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私の当たり前な世界

 珍しいことが続いた。

 景ちゃんが、家に来ない。

 二、三日に一回は必ず来ていたのに、だ。多い時では、毎日のように見ていたというのに。


 閑静というには少しだけ人の声が多い住宅街は、夕刻を過ぎれば車の通る音が大きく聞こえる。

 壁に掛けられた時計は長針も短針も八の数字に重なっている。夕飯も摂り終え、少し眠たい。

「最近さ、景ちゃん見ないね」

「うん」

「おじさんとおばさん、仕事落ち着いたって言ってた」

「そうなんだ」

「うん」

 ソファーに座りながらクッションを握り締める私の隣で、敬はソファーを背に参考書をパラリと捲る。

「テレビ、消そうか?」

「音が有る方が良いからいい」

「私を含めて煩かったら言ってね」

「言う」

 テレビ画面には、地上波初の邦画が流れる。二年位前に話題になったホラー映画だ。心臓に悪い映画。

 景ちゃんと観ていたら、即刻煩いと敬に言われていたことだろう。見せ場で景ちゃんは面白そうに叫ぶから。それを聞いた私も、釣られるように叫んでしまう。年が一つ離れた弟は、黙って観ているタイプだ。

「姉ちゃん」

「何?」

「今日は静かだね」

 目線を下げても視線は合わない。

 参考書から目を外さずに、今年で中学三年生になった弟は淡々と喋る。

「これ、あんまり怖くないや」

「そう」

「敬は、いつも黙って観るよね」

 チラリと参考書から目線を上げた敬が、静かに笑う。

「俺がベラベラ喋ってた方が、この映画より怖いかもね」

「そうかな」

「そうだよ」

「確かに」

 返事をしたのは、私ではない。


 私と敬は、多分同時に振り返った。

 ソファー越しのリビングの扉の前に、景ちゃんは立っていた。今日もツインテールが、首を傾げた動きに合わせてサラリと揺れる。

「景ちゃん!」

「こいつ、気配を消してきたぞ」

 景ちゃんが扉が開く音にすら気が付かなかった。

 あの弟が、声に抑揚を付けている。バサリと聞こえた音の方を見ると、敬の現国の参考書だっだ。

「お邪魔してます」

 人差し指で、景ちゃんは何かをクルクルと回し始めた。多分、銀色に光るソレは私の家の合鍵だ。

「景ちゃん、今日はお友達が、お家に泊まるって聞いてたんだけど」

 私達の両親と景ちゃんの両親は、とても仲が良い。

 週末の今日は、四人でカラオケに行ってしまった。小学生の景ちゃんは、そういう時はこちらの家に泊まりに来る事が多い。でも今日は、景ちゃんはお友達が家に泊まりに来るとお母さんに聞いていた。私のウチの方に来ても良いとお母さんは言ったけれど、お友達と二人で大丈夫と押したのは景ちゃんだと言っていた。

 最初は泊まりに来ると思って、バイトの休みは入れてしまっていた。

 だから、弟と映画を観ていた。まあ、一人で観ていたようなものだけど。

 そんな景ちゃんが、正しく音も無く現れた。

 腕を組んで、扉に背を預けた景ちゃんは大人びて見えた。

「言葉通り、お邪魔だったかしら?」

「解かってんなら聞くんじゃねえよ」

「お邪魔虫はさっさと退散するので、春ちゃんかして」

「駄目」

「ひどい! じゃあ頂戴!」

「もっと駄目」

「敬兄さんがシスコンだから、春ちゃんに彼氏が出来ないんじゃん!」

「ホラー映画も一人で観られない奴に、そんなのはまだ早いんだよ!」

 やめてくれ。哀しくなる。

 胃の痛くなる目の前の口論に、私は重くなった口を開ける事にした。

「景ちゃん、お友達が家に泊まってたんでしょ? 一人で来たの?」

 小さく揺れたのは、景ちゃんの肩だ。大きく開けられていた口は、言葉を出さずに真一文字に結ばれた。眉毛の上に合わせる様に切られた前髪が、下を向いた景ちゃんの目元を暗くする。その下の、長い睫毛が伏せられて、眉は寄せられる。業と作った面持ちには、とても見えなかった。

 ゆっくりと歩いてきた景ちゃんは、ソファーに座る私の首にゆっくりと小さな手を回した。

「ねえ、春ちゃん」

「ん?」

「私、どうしてあげたら良かったのかな?」

 いつもからは想像も出来ない位、寂しそうな声だ。

「お友達と、喧嘩しちゃったの?」

「解かんない」

 敬がテレビを消した。室内に響くのは、空気清浄機のスーっという小さな音だ。

 ポンポンと頭を撫でると、景ちゃんは擦り付くよう腕に力を籠めた。

 身内にしか相談が出来ないような事だって、誰にでも有ると、私自身は思うのだ。

 両親が仕事で忙しいのは、仕方が無いことだとも思う。兄弟が居れば、気持ちを外に投げ出せたのかもしれない。でも、一人っ子の景ちゃんは、今まではどうしていたのだろうか。両親が家に居る時は、聞いてくれていたとも思う。景ちゃんのお父さんもお母さんも、私には優しく見えた。よく笑う人が、優しいとは限らないけれど。

 だけど、一人っ子の景ちゃんの気持ちが、私には何となく分かる。ような気になってしまう。

「一緒にお話しに行こうか?」

「ごめんなさい」

「景ちゃん?」

「ごめんなさい。聞いて欲しかっただけなの、私は」

 景ちゃんの両腕は私の首からスルリと外されて、目の前で景ちゃんはニコリと笑った。

 言いたくない事は誰にも言わなければいい。そういう笑い方だ。

 スッと血が、引いていく感覚がする。

「春ちゃん?」

「本当に?」

 余り、抑揚が無い声は私の声だった。

 こんな時に、こんな事を思い出しても仕方が無いのに。

 私の頭の中では過去の私が、解かった様な口を聞けと命令してくるかのように形だけの口を開く。

「春姉?」

 懐かしい呼び方。敬が、私をそういう風に呼ぶのは久し振りな気がする。

 あ、と思ったら、景ちゃんは不安そうに私の目を覗き込んでいた。

「えっと、頼っても良いんだよ?」

「春ちゃん」

「ね?」

 私は、笑おうとして笑った。口の端は、上げ辛かった。

「春ちゃん」

「ん?」

「有り難う」

 ニコリと、景ちゃんは笑った。私は、景ちゃんは本当に可愛い子だと思った。


 ソファーから立ち上がって、敬の前を横切ろうとしたら手を掴まれた。

 マメだらけの手の平に、違和感を感じなくなったのはいつからだろう。

「敬?」

「何処行くの?」

「景ちゃんの家」

「子供の喧嘩に、姉ちゃんが出て行くの?」

「出て行くんだよ」

 私の強い物言いに、普段は節目がちな敬の目は、大きく眼球を覗かせた。

 私が、映っていた。

 

 笑ってしまう。

 蓋をしていた秘密が、こんなにも簡単に漏れ出てしまう現実に。

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