竜の森
焦げ臭い匂いが鼻を刺激し、リオンは固く閉じていた両目を、そろそろと開いた。
肌に触れる土と草の匂いで、リオンは自分が倒れていることを認識した。ゆっくりと上半身を起こして、あたりを見回す。
視野を埋めるのは鮮やかな木々の緑。あちらこちらにぽつりぽつりと咲く小さな花。苔むした岩の上を這うちいさなトカゲの姿。
そして松の大木に寄りかかった、大破してしまったビークル。焦げ臭い匂いの元はビークルであった。機体から湯気のように煙が立ち昇っている。
(僕達……どうなったんだろう)
正体不明の黒い群れにゼファーの飛行を妨害され、ビークルに乗ったまま、もろとも森に突っ込んでいったはずだ。
その割には、身体のどこも痛くない。飛行速度といい、ビークルの破損具合といい、全身打撲していてもおかしくはない状況なのだが。
ひょっとして、実は大変な怪我を負っているのに、感覚が麻痺してしまっているだけなのだろうか。そう思ったリオンは、腕を上げたりその場で足踏みしたりと、身体を動かしてみた。正常だった。
「リオン、大丈夫?」
声をかけられ、リオンはそちらに顔を向けた。心配そうな表情のフィオがそこにいた。フィオは、多少服が土で汚れているが、彼女もまた無傷のようだ。
「うん、平気。君は?」
「私も大丈夫です」
フィオの綺麗な黒髪が乱れている。あの黒い群れに引っ張り回されたからだろう。
「僕ら、どうなったの?」
「ビークルから投げ出された私達を、ゼファーがかばってくれたんです」
言われてリオンは、自分が、何か温かいものに背を預けていることに気がついた。温かさの正体はダークグレイの毛皮、すなわちゼファーの腹であった。
「よう、起きたな」
明るく快活な声で、ゼファーが言った。ドラゴンは親猫のように、ゆったりと横這いになっている。
リオンはゼファーをよく見るために、立ち上がって、彼から少し離れた。
全体的な印象は、「獅子に似ている」というものだった。頭部には五つの角が生え、鬣は尾の先までつながっている。翼は背中で折りたたまれていた。
黒猫だった時の面影はない。だが、宝石のように輝く目は、変わらず深緑色である。
こんな勇壮な獣は、生まれて初めて見た。リオンは感嘆のため息をつきながら、ゼファーを隅々まで観察した。
「すごいやゼファー。本当に、ドラゴンなんだね」
「おうよ」
ゼファーは満足そうに喉を鳴らした。
「その顔その顔。やっぱ、そうやって驚いてもらわねえと、張り合いがねえよな。今まで隠しておいた甲斐があったぜ」
「そりゃ驚くよ。本物のドラゴンなんて、初めて見るんだよ?」
「だろうな」
「森林棲だって言ってたけど」
「ああ、俺の種属な」
「鱗を持たないドラゴンもいるって、本で読んだことはあったけど、本当だったんだね」
ゼファーの身体を覆っているのは、太くしなやかな体毛だ。魚や爬虫類のような鱗は、どこにも見当たらない。
「そりゃ水棲と天棲と火山棲の連中だ」
と、ゼファーは言う。
「ドラゴンにも色々あるんだぜ。俺みたいな森林棲や山岳棲、寒地棲は鱗が無えな。地棲の連中にゃ、鱗も毛も無えが、厚くて丈夫な皮膚がある」
「地棲っていうと?」
「砂漠とか草原とか、土ん中にいる奴らさ。ドラゴンに興味があるなら、そのうち教えてやってもいいぜ」
「うん、ぜひ!」
ドラゴン直々に教えてもらえるとは夢のようだ。リオンは張り切って頷いた。
と、そこで、黒衣の魔導師の姿がないことに気づき、リオンはあたりを見回した。
「そういえば、教授は?」
「周辺を見回ってくるそうです」
フィオが短く答え、ゼファーはうんざりしたようにぼやいた。
「まったく。うろうろすんなって言ったばっかじゃねぇかよ。全然話聞いちゃいねぇ」
ゼファーは不満気に喉を鳴らし、前足に顎を乗せて寝そべった。
フィオはくしゃくしゃになってしまった髪を撫で、
「ああ、髪が……結び直さなきゃ」
結い紐をほどいた。腰まで届く豊かな黒髪が、さらりと流れ落ちる。艶やかな濡羽色の髪に、白い肌が際立って見える。いつもより大人びた雰囲気を醸し出す彼女に、リオンは思わずドキリとした。
絡まった癖をとるため、フィオは手櫛で髪を梳く。その手が、ふと止まった。
「何か引っかかってる」
フィオは髪をまさぐり、引っかかっている何かを取り除いた。
「キャーッ!」
突然悲鳴を上げたフィオは、手にしていたものを放り投げ、リオンにしがみついた。
「え、何、どうしたの?」
女の子に抱きつかれたリオンは、必死で心臓の早鐘を押さえ込んだ。密着した瞬間、フィオの髪から花のようないい香りがした。
「あ、あれ……」
少女が草叢を指す。その華奢な手が小刻みに震えている。
緑の草の上に、黒いものが蠢いていた。掌に乗るほどの大きさで、胴は蜘蛛、八つの足は毛むくじゃらの人間の手、一対のコウモリの羽を生やした、なんとも気味の悪い生き物であった。
「うえ、いつ見ても気持ち悪ぃ。食う気にもならねぇや」
ぐうっと首をもたげ、黒い生き物を覗き込み、ドラゴンは鼻筋にしわを寄せた。
「ゼファー、こいつが何か知ってる? ていうか食べるの? こういうの」
「食える奴は食うよ。こいつはトラッシュピーデルだな。さっき俺達にまとわりついてたの、こいつらだ」
「これもバーラム?」
「ああ」
ゼファーは鋭い爪でトラッシュピーデルをつまみ、造作もなく潰した。
リオンは、顔を伏せてトラッシュピーデルを見ないようにしているフィオの肩に、手を置いた。
「フィオ、もういいよ。ゼファーがやっつけてくれた」
顔を上げたフィオと目が合う。怯えた菫色の瞳がリオンの目線と絡み合う。
「ご、ごめんなさい!」
慌ててリオンから離れたフィオは、赤くなった頬に両手をあてた。
「すみません、蜘蛛は嫌いなんです」
「いや、謝る必要は……」
リオンは自分の頬も微熱を帯びていることに気づき、手であおいだ。
まだかすかに、胸がドキドキしている。なんとも言えない余韻に浸っていると、
「色気づくなよ室内犬野郎~」
呪詛のような声と共に、背後から何かに頭を挟まれ、ギリギリと締め付けられた。
「俺の弟子を口説こうなど、お前には十年早いんだよ!」
どこからともなく現れたクロードは、リオンの頭を締めている。
「痛い、痛い教授! 口説いたりなんかしてないよ!」
「そうですよ教授! 私が悪いんです、リオンを離して下さい!」
フィオに咎められ、クロードはようやくリオンを解放した。乱暴にリオンを突き飛ばし、ふんと鼻を鳴らす。
「ちょっといなくなるとすぐいちゃつき始める。これだから若い奴らは目が離せんのだ」
「お前が言うな」
すかさずゼファーの一言が入ったが、クロードは無視した。
「お前もお前だフィオ。何を無防備に胸に飛び込んだりしている。相手が勘違いするだろうが」
「リオンはそんな人じゃないと思います」
きっぱりとクロードの言いがかりをはねつけるフィオ。その信頼が嬉しいリオンだが、クロードがものすごい目つきで、しかも間近で睨むので、緩みそうになる口元をしっかりと締めた。
「それにしても、このビークルどうする気?」
クロードが怖いので、リオンは話題の流れを変えた。
ビークルは、まだ煙をくゆらせている。もはや使いものにはなるまい。
「どうするもこうするも、ここに置いていくに決まっているだろうが」
自分が原因でこうなったというのに、クロードはなぜか胸を張って答えた。
「勝手に乗り回して、こんな風にしちゃって。持ち主に申し訳ないよ。いきなりビークルがなくなってさ」
「そいつにとっては人生のサプライズだな」
「どう考えてもアクシデントだよ」
「お前ら、ちょっと静かにしろ」
ゼファーが、抑えた声でたしなめる。彼は鬣からわずかに覗く耳をそばだて、中空を見つめていた。
「……やっぱりな」
「なにかいるのか」
と、クロード。
「ああ。この森の主がいる。ドラゴンだ。ここはドラゴンの縄張りだったんだ」
「本当か?」
「森に入った瞬間に、少し感じ取れたんだ。だからうろつくなって言ったんだぜ。ドラゴンの縄張りに勝手に侵入したら、争いになったって文句は言えねぇぞ」
ゼファーの深緑の目が、リオン達を見下ろした。
「しょうがねぇ。こっちには縄張り争いする気はないんだって、挨拶しに行かなきゃな。敵かもしれねぇと思われたままだと、たぶん一生森から出られねぇ」




