失われたもの
移動魔法陣のある部屋へ行く地下階段は、一階のとある部屋に隠されていた。
この部屋は現在、事務室として使われているが、その昔は城の召使いの控え部屋であったそうだ。
深夜、マリエットが眠り、支部に住み込みで仕える職員も寝床に就いた頃。リオン達はヨナスに案内され、その事務室に足を踏み入れた。
照明は灯さず、ヨナスが出した魔法の光球を頼りに、部屋の奥へと進む。
一番端の棚の前で足を止めたヨナスは、棚の中段に飾られてある、馬に乗った旅人の置物に手を伸ばした。
置物を掴み、軽く手前引くと、小さなカチッという音がした。すると置物は、くるりと反対側に向きを変え、またカチッという音をさせて、今度は少し棚の奥に動いた。
足元から、板が外れるような音が聴こえた。しゃがんだヨナスが、床に敷かれた絨毯の端をめくると、そこには真四角の穴が開いていた。
穴の入り口からは、下に向かって階段が伸びている。暗くて、どのくらいの深さがあるのか分からない。
「灯りを点けるので、少しお待ちを」
ヨナスはかざしていた魔法の光球を、そっと階段の穴に放り込んだ。光球はふわりと階段に沿って、穴の奥へと落ちていった。落ちる最中に、光球が一定の間隔で同じ大きさに分裂し、分かれた光球はその場に留まった。ヨナスの光球は、灯りと灯りの感覚が開かない程度に分身を生み続け、やがて階段の彼方へ見えなくなった。おかげで地下階段は、歩くのに全く支障がないほど、明るくなった。
「では行きましょう。階段、少々長いですよ」
ヨナスを先頭に、クロードとゼファーが二番手、その後ろにフィオとリオンが続いた。
地下への階段は石で出来ていて、内部の空気はひんやりとしていた。
階段を降りる間、誰も口を開かなかった。リオンにはそれが息苦しく、妙に落ち着かない気分になった。
前にいるフィオの存在が気になる。
庭園での会話の後、彼女とは上手く言葉を交わせずにいる。フィオは何か言いたそうな素振りを見せるのだが、リオンはそれに気づかない振りをした。
食事中も、フィオがこちらの様子を窺うのを、あえて無視した。
何を言えばいいのか分からない。どういう態度をとっていいのかも分からない。
ひょっとしたらカドモン・ティタニールの子孫とは違うかもしれないと言われても、「それなら自分とは一体何者なんだ」と、頭を抱えることに変わりはない。
階段を降り始めてから、約五分ほど経った頃、ようやく突き当りが視界に入ってきた。
階段の終わりには、予想通り扉が設置されていた。
協会の宝物庫に通じる移動魔法陣への入り口、というからには、さぞや重厚で堅牢な扉なのだろうとリオンは想像していたが、それは見事に裏切られた。
扉は鍵同様、何の変哲も無い、ごくありふれた木製の扉であった。ただの倉庫の扉にしか見えない。
扉の取っ手にかかっている錠前も、一般的なそれである。
「なんだよ、平凡だな」
ゼファーがリオンの感想を代弁した。
「この方がいいんだよ。重要な場所だからって、下手に過度な造りにすると、『ここはとっても大事な場所です』と教えているものだからね」
と、ヨナス。
「それも魔法錠を設置している時点で意味がなくなるがな」
「そこを突っ込まない」
クロードのもっともな“指摘”に、ヨナスはわずかに苦い表情を見せた。
「さ、リオン君。鍵を貸してくれるかい」
気を取り直そうとしたのか、ヨナスは事の外明るい口調で言った。
ヨナスに従い、リオンは彼に鍵を渡した。
「いやあ、なんだかドキドキしますねぇ。この先にはまだ行ったことがないんですよ、僕」
「お前のドキドキなんぞはどうでもいいから、さっさとやれ」
クロードの蹴りが、ヨナスのふくらはぎを打った。
「暴力反対! 本当にあなたって人は、もう少し立場をわきま……いたたたたた痛いですってば! 分かりましたから間接ぐりぐりするのやめて下さい!」
クロードの“ちょっかい”から解放されたヨナスは、今度こそ気を取り直し、リオンから受け取った鍵を、錠前の鍵穴に差し込んだ。
そのまま右に回すと、鍵の外れる音がした。
扉の取っ手が青白く光る。光はまたたく間に扉全体に広がり、一瞬輝きを強めたかと思うと、ふっと消えた。
青い光が消えると同時に、扉そのものも掻き消えた。ほのかな明かりに照らされた、扉の向こうがあらわになる。
「中へどうぞ」
ヨナスは身を引き、リオン達を中へ促す。
地下室は、天井の高い、広い空間だった。部屋は石の壁で囲まれており、家具や調度品などは一切置かれていない。
代わりに、部屋の中央に四本の白い石柱が立てられていた。石柱はほぼ正方形に立っていて、その内側の床に魔法陣が描かれている。魔法陣はわずかな光を湛えており、その光が、地下室内をほのかに照らし出しているのだ。
「ではクロード、お願いします」
ヨナスに言われるよりも先に、クロードは動き出していた。彼は魔法陣の中に足を踏み入れ、陣の中心に立った。ゼファーは彼には続かず、フィオの足元で待機していた。
すっと右手を胸ほどの高さに上げる。何かを呟くクロードの小さな声が聴こえる。
クロードの呟きが進むに連れ、魔法陣の発光が徐々に強くなっていく。彼の声が途絶えた次の瞬間、魔法陣の外円から大量の光が、天井に向かって溢れ出した。魔法の光の柱だ。
「先に行くぞ」
クロードは少しだけ振り返って、短く言った。すると彼の姿は光の中に溶け、一瞬にして消えていった。
「じゃ、俺も先に行くぜ」
軽やかな足取りで、ゼファーが魔法陣の光の中へ飛び込む。そして、主と同様に、すっと消えたのだった。
「僕らも行くとしようか」
ヨナスがリオンとフィオを手招きする。
「二人とも移動魔法陣は初めてかい?」
リオンはもちろん初めてだが、フィオは、
「以前一度だけ」
と答えた。
「酔ったりしなかった? じゃあ大丈夫。リオン君、初めての場合は、少し船酔いみたいな感覚があるかもしれないけれど、それ以外には大した影響はないから安心して」
頷く以外になかった。少し緊張して身体が強張っている。
リオンを心配したのか、フィオが顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「うん、平気。ありがとう」
二人はどちらからともなく、同時に歩き出し、一緒に光の中に身を投じた。
目を開けていられないほどの光が視界を奪った。
反射的に目を閉じ、左腕で顔を覆う。
そうしていたのはほんの数秒程度だった。まもなく、
「リオン、もう目を開けてもいいですよ」
フィオの優しい声が耳を撫でた。
彼女に従い、恐る恐る腕を下げ、目を開けた。
目の前に摩訶不思議な光景が広がっていた。その景観に圧倒され、リオンはぽかんと口を開けるのだった。
天井も見えないような高い空間だ。どこから採光しているものか、空間中に柔らかな光が満ちていて、隅々まで照らし出している。
周囲には壁の代わりに、無数の抽斗を有した巨大な収納棚が、終わりの見えない天井に向かって山のように聳えている。それが大きな円を描くように、何棹も連なっているのだ。
巨大な棚に囲まれた中央には、階段がしつらえてある。建物二階分ほどの高さだろうか。
ただただ驚嘆に暮れ、リオンは呆然と見上げるばかりだった。
「ここが、アルジオ=ディエーダの宝物殿〈セレンクメル〉です」
すぐ隣でフィオの声がしたが、遠い所から話しかけられている気がする。
「協会発足以降、ガールヴ各地から収拾された魔法遺物や資料集は、全てここで保管されます。魔法に関するものだけでなく、歴史的に重要な参考物や文献も含まれています」
「入れるのはごく限られた階級の方々だけなんだよ。移動魔法陣も、その階級の方が呪文を唱えなければ起動しないようになっているしね。しかも、そう何度も足を踏み入れてはならないんだ」
ヨナスの声も遠い。
リオンは両耳を、手で塞いだり開いたりした。どうも聴覚がおかしい。ボーンという耳鳴りがかすかにしていて、音や声が聴こえにくい。
「ひょっとして耳が遠くなっているのかい? 心配いらないよ。初めて移動魔法陣を利用した人には、たいてい何らかの後遺症が出るんだ。後遺症といっても、君みたいに耳が遠くなったり、吐き気がしたり、急激な眠気があったりという程度で、症状は人それぞれさ。一過性のものだから、しばらくすれば回復するよ」
はい分かりました、と答えたつもりだが、自分の声もよく聴こえなかったので、ちゃんと言えたかどうかは定かでない。
「さ、とりあえずこっちへ」
ヨナスに促されたリオンは、彼やフィオと共に中央の階段へ足を向けた。
階段を昇った先は、人が十人は余裕で立てるほどの広さの床になっていて、そこにはすでにクロードと彼の猫がいた。
クロードの側には、両手で抱えるほどの大きな本が、開いた状態で浮いている。ページに書かれた文字の一部が、ほのかに赤く光っていた。
「あの本には、納められた品を呼び出す、それぞれの言葉が書かれているんだ」
クロードに怒られたくないのか、ヨナスの声は抑えられている。幸い、リオンの聴覚は戻りつつあったので、聞き逃すことはなかった。
「ここへ辿り着くにも、あの本を使うにも、限られた人間がいなければ不可能なんだよね。スタンウッドは誰かを脅して利用するつもりだったのかもしれない。もしそうでないのなら、その“限られた人間”の中に、〈アーリマン〉の内通者いるってことになるんだけど」
ヨナスが不審を口にしたとき、何か光るものが、こちらに向かって宙を漂ってきた。
それは、すうっとクロードの手前まで移動して、宙に留まった。
光の正体は、水晶のような球体であった。透明な球体の表面が、シャボン玉のようにきらめいているのだ。
球体の中には、様々な形の金属のリングが入っていた。リングは全て複雑に絡み合っており、まるで知恵の輪のようである。
クロードは、球体に右手をかざした。球体の光が収まり、キン、という金具と金具がぶつかったような音が、周囲に響いた。
次の瞬間、球体がシャボン玉さながらに弾け散り、中の“知恵の輪”があらわになった。
“知恵の輪”は宙に留まったまま、ひとりでくるくると回転を始めた。
つながったリングが、それぞれ別の方向に動き出す。すると、一つまた一つと、リングがほどけていく。
リオン達が見守る中、やがて全てのリングが解除された。ほどけたリングは棒状に変化し、互いに連結して、一つの輪となった。
輪の内側に、小さなものが出現した。手の中に握り込める程度の大きさの、黒い艶やかな石であった。
石は不規則に削れた形をしていて、まるで砕かれた黒曜石の欠片のようだった。
「あの、これが……?」
訝しみつつ尋ねるフィオに、クロードは顔も向けずに頷いた。
「そうだ。これが〈扉の石〉だ」
クロードは宙に浮く〈扉の石〉を無造作に掴み取り、そこでようやくこちらに向き直った。
「こんな地味な見た目だがな。使いようでは、国ひとつくらいたやすく滅ぼせる」
クロードの手の中の石に、リオンの目は奪われていた。
艶のある表面は、時折光を反射して、ささやかにきらめく。その輝きが、リオンに語りかける。左目が疼く。
解き放て(エクファ=フェクティ=オルゲ)――。
リオンは声にならない叫びを上げて後ずさった。異変に気づいたフィオ達が、一斉に彼に注目した。
「リオン、どうしたんですか?」
「今の、聴こえなかったの? フィオには」
フィオは首を傾げて、それから横に振った。
「何が聴こえたんですか? ひょっとして……」
「な、なんでもない」
リオンはまた半歩、後ろに下がった。
もうここまでだ。これ以上は無理だ。
緊張で小刻みに震える心臓を抑えるように、リオンは自分の胸ぐらを掴む。
「石は取ったんだから、もう帰ろうよ。僕、先に行くよ」
一方的に言い放つと、リオンはくるりと踵を返し、急ぎ足で階段を降りた。背後から心配そうな声をかける、フィオやヨナスが追ってくる気配を感じる。
しかしリオンは振り返らなかった。足を止めることなく、階段を降り、来た時のように移動魔法陣に――今度は躊躇なく――飛び込んだ。
地下室に転移した時、少しだけめまいを感じたが、それには構わず、リオンは一目散に地上を目指した。
階段を昇りきり、薄暗い事務室に戻ってきたリオンは、そこでようやく足を止めた。
窓の外は、まだ闇に沈んでいる。夜明けまでは、まだ時間があった。
間もなくフィオ、ヨナス、ゼファー、クロードの順で、事務室に戻ってきた。
ヨナスが壁際を探り、室内照明のスイッチを入れた。一瞬にして事務室内が明るくなった。
「どうしたんですか、リオン。なんでもない、なんてことないでしょう?」
フィオは心配と不安が混ざったような、心細そうな顔で、リオンを覗き込む。リオンはどうしても彼女の目を見られずに、不自然に視線をそらした。
もう黙っていられるのもここまでだ。このままずるずる一緒にいて、期待させるような真似をしてはいけない。ちゃんと自分の意思を伝えなければ。
拒む権利はあるはずだ。自分は間違っていないはずだった。なのにどうして、こんなに身体が震えるのか。
「ごめん、フィオ」
伝えなければいけない。何かを失うことになったとしても。
「僕はやっぱり、協力できない」
空は闇から藍色に変わった。
地平線は、顔を出そうとする太陽の光を受け、オレンジ色に染まっていく。
セプトゥス支部館内は、しんと静まり返っていた。わずかな物音も、騒音に聴こえそうなほどだ。
館内は薄暗いが、窓から太陽の光が少しずつ射し込んでくるので、視界を奪われるほどではなかった。
リオンは真っ直ぐに玄関を目指していた。誰にも気づかれないように、足音を忍ばせて。
うしろ髪引かれる思いを払うために、一度も振り返らなかった。
(ごめんね、フィオ)
心の中で何度も謝ったが、そうしたところでもはや遅い。リオンは決断してしまったのだから。一緒には戦えない、と。
協力を拒んだ自分には、もうここにいる理由がない。鍵ついての秘密は分かった。鍵はアルジオ=ディエーダの本部に、一度預けられることになる。ここまで分かれば、もう充分だ。マルクの代理としての努めは果たした。あとは全て協会にまかせればいい。
(そうだ、もう関係ない。関わっちゃいけない)
必死にそう言い聞かせた。
玄関扉の前まで来た。リオンはそこで、足を止めざるを得なかった。
「ずいぶん卑屈な逃げ方をするものだな」
扉にもたれかかり、両腕を組んだ誰かが、薄闇の中でリオンを待ち構えていた。
「逃げるなら堂々と逃げればいいものを」
「悪い?」
リオンは投げやりに答えた。
「僕は小心者なんだ。朝になって、明るくなったところで、フィオの顔なんか見れない」
「自分で選んだ答えだろうが。そのうえで批難を浴びるのなら本望じゃないのか」
「意地の悪いこと言うよね教授。もうほっといてくれないかな」
リオンは薄闇に溶け込む彼を、きっと睨んだ。
「なぜ目をそらす。ここで逃げても、いずれお前は自身の出自のために、望まぬものを背負い込むことになるぞ」
クロードの表情は見えない。声は抑えてあるが、おそらく怒っている。心の底から。
「意外だね、教授が僕のこと、そんなに気にかけてるとは思わなかった」
クロードが怒っていようが、別に構わなかった。こっちにも主張はある。
「本当のところはどうなの? 気にしているのはフィオだけでしょ。大事な弟子だもん、当然だよね」
どうしてこんなことを口に出したのか、リオンは自分でもよく理解していなかった。
気持ちが荒んでいる自覚はある。しかし、リオンは本来、私的理由で他人に八つ当たりするような性格ではない。なにが自分の心をこのように荒ませているのか。それはリオンにも解からなかった。
ただ、ここまで溜まってきたものを、全て吐き出したかったことだけは確かだ。
苛ついた舌打ちが聞こえる。
「物言いまで卑屈になったな。それがお前の性根だというなら、俺の目は節穴だったということか」
「なんとでも言えば」
ほんの数秒、沈黙が流れる。
先に口を開いたのはクロードだった。
「フィオから聞いた。エーヴェルシータを理解しているらしいな」
リオンは唇を噛む。
「お前はフィオとは違う性質のカドモン・ティタニールだろうな。そんな奴が実在すると知れたら、放ってはおかれまい。協会も〈アーリマン〉もな」
「そんな脅すような言い方やめてよ!」
「脅しではない。事実だ」
「嫌なんだよ。カドモンだとか〈アーリム〉だとか……、なんでそんなものに関わらなくちゃいけないんだ。僕はただの警備隊見習い。どうしてそのままじゃいられないんだよ」
「なぜ、そうまでして拒む」
「怖いからに決まってるだろ。僕なんかがまともに戦えるはずないじゃないか」
リオンは苛々を押し殺して、クロードを睨んだ。
「つくづくお前は馬鹿だな。そうやって言い訳ばかりぐだぐだ並べ立てて目を背け続ければ、いつか問題が消えてなくなってくれるとでも思うのか」
クロードの口調が、少し荒くなる。
「『まともに戦えるはずがない』だと? 思い上がるな阿呆。“戦える”かではなく“戦う”しかないんだ。お前だけの話ではない」
「教授は強いから、そんなことが言えるんだよ」
強い者には弱い者の気持ちは解かるまい。クロードは強い。だから戦うことに躊躇がないのだ。誰を相手にしていようとも、常に堂々としている。自分の力に自身があるからだ。自分とはまるで違う。
そんな人間と、一緒にしないでほしい。
さんざん減らず口を叩いたので、そろそろクロードの堪忍袋の緒が切れるのではないか。
リオンは殴られることを覚悟した。が、拳は飛んでこなかった。
「強い人間など、この世に一人もいない」
拳骨の代わりに、諭すような言葉が投げかけられる。
「いるのは、弱さとの付き合い方を知っている奴だけだ」
扉が開いた。昇ったばかりの太陽の暖かい光が、秋の冷たい朝風と共に、室内に流れ込む。
「好きなようにしろ。もう止めはせん」
外光を受け、ようやくクロードの姿がまともに見えた。と、そう思った時には、彼はリオンの横を通り過ぎようとしていた。
すれ違う一瞬、
「カルシ=ヌス、ヴェルダン・グィ=パルム」
彼はそう言った。
クロードが遠ざかっていく足音を背中で聞く。リオンはしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがてのろのろと歩き始めた。
早朝のセプトゥスの町の中。
まだ目覚めない都会は、昼間の喧騒からは想像つかないほど、ひっそりと静まり返っていた。
朝の早い卸業者やパン屋、ミルクの配達人の姿はちらほらあるが、俯いたまま歩くリオンの視界には入らなかった。
一歩一歩前に出す足が重い。本当に重いのは足ではなく、心だ。
仲間に背を向けたこと。
一人の少女に重責を背負わせたまま、そこから目をそらしたこと。
不器用だが、自分なりの気遣いを見せてくれた男の気持ちを無視したこと。
自分の弱さを思い知らされたこと。
何もかもが重かった。
その重さを選んだのは自分だ。こうなると分かっていて、それでも答えを出したのだ。
“もう二度と”、何も失いたくない。奪われたくない。
“だから今度は”、自分から捨てるのだ。
覚悟は決めていた。全て承知の上だ。
それなのに、とめどなく涙があふれてくるのはなぜだろう。
――カルシ=ヌス、ヴェルダン・グィ=パルム
『布を被せても死臭は消えない』
どんなに隠しても、見ないように目を背けても、そこにある事実は消えないし変えられない。
クロードはあえてエーヴェルシータで言った。
それが余計に、リオンの心に深く突き刺さるのだった。




