傷痕
〈セレンクメル〉へは、夜のうちに向かうことになった。
日中では、マリエットを置いて行かざるを得ない。リオンやフィオがいなくなったと分かったら、マリエットは寂しがるだろう。
マリエットを客室で寝かしつけ、彼女が眠っている夜間に〈セレンクメル〉へ赴き、〈扉の石〉を回収して、夜明けまでに戻る、という段取りである。
リオンは、自分が残ることを提案したが、クロードに即刻却下された。
「お前は、ベイルゼン警備隊隊長の名代として、事の顛末を見届ける義務があるのだろうが。その義務を果たせ」
――逃がすものか。
暗にそう言われている気がして、リオンは密かにため息をついた。
夜が更け、行動開始の時刻になるまでは、各々自由行動をとってよいことになった。
「〈セレンクメル〉に行く前に、腹ごしらえをしておきましょう。夕食の準備をさせておきますから、日暮れの鐘が鳴ったら、食堂に行ってくださいね」
ヨナスはそう言い残し、他の仕事のために別の部屋に行ってしまった。
クロードはひと眠りすると言って、ゼファーと共に休憩室に篭った。
リオンとフィオは、託児室のマリエットの様子を見に行った。
マリエットはすっかり他の子供達と仲良くなっていた。声を上げて笑い、はしゃぎ回っている。
「おかえりなさい!」
リオンとフィオの訪れに気付いたマリエットが、走って飛びついてきた。
「友達が出来たねマリエット」
リオンが頭を撫でると、マリエットは嬉しそうな笑顔を見せた。
「もっとここで遊んでていい?」
「ああ、いいよ。食事の時間になったら呼びに来るからね」
「うん!」
マリエットは大きく頷き、子供達の輪の中に戻っていった。
フィオと二人だけになったリオンは、なんとなく気まずい思いをしつつ、
「これからどうする?」
彼女に訊いてみた。
フィオはやや沈黙した後、
「少し歩きませんか?」
リオンを促し、歩き出した。
フィオに連れられてやってきたのは、セプトゥス支部の庭園だった。
建物の東側に面した円形の庭園だ。花壇や植木は、中央の噴水の周りに、円を描くようにしつらえてある。花を咲かせているのは数種類の薔薇で、庭園中を芳しい香りで満たしている。
「ここだけは庭師を雇って、いつも手入れをしてもらっているそうです」
フィオは薄いピンクの薔薇の花弁に、そっと手を触れた。
「領首館だった時代から、この庭園は評判だったと聞いています」
庭園には白い石畳の舗道が敷かれていて、二人は横に並んでゆっくりと歩いた。
美しい庭を、フィオと散歩している。状況が違えば、このまたとない機会を存分に楽しむことが出来たのに。
「あの」
ためらいがちに口を開くフィオを見て、リオンは「来た」と思った。
「教授の言っていた事は、気にしないで下さい」
「でも」
――お前だけだと思うのか。
痛い所を突いたクロードの言葉が、脳裏に蘇る。
「フィオ、訊いてもいいかな」
「はい」
「君は、どうして受け入れられたの? その、カドモン・ティタニールの運命を。カドモンの末裔として、敵と戦ってくれと言われて、怖くなかった?」
フィオはしばらく黙り込んだ。その横顔は固い。
やがてフィオは、重たげに口を開いた。
「私には選択肢がなかったんです。運命を受け入れるか、拒むか。その選択権は私にはなかった」
「どういうこと?」
「私にカドモン・ティタニールのシグナがあると知った〈アーリマン〉が、私を両親から引き離して、自分達の拠点に連れて行ったからです」
フィオが〈アーリマン〉の手に落ちたのは、彼女が七歳の頃だった。
連れ去られた時の記憶はほとんどない。襲ってきた〈アーリマン〉が、フィオの両親をどうしたのか、どんな手段でフィオを親から引き離したのか、覚えていない。
そもそも、どうやって〈アーリマン〉がフィオの存在を知ったのか、それすらも明らかになっていなかった。
どうあれ、〈アーリマン〉はフィオを自分達のアジトに連れ去り、彼女に洗脳教育を施そうと試みたのであった。
――全てのカドモン・ティタニールと全ての生命は、〈アーリム〉に仕えるものである。
――〈アーリム〉の敵は〈アーリマン〉の敵。敵は即刻排除せよ。
――世は〈アーリム〉によって統一されるべきである。
〈アーリマン〉は〈碧の眷属〉であるフィオを洗脳し、〈銀の眷属〉に仕上げようとしたのだ。
そして恐ろしいことに、再び〈降臨の儀〉を実行した時、外次元から呼び起こした〈アーリム〉の魂を、彼女の身体に降ろそうと企てていたのである。
たった七歳の少女に、抵抗出来る能力はなかった。フィオはその後三年間、〈アーリマン〉に拘束され続けたのだった。
彼女を救い出したのは〈サフィール=フェーゼ〉であった。〈アーリマン〉の拠点を制圧するために訪れた際、偶然フィオを発見し、救出したのである。
その時のフィオは、洗脳教育が原因で、精神状態が極めて不安定だった。大人を信用できず、誰に対しても心を開かなかった。
救出されたあと彼女は、クロードに引き取られた。不安定な精神が均衡を取り戻すまでに一年。その間、クロードとその妻は、献身的に彼女を癒してくれたのである。
フィオはクロードに弟子入りし、〈サフィール=フェーゼ〉の一員となり、以来今日までずっと、“仲間”を捜し続けた。
「自分がカドモン・ティタニールだと、無理矢理教え込まされた私には、逃げ道はなかった。フェーゼの人達に……教授に助けてもらえなかったら、今頃〈銀の眷属〉として、フェーゼや協会と敵対していたかもしれません」
フィオの口調は静かだった。幼い頃の恐ろしい記憶に嫌悪するでも、〈アーリマン〉に対する憎しみを滲ませるでもない。それは、全ての事実を受け入れ、向き合う覚悟を決めた者の静けさだ。
「いえ、それよりも先に、用済みとして殺されていたかもしれない」
「用済みって……」
「彼らは私に、デウムの力を身につけさせたかったんです。かつてのカドモンのように、デウムを操る能力を」
「末裔なら、それが出来るはずだっていう理屈?」
「ええ。でもそれは間違いなんです。カドモンの末裔だからといって、その誰しもがデウム能力を授かっているわけじゃない。私もそうです。教授が言うには、一般の魔導師以上は秘めているはずだそうですが、私にはデウムを使う能力はないんです」
フィオの説明によると、現在使われている魔法とカドモンの魔法は、全く別のものであるそうだ。
カドモン・ティタニールはデウム魔法を行使する際、〈エーヴェルシータ〉という独自の古代魔法言語を用いる。
〈エーヴェルシータ〉はカドモンが創り上げた言語で、古失語とも呼ばれている。言葉そのものが魔法発動の媒体となり、これを詠唱することによって、彼らはデウムを意のままに出来たのだ。強力な魔力と才に恵まれた使い手ならば、多少の術なら呪文詠唱なしでも魔法を発動させることが可能だったという。
対して現代の魔法は、通称〈カーリー〉と呼ばれる。カーリー魔法は、エーヴェルシータを別の言葉に置き換えて体系化した、いわゆる「人類の魔法」である。このカーリー魔法の体系化を成し遂げたのが、〈魔王〉オル・ダーラスだ。
エーヴェルシータから変換して定められた新しい魔法言語〈ルシエナータ〉を、詠唱することによって魔法を行使する。この点はデウム魔法と同様だ。
違うのは、ルシエナータ自体は魔法の媒体とはならないことと、その力の源だ。
ルシエナータ詠唱による魔法の魔力の源は〈環境魔力〉であり、これはデウムの産物である。ルーンとデウムでは質が違うのだ。
例えばカーリー魔法の呪文を、エーヴェルシータで唱えるとする。言語そのものが媒体であるエーヴェルシータという“フィルター”を通じて発動したカーリー魔法は、通常の何倍もの威力を発揮する。しかし、その魔力の源は、デウムではなくルーンだ。
理論上可能な技ではあるが、これは相当な技術と、エーヴェルシータの威力に耐えうる魔力を兼ね備えた使い手でなければ、成しえない高度な技である。
逆にデウム魔法の呪文を、ルシエナータで唱えようとすると、デウムという強大すぎる力に魔法言語自体が耐え切れず、呪文が崩壊する。
ルシエナータは、エーヴェルシータを超えられないのである。
「デウムのこともエーヴェルシータのことも、全て〈アーリマン〉から教え込まれました。でも、私がデウム能力に恵まれることはなかったんです」
フィオは、すっと目線を上げた。彼女の視線の先に、澄んだ碧空が広がっている。
「気がつけば私は、〈アーリマン〉と協会との戦いに関わらなくてはならない立場になっていました。両親の行方も分かってなくて、行き場もなかった」
どんな言葉をかけていいのか、リオンは戸惑った。幼い頃に人生を狂わされた少女に対して、当たり前のように安穏とした日々を享受し続けた自分に、一体何が言えるというのか。
胸の奥に何かをしまい込んで、静かに少女は言葉を続ける。
「〈アーリマン〉に対して、恨みとか、復讐とか、そういう気持ちが全く無いとは言いません。でもそれ以上に、『悲劇を繰り返してはいけない』という思いの方が強いんです。この考え方が“カドモンの末裔だからこそ”起こるものだとしても、私はそれでいいと思います」
「君は強いね」
「そんなことないですよ。教授やフェーゼのみんなが守ってくれるからです。私がカドモンだという事実も、フェーゼだけの秘密にしてくれていますし」
「協会の偉い人達は知らないの?」
「教授が言うには、中枢部に知られると、私を〈碧の眷属〉のシンボルに仕立て上げて、その威光を都合のいいように利用するから、だそうです」
フィオの言葉が途切れ、二人の間に沈黙が流れた。
並んで歩く少女の存在を意識しながら、リオンは鬱々と考え込んだ。
彼女が自分に協力を求めている気持ちは、痛いほど解かる。だがそれは、“カドモン・ティタニールの末裔だから”だ。決してリオン・グリュアースそのものの協力が必要なわけではない。
考え方が歪んでいるという自覚はある。しかし、その思いは拭えない。
(君や教授は、僕がカドモンでなくても、そんな風に『一緒に戦ってほしい』と言ってくれたかい?)
決して口に出すべきではない言葉だ。けれど、どうしてもそう考えてしまう。
いびつな思考を振り払うために、リオンは違う言葉を探した。
「その、それじゃあ、君もあの夢を見た?」
「夢?」
「うん。同じ夢を何度も見たりしなかった?」
リオンは例の夢の内容を、フィオに説明した。
高い空と厚い雲。眩しいほどに白い砂の大地に、わずかに満ちた水。その水が天を映し出して、まるで鏡のようにみえる、夢の中の不思議な世界。
「オルトゥトゥムですね」
「オルトゥトゥム?」
「エーヴェルシータで、『全てが生まれる場所』という意味です。そこは全てが生まれ、全てが還る場所。あらゆるものはオルトゥトゥムから誕生し、いずれそこに還っていく。そんな言い伝えから、オルトゥトゥムとは、外次元の一部ではないかと言われています」
フィオは小首を傾げた。
「でも、どうしてそんな夢を? 私は一度も見たことありませんよ」
「え、ない?」
「はい。その夢がどうかしましたか?」
リオンは話を続けるべきか躊躇した。が、一度始めてしまった話題を、無理に変えることはできなかった。
「声がするんだよ。いつも同じ事を僕に言ってくる」
「誰がですか」
「誰もいない。声だけ。不思議な声で、『解き放て』って僕に……」
「待って」
フィオはリオンの服の袖を掴み、歩みを止めた。
「今、なんて?」
フィオの表情は強張っている。
「え?」
「今の言葉、もう一度言って下さい」
いつになく緊迫した様子のフィオに、リオンの心臓の鼓動が高まる。
「な、なに」
「いいから言って」
「ああ……、その、だから『解き放て(エクファ=フェクティ=オルゲ)』って……」
フィオは、袖を掴んでいた手を離し、じっとリオンの目をみつめた。
「その言葉、どこで覚えたんですか」
「その言葉?」
「リオン、今あなたが口にしたのが、何の言葉か解かってますか?」
返す言葉が見つからず、リオンは絶句した。
この世には、五つの言語がある。四つの大陸それぞれで使われている“大陸公用語”と、全世界共通の“公用語”だ。
リオン達は西のフォルドニア大陸人なので、使う言葉は、西大陸語と共用語の二言語である。共通語さえ話せれば、どこへ行っても通用するので、わざわざ他の大陸語を学んだりはしない。
リオンはフィオに指摘されるまで、夢の中の言葉が、西のものでも共用語でもないことに気づかなかった。
「『エクファ=フェクティ=オルゲ』、エーヴェルシータで『解放せよ』という意味です」
リオンは頷くこともままならなかった。
「エーヴェルシータは、ごく限られた人々にしか習得を許されていない言葉です。一般の人達には、その存在さえ知られていません。私は〈アーリマン〉に教え込まされ、エーヴェルシータを読み書き出来るようになりました。あなたは?」
「ぼ、僕は……何も」
夢の中の言葉は、ごく自然に、いつも聞いている大陸語のように、耳に入ってきた。
その言葉が、誰にも知られていない古い言語だとは、考えもしなかった。
「あなたは」
風が吹いた。いつの間にか太陽は、西の地平線に沈もうとしていた。
「私とは違うのかもしれません」
日暮れの鐘の音が、朱色と藍色のコントラストを織る空に響いた。




