ハイメルの闇市
ハイメルの中心である表通りの商店街から、幾筋かの路地を抜け、観光客も地元の住民や商人の姿もない裏通り。
通りかかるのは脛に疵持つ者達ばかり。
その疵者達が一人また一人と、とある細い路地へと消えていく。
路地の入り口には、屈強な体格の男が一人、番人として立っている。男は、路地に入ろうとする者が見せる札のようなものを確認してから、通り抜けることを許していた。
あの札が、ヴェロニケの言っていた、闇市への“招待状”であろう。
リオン達は闇市への入り口の様子を、向かいの建物の陰から観察していた。札のない者は、何人たりとも通さないようだ。
さて、どうやって切り抜け、闇市に入るべきか。リオンは思考を巡らせた。
その時、クロードが建物の陰から出て行き、つかつかと番人の目の前まで歩いていった。
「あ、そうか、教授が魔法で眠らせるかどうかすればいいんだ」
リオンはぽんと手を打った。しかし使い魔は首を横に振る。
「そんな平和的な手段とる奴なら、俺達ゃ苦労しねぇんだよ」
ゼファーの言葉の意味はすぐに理解できた。
番人の目前に立ったクロードは、すかさず相手の胸ぐらを掴み、眉間に頭突きを喰らわせたのであった。
脳震盪を起こした番人は、ぐらりとよろめいて倒れ、そのまま動かなくなった。
クロードはリオン達に、「こっちに来い」と顎で示し、自分はさっさと闇市へと足を踏み入れたのだった。
フィオは困った顔で小さなため息をつき、
「行きましょうか」
と、リオンを促した。
「ねえフィオ、あの人魔導師だよね」
「ごめんなさい、言いたいことはわかりますから、言わないで下さい」
「うん、でもね、この番人の人が目を覚ましたら騒ぎになるんじゃないかと」
リオンのくるぶしのあたりに、ふわふわしたものが当たった。ゼファーが前足でつついたのだ。
「リオン、お前の健やかな精神が病まねぇように忠告しといてやるぜ。あの馬鹿の言動は、真正面から受け取るな」
ハイメルの闇市は、店の看板などが掲げられておらず、一見すると一般的な市街の路地裏と変わりがなかった。
しかし辺りに満ちる冷えた雰囲気は、実際に日が当たっていないから、というのが原因ではないだろう。
建物の軒下に座り込む者。二階の窓から見下ろす者。壁に寄りかかって睨みつける者。
闇市の住民らの鋭い目が、リオン達に注がれている。妙な行動を起こそうものなら、たちまち彼らに取り囲まれてしまうに違いない。
リオンは内心では縮み上がっていた。こんな空気の悪い場所は、一刻も早く去りたいものである。
が、リオンの希望とは裏腹に、クロード達はどんどん闇市の奥へと進んでいった。ゼファーは主に遅れまいと、その足元を駆け、フィオもまた躊躇せずに師匠のあとを追う。怖がっているのはリオンだけだった。
(しっかりしないと)
この旅で自分を変えられるかもしれない、と考えたのではなかったか。こんなことで心砕けてどうする。そう自分に言い聞かせ、気力を奮い起こそうとした。
せめてフィオの身だけでも守ろう。ここにはならず者が多いだろうから。
と、密かに決意した矢先。
いきなり腕を掴まれて引っ張られた。ぎょっとして振り向くと、そこには化粧の濃い女の顔があった。
「な、なんですか」
女が顔を近づける。おしろいと酒の匂いがした。
「ボクかわいいわね。おなか空いてない? おごってあげるわよ」
「い、いや結構です」
「遠慮しなくてもいいのよ。ちょっと遊ぶだけだから」
「あの、本当に……」
女を振り切れないでいると、救世主が現れた。フィオであった。
フィオは女の力強い手から、リオンの腕を解放すると、
「どうぞお構いなく」
凛とした態度で女をあしらった。
女はフィオを睨みつけると、舌打ちしてどこかへ去って行った。
「あ、ありがとう」
「いいえ。だめですよ、ああいう時ははっきり言わないと」
「う、うん、そうだね」
再び歩き出した時、今度はフィオが二人の男にからまれた。
男達はリオンを無視し、フィオを取り囲んだ。
これはまずい。リオンはフィオから男らを引き離そうとしたが、それより先に、男の一人が空中で一回転した。
何が起こったのか。フィオが男に投げ技を決めたのである。
大の男を投げ飛ばしたフィオは、残るもう一人を、叱るような目で見た。相棒を投げられた男は、「これ以上は何もしない」という意味を示すために両手を上げ、よろめきながら立ち上がった相棒と共に、その場をあとにした。
「だ、大丈夫? フィオ」
「ええ、なんとも」
フィオは本当に何事もなかったかのように平然としている。男を投げたことすらも忘れた、とでも言うように。
「投げ技、使えるんだね」
「はい。教授の勧めで体術を少し。魔導師は呪文を唱える時に、いくらかの隙が出来ます。その隙に攻撃されても従魔がいれば守ってもらえますが、いない場合は攻撃をかわしながら、呪文を完成させなくてはいけなくなります。そういう時のために、身体能力も高めておくべきだ、というのが教授の考えです」
「うん、ものすごく理にかなってるね。なんというか、魔導師っぽくないけど」
「そうでしょう? 協会の上の方々は、由緒正しい魔導師のあり方ではないと、魔導師の体術習得には反対されているそうですけど」
フィオはクスっと笑う。
リオンは何も出来ずに、ただおたおたしていただけの自分が、つくづく嫌になった。
道中のハプニングのせいで、クロードとは随分離れてしまった。慌てて追いついた時、彼はゼファーと共に、とある建物の扉の前に立っていた。
「お前達、どこで遊んでいたんだ! 早く来い!」
「別に遊んでたわけじゃ……」
リオンの弁解を聞くはずもなく、クロードは扉のドアノブに手をかけた。
「ここは?」
フィオは建物の外装を見回す。
「例のソルトって奴の店らしいぜ。さっき通りがかった奴に訊いた」
と、ゼファーが答えた。
キイ、と蝶番が軋む音を立て、扉が開いた。
建物の内部は薄暗かった。
古ぼけた棚や机が適当に設置されており、様々な品物が雑に置かれている。単なる倉庫か、引っ越した後のような、乱雑な状態だった。なんらかの“店”には、とても見えない。
奥にカウンターがあり、そこにうずくまるようにして座る、一人の男の姿があった。
彼はカウンターで新聞を読んでいる最中で、リオン達が店内に入室しても、一瞥をくれただけで、また新聞に目を落とした。
男はまだ若く、おそらくクロードとは、違っても一、二歳しか離れていないだろう。黒い長髪に、ビーズの連なった長い飾りを何本かぶら下げている。上着の袖はなく、あらわになった両腕は筋骨隆々で、刺青が施されていた。
「お前がソルトか」
クロードは単刀直入に尋ねた。
相手は新聞から顔を上げず、
「そうだよ」
と、認めた。
クロードはソルトから目を離さず、後方に片手を差し出した。察したリオンは、彼の手の上に鍵を置いた。ヴェロニケの工房を訪ねて以降、リオンが鍵を預かっていたのだ。
「この鍵は、お前が作ったものだな」
クロードは鍵をソルトに突きつける。
ヴェロニケの工房ではリオンに丸投げしたくせに、ここでは主導権を握るつもりらしい。
鍵を手にしたソルトは、じっくりと観察した。
「ああ、たしかに俺のだね。このマーク」
ソルトは、いかつい外見とは裏腹に、穏やかな口調で話した。
「で、用件は? あんたら見ない顔だけど、ハイメルの人間じゃないね? こんな掃き溜めみたいな場所に若い子とかわいい猫ちゃん連れてくるなんて、どうかしてるよ。売るつもりなら、良心的な買い手を紹介してやってもいいけど」
「あいにくとこいつらは俺のものだ。手を出したら消し炭にしてやる」
リオンには、俺のもの、というのが、「俺の下僕」にしか聞こえない。そもそも、弟子のフィオや従魔のゼファーはともかく、なぜ自分までが含まれるのか。
「この鍵が何の鍵で、誰の依頼でつくったものか答えろ」
クロードの高圧的な質問に、ソルトは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「強引だね。こう見えても一応客商売なんだ。顧客情報に触れるようなことは話せないよ」
新聞を脇に置くソルト。
クロードは“店内”を見回した。
「なるほど、大した店だ。品揃えが興味深い。あれはベギルデーだな。煎じて飲めば、一瞬にして効き目があらわれる“クスリ”だ。そっちの隅にあるのは一角獣の角か? 一角獣類は保護生物のはずだがな。いくらで仕入れた? 三万エルか? で、これは〈アマーブレの粉雪〉。振りかけるだけで命を奪う」
クロードは、カウンターに無造作に置かれていた小瓶を摘み上げた。その表情は、小憎らしいまでに勝ち誇っている。
「全て非認可の違反品だ。お前、モグリの魔法屋だろう? 俺としては良いセンスだと思うが、当局の調査が入れば、間違いなく検挙されるな」
「ひょっとして恐喝しているつもりかい? このハイメルの闇市の人間を」
ソルトの目が冷ややかに細められる。空気が一瞬にして張り詰めた。
「いいさ、家宅捜索でも何でもすればいい。ただし、闇市の結束力を甘く見ちゃいけないよ。どこか一軒だけでもガサ入れがあれば、市全体が黙っちゃいない。ハイメルの闇市と言えば、国内じゃちょっとした地位を得ている。もちろん裏の、だけどね。それでも敵に回す気概が、あんたにあるかい?」
クロードは盛大に鼻で嗤った。
「恐喝には恐喝か。だが、まったく無駄だな。カスの如きお前達など相手にならん。ガサ入れするなら、闇市全体を捜査対象にしてやる。出来るわけがないと思うか? 俺がやると言ったらやるんだよ。つまらん手間をかけたくないから、交渉しているのだ。これを見て納得したなら、とっとと吐け」
これのどこが“交渉”なのか。色々と指摘したい箇所が多くて困るが、それを口に出すほどリオンは愚かではない。ここは黙って見守るしかないのだ。
クロードはコートの懐からアルジオ=ディエーダのメダルを出し、文字通り、ソルトの鼻に突きつけた。
ソルトは鬱陶しげにメダルを払い、やれやれとばかりに肩をすくめた。
「あんたも面倒な人だね。協会の人間だったら、そう言えばいいのに」
「なんだ。権力には逆らわん主義か」
「そうじゃないさ。むしろ権力階級にこそ、俺らのお得意さんが多いんだぜ? ま、あんたなら分かるだろうけど。ただね」
「ただ、なんだ」
「その鍵について、協会の人間が尋ねに来るのも、妙なものだと思ったのさ」
「どういう意味だ」
「鍵の依頼人はあんたのお仲間、つまりアルジオ=ディエーダの魔導師だよ」
「なに?」
クロードの眉間にしわが寄る。リオンはフィオと顔を見合わせた。
「さすがに依頼者の名前までは明かせないけどね。ある日何人かの魔導師がやってきて、『極秘に魔法鍵を作ってくれ』って言うわけさ。俺はその当時、まだ駆け出しだったけど、腕には自信があってね。引き受けた。この鍵と、錠前を作って、錠前は取り付けた。この鍵でしか開けられない錠さ。開錠呪文も効かないようにしてある」
「その錠前を設置した場所は」
「アルジオのセプトゥス支部だよ。目隠しされて連れて行かれたけど、おそらくは地下のどこかだ」
「何のための鍵だ。何を収めるための」
「さあね。用途は聞かされてないよ。俺には関係ないからね」
ソルトは再び肩をすくめる。
「その依頼は、いつ受けた」
「そうだねぇ。結構前だった。俺がここに店を構えたすぐ後の話だから、十五年前かな」
「十五年前……」
クロードの表情が、さっと固くなった。そしてソルトの手から鍵をもぎ取ると、懐にしまい踵を返した。
「行くぞお前達」
リオンとフィオ、ゼファーを促し、外へ出た。
店を出る時、背後から面白がるような声で、
「毎度。またのお越しを」
ソルトが言った。
「おいクロード! どうしたってんだよ!」
早足で来た道を戻るクロードに、一番に追いついたのはゼファーだ。リオンとフィオは、その後に駆け足で続く。
「お前、何をそんなに急いで……」
クロードが突然足を止めた。勢い余ったゼファーが、その足にぽふんとぶつかった。
「いきなり止まるなよ!」
使い魔の抗議は無視された。クロードは振り返りざま、低い声色で言った。
「セプトゥスに行くぞ。支部の連中に、洗いざらい吐かせてやる」
「鍵のこと、何か分かったの?」
と、リオン。クロードの鋭い眼差しが向けられる。自分に対しての睨みではないだろうが、責められているようで居心地が悪い。
「ソルトは十五年前に、アルジオから魔法錠の制作を依頼された。十五年前に、だ。俺の勘が間違ってなければ……」
柳色の目線が、ゼファーに、そしてフィオに移る。
フィオは顔色を変え、はっと息を呑んだ。
「そんな、まさか」
「おいおい、嘘だろ。またかよ?」
ゼファーも状況を察したらしい。ただ一人、リオンだけが話についていけない。
「あの、どういうことか説明してほしいんだけど」
「説明なら歩きながらしてやる。とにかく急ぐぞ」
クロードは再び先頭に立って歩き出した。フィオとゼファーも急ぎ足で、彼の後について行った。
リオンは、自分だけ仲間はずれになったようで、良い気分がしなかった。
しかし、ここで文句を言っても始まらない。今は黙ってついて行くしかないだろう。
不満を抑え、フィオ達を追いかける。
その時だ。
押されるような鈍い痛みが、左目を襲った。痛みは急速に、刃物で刺されたかのような鋭いものに変わり、脳にまで達した。
リオンは呻き声をもらし、その場に膝をついた。あまりの激痛に、立つことができない。
(またなのか)
左目を手で抑えるが、痛みを和らげる助けにはならなかった。脂汗が額に浮く。顔が火照るほど熱いのに、寒気がする。
ベイルゼンの森で、初めて痛んだ時以上の苦痛だ。
「リオン、どうしたの!?」
異変に気づいたフィオが駆け寄る。ゼファーとクロードも戻ってきた。
「目? 目が痛いんですか?」
心配そうなフィオの顔が、覗き込んでくる。何か答えたかったが、喋るのも辛かった。
「どうした?」
クロードの声がする。
「分かりません。でも、すごく辛そうで」
「なんだ、目にゴミでも入ったか」
「いえ、そんな程度じゃないと思います」
そう、ゴミなどではない。これは、この痛みは。
――お前のその目を。
脳裏に懐かしい声が蘇った。
――その目の秘密を、誰にも言ってはいけない。
(父さん……)
――もしも知られてしまったら、お前は。
この左目には。
痛みの原因は“それ”なのか。
左目を襲った激痛は、始まりと同じように、急に治まった。
リオンは荒くなった呼吸を整えようを、膝をついた姿勢のまま、深呼吸をした。
「大丈夫ですか? 一体どうしたんです?」
フィオの手が、優しくリオンの肩に置かれる。
彼女の気遣いは嬉しかった。痛みも引き、苦痛は止んだが、しかしリオンの心は平穏を取り戻せていない。
痛みがなくなると同時に、嫌な気配を感じるようになったからだ。
リオンには気配の正体が分かった。
「……こっちに来る」
「え?」
「もう、そこまで来てる」
リオンは汗にまみれた顔を上げ、前方を見据えた。
クロードが立つその向こうに、それがいる。自分達に悪意を向けるものが。
人影が近づいてきて、5クルク手前で止まった。
「やはりお前だったか」
クロードが軽蔑したように、その人影に言った。




