方には」
カーラの講堂で就任式を終えたセプトゥス新支部長が、今日、アルジオ=ディエーダ所有の飛空船で戻ってくることになっている。
ヨナスは新支部長との引き継ぎが終わり次第、その飛空船に乗って、本部に帰るのだ。
ちょうどよいので、クロード達も同じ船に乗って、本部に戻ることになった。〈セレンクメル〉から回収した〈扉の石〉を持ち帰らなければならないし、活発化してきた〈アーリマン〉について、何か新しい情報がないか確認する必要もある。
石の保管場所を変更するにあたり、ここセプトゥス支部の〈セレンクメル〉への移動魔法陣は、封鎖されることになった。その点も報告しなければならない。
「ヨウナシお前、新支部長が戻ったら、あいつを説得しに行くとか言ってなかったか」
「言いましたよ。あなたが行かないならね。僕は別の便で帰ります。フィオも一緒に来るだろうから、そこはご了承下さいよ」
ヨナスは眼鏡越しに、批難めいた眼差しをくれる。
「あなた、本当にリオン君をこのまま放っておくんですか?」
「やる気のない奴は、フェーゼに必要ない。やる気があるなら、自分から来る」
「はあ。素直じゃないんだからなあ」
「ヨウナシ、フォークは意外と刺さるんだぞ」
「知ってますよ。今まで何回、僕に突き刺したか覚えてます? ナイフもフォークもスプーンもお箸も経験済みです。だからね、はい、そうやってすぐ構えて、先端をこっちに向けない」
昨日の午後、少年と歩いた庭園を、今日はマリエットと歩いている。
芳醇な薔薇の香りが、風に舞って、少女達を包み込んだ。
マリエットの親族と連絡がついた、という知らせは、まだなかった。彼女の生家は確認できたが、肝心の親族縁者はセプトゥスにいないのか、なかなか所在が掴めない。もうしばらく待ってほしい。と、先程警備隊詰め所から、わざわざ連絡人が訪れてくれたのだ。
(早く見つかるといいけれど)
マリエットの小さな手を優しく握るフィオは、彼女の身の上を案じた。
マリエットと離れるのは寂しいが、一刻も早く親族に引き取られる方が彼女のためである。それに、間もなくフィオ達は、アルジオ=ディエーダの本部に戻らなければならない。その前に、もちろん彼を追いかけるつもりではあるが、いずれにしてもマリエットを連れて行くことは出来ないだろう。
彼を追う――。フィオの脳裏に、優しげで、人の良さそうな少年の顔が浮かび上がった。
初めて出会った、同じカドモン・ティタニールの末裔。やっと出会えた仲間だったが、離れていってしまった。
リオン・グリュアースが去ってしまったことについて、フィオは自分でも驚くほどショックを受けていたことに、今やっと気づいた。
心のどこかで、「同じ定めを背負っているのだから、協力してくれるだろう」と思い込んでいたのだ。彼の意思を、望みを考慮せず、自分の重荷が軽くなることだけを、密かに期待していた。
リオンが戦うことを拒否する可能性があると、なぜ考えなかったのだろう。彼の性格上、なかなか自分の本心を言えずに、悩み続けていたに違いないのに。
(私は、それを察してあげられなかった。ずっと苦しませていただけだった)
フィオが立たされている境遇、過去の辛い経験、背負わされた定めを語り、リオンを追い詰めてしまったのだ。
(なんて嫌な性格)
結局我が身が可愛かっただけなのだ。そういう自分のいやらしい部分を思い知らされたフィオは、うんざりするほど自分に呆れた。心ならずもクロードに八つ当たりしたりして、なんと幼稚なことか。
リオンがいなくなったことにショックを受けているのも、期待が外れたという失望感によるものなのか。だとするなら、「リオン・グリュアースという人物がいない」ことに対する寂寞たる想いは、無いということなのだろうか。
(『リオンがいないから』じゃなく、『重荷を受けてくれる相手がいないから』なの?)
本当にそうだとしたら、これほどリオンに対して失礼なことはなかろう。
リオンはひょっとしたら、そんな自己中心的な考え方を見抜いていたのかもしれない。
(私はリオンを傷つけたんだ。誠実で、優しい彼を)
師が揶揄した“そういう感情”。
フィオは、リオンに好意を抱いているという自覚はある。しかし、おそらくそれは恋ではない。少なくとも、今はまだ。
同じ仲間、という親近感からくる感情なのかも知れず、はっきりと決めつけることは出来ない。
だが、彼に会いたいと、心の底から思う。会って、謝らなければならない。
「ねえねえ」
服の裾を引かれ、フィオは思考の中から呼び戻された。
「どうしたの?」
マリエットの大きな瞳が、じっとフィオを見つめる。
「ううん、なんでもないの」
「ねえ、お兄ちゃんは?」
今朝からリオンの姿が見えないので、マリエットは少し不安を感じているようだった。
「お兄ちゃんは……ね、その」
「おでかけしてるの?」
「うん、そう……、そうね」
「じゃあ、また帰ってくるね」
「ええ」
本当のことを言うべきか、迷った。リオンが帰ってしまったと知ったら、マリエットはどんな顔をするだろう。
「お兄ちゃんが帰って来るまで、かくれんぼしようよ」
無邪気な少女は、フィオの手を取る。握力のほとんどないその手を、フィオは包むように握り返した。