クラト・スタンウッド
神経質そうだ、というのが、その男に対するリオンの第一印象であった。
歳は四十代に差しかかったくらいだろう。青白い顔に銀縁の眼鏡をかけ、髪はきっちりと後ろに撫でつけてあり、少しも乱れていない。
細身の長身は、糊のきいた魔導師の衣装――ローブとコートを掛け合わせたような、裾の長い服――ローヴェレットに包まれている。
黒い靴は、塵を寄せつけそうにないほど磨かれていて、わずかに光を反射している。清潔であった。清潔すぎるほどだ。
男は、体温を感じさせない冷ややかな双眸で、じっとこちらを見ている。
「私だと気づいていたようだな、ハーン」
薄い唇が開かれ、抑揚のない低い声が発せられた。
名を呼ばれたクロードは鼻を鳴らし、蔑みの目で彼を見返す。
「バーラムを操作するなどという悪趣味、お前以外に考えつかんよ。クラト・スタンウッド」
「相変わらず、目上に対する口の利き方がなっていないな。少しは〈魔法学府(スコル=マギス)〉の先輩への敬意を持つ気にはならないのか」
嘆かわしいとばかりに首を横に振る男――クラト・スタンウッドを、クロードは更に嘲笑った。
「お前を先輩だと思ったことはない。敬意を払えと言うなら、そうだな、その変質的なまでのバーラムへの執着心のみ認めてやろう。動機はともかく、見事に禁忌の技をものにしているのだからな」
「ほう。アルジオ=ディエーダの災厄にして魔法学府の汚点、天下の“破壊魔”クロード=クラウディオ・ハーンが、この私を褒めるか」
「けなしているのだ馬鹿者。お前など褒めたところで、俺の得になるものかよ」
「たしかに」
スタンウッドは怒ることなく、愉快そうに、ふふ、と陰湿に笑った。
フィオに支えられながら立ち上がったリオンは、スタンウッドの纏う異様な空気に、嫌悪感を抱いた。どんなに苦手な性格でも、誰かに対してこれほど嫌な印象を持ったことはなかったというのに。
全ての人間同士が、気が合い、打ち解けられるわけではない。合う人とは合うし、合わない人は合わないのだ。リオンはそういう姿勢で他人と接するので、苦手な相手を受け入れられずとも、否定はしない。
だがこの男は違う。
現れたその瞬間から、リオンの心が、魂が、クラト・スタンウッドの存在を拒絶するのだ。
どうしてそこまで拒むのか、自分でも分からない。生理的にだめだとか、その程度の感覚ではなかった。
初めて抱く黒々しい感情に、自分のこととはいえ、リオンは戸惑わずにはいられなかった。
「ところでハーン。君の後ろにいるのは、噂の弟子かな」
スタンウッドの視線が、フィオを刺す。
「ハーンの弟子は、師の破壊的思想を受け継ぐ“特攻少女”などと呼ばれているそうだから、いったいどんな娘かと思えば、なんとなんと、予想に反する美しさではないか」
フィオが彼の目に触れるのは我慢ならない。リオンは無意識のうちに、フィオを背中に隠した。
スタンウッドの片眉が、神経質に吊りあがった。急に前に出てきたリオンを、汚れた野良犬だとでも言うような目つきで睨む。
「二人目の弟子かね、ハーン。なんとも物好きな少年だ」
「腐った目で俺の連れを見るな。殺すぞ」
「独占欲も相変わらずか。やれやれ。こうも昔と変わらぬ人間がいるとは」
「スタンウッド。俺には、お前と久し振りの会話を楽しむような、気持ち悪い趣味はない。目的を言え。お前の背後に誰がいる。誰の企みで、十五年前の“あれ”を再現しようとしているのだ」
「ほう、さすがに耳の早い。こちらの目的が分かっているのか」
「協会が何かを隠すために、十五年前、モグリの魔法屋に特殊な魔法鍵を作らせた。十五年前、協会。その二つの符丁だけで、何を示しているのかは充分理解できる」
スタンウッドは納得したように頷いた。
「それもそうだ。特に君なら尚更だな」
彼の口元に浮かぶ薄い笑みは、嫌味で加虐的だ。
「では話は早い。鍵をよこしたまえ」
スタンウッドの、細く筋張った右手が差し伸べられる。
「ベイルゼンでは、まさか君の邪魔が入るとは思わなかった。だが、今回はそうはいかぬ」
伸びた手先が、奇妙な動きを見せる。次の瞬間、彼の手に、一振りの木の杖が出現した。
スタンウッドが杖の先端で、地面を突いた。
その瞬間、リオンの背筋に冷たいものがはしった。
敵を前にして、毛を逆立てていたゼファーが声を張り上げた。
「囲まれたぞ!」
リオン達の周辺の地面が、ボコボコと音を立てて盛り上がり、あちこちから蛇のようなものが現れた。
正体は、人間の胴体ほども大きさのあるツタであった。地面の中から生え、無数のイボがあるツタは、触手のようにうねうねと蠢きながら、リオン達を取り囲んだ。
「フィンゲルモーラか。まあまあだな」
クロードはつまらなそうに言った。
「ハーン、君にこの程度のバーラムが退けられないとは、私も思っていないよ。だが、あっさり殺してしまっては、せっかく久し振りに会ったというのに興醒めではないか。だから、少し遊んでくれたまえ」
スタンウッドがリオン達に向け、杖を振り下ろす。それを合図に、フィンゲルモーラの攻撃が始まった。
フィンゲルモーラのイボから、ドロリとした赤い液体が発射された。
リオンはフィオと共に、慌ててそれをかわす。地面に付着した赤い液は、土を焦がし、臭い匂いを立ち昇らせた。
「リオン、赤い液は酸です。触れちゃだめ!」
フィオは赤い酸を避けつつ、腕輪を外した。腕輪は彼女の手の中で、白く細い杖に変化した。
クロードは最小限の足運びで、平然と酸を次々と避けている。ゼファーはいつの間にか、主の肩に飛び乗っていた。
リオンもどうにか酸をかわした。しかし、戦い慣れた二人に比べると、動きが大雑把だ。
(今度こそ、ちゃんとしないと!)
たしかに自分は新人の警備隊員で、実戦経験はほとんどない。しかし、この状況で、これ以上無様な姿は見せられない。リオンにだって、そのくらいのプライドはあった。戦うのだ。兄のように、勇気を奮って。
腰の剣を抜き、フィンゲルモーラを見上げる。
「こいつって弱点ないの?」
「たしか火に弱いはず」
言うなりフィオは、リオンの剣に手をかざし、素早く口を動かした。
「メルトネオ・フィルエ」
剣の刃に朱色の光が纏わりついた。光は刃に吸収され、刃そのものが朱色の光を放ち出す。仄かな温かさも感じられた。
「一時的な火の加護を付与しました。これで効果的に……」
フィオの言葉の途中で、フィンゲルモーラの触手が振り下ろされた。リオンとフィオは逆方向に離れ、これを辛くも回避した。
獲物をとらえ損ねたフィンゲルモーラが、勢い余って地面にめり込む。
リオンはすかさず、火の加護を受けた剣で、敵に斬りつけた。
剣がフィンゲルモーラの触手を切り裂く。切り口に炎が灯り、またたく間にバーラムを包み込んだ。
フィンゲルモーラの断末魔が、酸のイボから吐き出された。寒気のするような不快な叫びだ。
燃え尽きたバーラムは、地に倒れるより前に、灰になって消滅した。
「やった!」
初めての勝利に、リオンは顔をほころばせた。しかし、喜びを噛み締める間もなく、
「ぼさっとするな!」
叱り飛ばす声と共に、足を払われた。不意をつかれたリオンが横倒しになった次の瞬間、数秒前までリオンの頭があった位置に、酸の塊が飛んできた。土が酸に焼かれ、ぢゅっと音を立てる。
「一体倒したら、さっさと次に行け!」
肩にゼファーを乗せたクロードが怒鳴る。助けてくれたのはありがたいが、その手段が足払いとは乱暴すぎではないか。
だが、文句を言っている暇はない。リオンは理不尽さを飲み下し、急いで体勢を整え、剣を構えなおした。
「デュエルブ・ラ・メルブ!」
フィオが杖をかざして呪文を唱えた。バーラムの胴体に閃光がはしった刹那、内側から爆発し、炎上した。
クロードも攻撃を仕掛けようと、おもむろに片手を上げた。彼の口元には薄笑いが浮かんでいるが、その口から呪文が紡がれることはなかった。
掲げたクロードの掌の上に、鮮やかな翠光に輝く魔法の陣が出現した。陣の中心で何かが弾けるや否や、フィンゲルモーラの一体が爆炎に包まれた。炸裂する炎は、一体のみならず複数体を巻き込み、次々と爆発炎上させた。
クロードは呪文も唱えなかった一撃で、フィンゲルモーラの大半を滅ぼした。
(凄い!)
リオンは今初めてクロードの魔法を目の当たりにしたわけだが、鉄の自信を持つだけはある、と納得がいった。ただ一度放った魔法で、複数体の敵を倒しきるとは。しかも彼の様子を見ると、たいした労働は行っていないかのように、涼しい顔で立っている。
残るバーラムはあと二体。
その一体が、リオンに這い寄って来た。押しつぶそうと胴を持ち上げ、覆いかぶさってくる。
右か左に避けようとした。しかし迫ってくると同時に、扇状に酸が吐き出され、その策は封じられた。
とっさの判断で、リオンはフィンゲルモーラの真下に潜り込んだ。
フィンゲルモーラが倒れる。リオンはその下敷きになる寸前に、胴の下から抜け出た。
フィンゲルモーラの地面の生え際に、剣を突き立てる。その勢いでバランスを崩し、転倒した。
背後でけたたましい、バーラムの絶叫が響いた。炎の加護を受けた剣の力で、フィンゲルモーラが燃え上がったのだ。
二体目もどうにか倒せた。あとは一体のみだ。リオンは、どくどくと跳ねる心臓を落ち着かせるため、深呼吸しながら体勢を整えた。
最後のフィンゲルモーラが、奇妙な動きを見せた。柱のように直立したかと思うと、ぶるぶる震え始めたのだ。
「なんだあいつ」
クロードの肩の上のゼファーが呟く。
バーラムの胴が、風船のように膨らんだ。次の瞬間、胴の全てのイボから、一斉に酸の液が発射された。それもリオン達にではなく、空中に向けて。
酸の雨が、ハイメルの闇市に降り注ぐ。それは闇市を越え、表通りにまで及んだ。
町のあちこちから悲鳴があがる。突然降ってきた酸が、人々に混乱を与えている。
忌々しげに舌打ちしたクロードは、酸の雨を降らせた最後の一体を、爆炎一発で倒した。
「教授、ここにいては他のみなさんを巻き込んでしまいます!」
杖を握りしめるフィオは、青褪めた顔で師匠を見上げた。
「分かっている! 町の外に出るぞ!」
「スタンウッドがいねぇぞ!」
ゼファーの指摘どおり、いつの間にかクラト・スタンウッドの姿がない。
「あのカビ男め。高みの見物の決め込むつもりか」
「ともかく急いで町を離れましょう! いつ次のバーラムを差し向けられるか分かりません!」
フィオの懸念には一理ある。リオン達は一目散に闇市を走り抜けた。
闇市の出口では、一人の男が待ち構えていた。クロードが頭突きで昏倒させたあの番人だ。
番人はリオン達の接近に気づいた。何よりも、クロードの存在に両目を吊り上らせた。
「お前! よくも……」
彼はおそらく、頭突きの恨みを晴らそうと考えていたのだろう。リオン達の行く手を阻まんと、両手両足を広げて踏ん張った。
「邪魔だ生ゴミ!」
暴言とともに繰りだされたクロードの、やたらと姿勢のいい飛び蹴りが、番人の胸板に見事めり込んだ。気の毒な番人は、憎き黒衣の男に一矢を報いることも出来ず、再び転倒するはめになった。
いくら裏社会の住民とはいえ、番人に対して憐憫の情を禁じえないリオンは、去りながら心の中で「ごめんなさい、すいません」と謝罪した。