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私の平和な世界

 空に滲む橙色が、とても綺麗だと思った。

 高校から帰宅した私は、自室の半開きになったドアを更に開けた。

 朝、きちんと閉めた筈だった。

 パタンという音は眠かったせいも合ってはっきりとは覚えていないが、聞いた気がする。習慣化すると、確信が持てなくなるのが困る。


 ノブに手を掛けたまま、私は傾げていた首を反対側に傾げた。

 室内はカーテンが閉められていて、ベッドの上にはきちんと畳まれた私の洗濯物が載せれている。

 なんだ、お母さんが閉め忘れたのか。

 珍しい。なんて、思ったのは一瞬だった。

 ベッド脇のクローゼッドは半開きどころか全開になっていた。

 可笑しい。

 珍しいどころか、無いな。そう思った。お母さんは几帳面な性格をしている。逆に、開けっ放しにするとしたら私の方だろう。


 クローゼッドを恐る恐る覗き込んだ。

 乱れた様子は、無い。上っていた私の肩は、ゆっくりと下がった。

 朝、制服を着る際に開けた時に見たまんまだ。 

 取り敢えず制服のブレザーをハンガーに掛けた。他の服を動かした際に見えた光景に、私は目を見開いた。

 クローゼットの奥の、小さなエナメルのバッグのジッパーが開いている。パカリと。

 最後に私がジッパーを引いたのは、私が小学生の時だ。


 反射的に部屋を飛び出していた。

 階段を勢いよく駆け下りると、左に曲がってキッチンへ直行した。

 お玉を持ったお母さんが、目を見開いて立っていた。

 私は息を早く整えたくて、深い呼吸を繰り返す。お母さんが何か言おうとしたけれど、私の声が大きく被さった。

「お母さん! 私の、ミニチュア! 知らない!?」

 幼少の頃によく遊んでいた、ピンクのエナメルバック一杯に仕舞っておいたミニチュアが無くなっていた。クローゼットの奥の方に仕舞っていたのに、中身だけ無くなっていた。暗がりに開けられた口内の黒は、空っぽだった。

 知っているとしたら、お母くらいのはずだ。

 お父さんは私よりも早く出勤してる。というよりもわざわざ壁にくっ付くように置いていた場所から、あんな物だけを引っ張り出したりする姿なんて想像が出来ない。消去法だ。今日は仕事が休みだと言っていたお母さんくらいしか、私には想像が出来なかった。

 肩で息をする私に、お母さんは瞬きを数回繰り返す。

「ミニチュア?」

「お母さんが昔買ってくれた、家具のミニチュア」

「まだ持ってたの?」

 お母さん、じゃない。

 ストンと、肩から力が抜けた。少しだけ震えている膝を、私は両手で握り込んだ。

「クローゼットの中に、仕舞っておいたの。扉が開いてて、それだけ無くなってた」

 お母さんは考えるように斜め上を眺めてから、また私に視線を戻した。

「景ちゃんかしらね。お洗濯物運ぶ時に手伝ってくれたから」

「あいつか!」

「こんにちは、おかえりなさい。あいつです」

 直ぐ横から私の顔を、景ちゃんが覗き込んだ。地毛だと言っていた、ほんの少し茶色いツインテールが揺れている。

「景ちゃん! 勝手に部屋から物を持ち出しちゃ駄目って何度も言って……、」

 私は、途中で言葉を飲み込んだ。正面に回り込んできたツインテールの良く似合う景ちゃんは私を見上げて、ニコリと笑った。

「春ちゃん、おかえりなさい」

「た、ただいま」

 景ちゃんは、私の腰に抱きつく。グリグリと私の胸元に頭を擦り付けられては、怒るに怒れない。

 そう、景ちゃんは可愛い。悪戯好きでだけれども兎に角可愛い。まず見た目が可愛い。こんな妹が欲しかったと、偶になら思うことも無くは無い。

 目を細めて見上げてきた景ちゃんは、眉を八の字にしている。長い睫毛が影を落とす。声は小さく揺れている。

「なんで、私だと思ったの?」

「常習犯だから」

「ビンゴ!」

「反省をしろ!」

 神妙そうな顔をしたと思ったら直ぐこれだ。騙されそうで騙されてきた日々はもう過去だ。

 頬を軽く抓ると何故か、景ちゃんは嬉しそうに笑った。そのまま声を出そうと、唇をモゴモゴさせている。

「いひゃきもひひ」

「怖い!」

 抱き着いたままだった景ちゃんを私は腰から引っぺがす。嫌な予感がして、廊下まで走って逃げた。

 その後ろを景ちゃんが全速力で追いかけてくる。

「怖いなんてそんなかなしいこと仰らずに!」

「来ないで!」

 そんなに広くも無い建売りの一軒家だ。玄関まであっという間に辿り着いてしまった。もういい。玄関扉を開けて逃げ切る!

 扉に手を伸ばすと、私は何も掴めなかった。掴もうと思っていた物が掴めなかった。傾いた身体は勢いを殺せなくて、私は適当に履いたサンダルのまま前につんのめった。

 転ぶ。

 と思ったけれど、両手で肩を掴まれて大した衝撃を受けずに済んだ。

「吃驚した」

 同じ気持ちだけど、私の声じゃない。

 最近また少し低くなった声が、頭上から聞こえる。声に言葉の意味ほどの抑揚は余り無い。

「敬、ありがと」

「ん」

「敬兄さんお帰りなさい!」

「景、やめろ」

 敬の伸ばされた片方の腕は、私の背中に抱き着こうとした景ちゃんの頭を鷲掴みにする。

 振り向いた先で、固定されながらもバタバタと手足を動かして景ちゃんは距離を詰めようとしている。ツインテールは不規則に揺れる。

「怖い!」

 私は年甲斐も無く、弟のカッターシャツを握り締めた。陽の陰った玄関先で、景ちゃんの動きが怖過ぎた。

「ただいま。景、止めろ」

 糸の切れた操り人形の様に、景ちゃんは両手を下ろした。けれど敬は景ちゃんの頭から手を離さない。

「止めましたから、頭、離して下さいよ」

「後ろに下がれ。上れないから」

 パッと手の平を敬が開くと、景ちゃんは数歩後ろに下がった。

 開けられた空間に、私も足を後ろに引いた。見上げた弟からは、土の匂いがする。

「ごめんね、有り難う」

「ん。ただいま」

「お帰り」

「春ちゃん、ごめんね」

 さっきとは打って変わって、可愛い仕種で景ちゃんはまた私を覗き込んだ。ニコリと笑って。

 可愛い。

「まあ、謝ってくれるんなら別に……」

「有り難う」

 もう一度、景ちゃんはニコリと笑う。

 ふんわりとした膝丈のスカートの裾を円でも描くかのように揺らして、景ちゃんはリビングまで戻って行った。

 なんたる驚異的な笑顔だ。将来が怖い。

「姉ちゃんさ」

「ん?」

「高校生が小学生に負けんなよ」

「仕方ないのよ」

「何が?」

「私、景ちゃんの顔に弱いの」

 靴を脱いでスリッパを履いた弟に握り拳を作ってそう伝えると、返事の変わりに溜息を返された。

 そのまま弟は階段を無言で上っていった。

 そういえば、玄関に景ちゃんの靴が見当たらない。

 サンダルからスリッパに履き替えてリビングに戻ってみたら、景ちゃんの姿ももう見当たらなかった。

「お母さん、景ちゃんは?」

 リビングに移動して来ていたお母さんに聞いてみると、テレビのリモコンを回しながら笑った。

「帰ったわよ。そこの縁側から」

 開いた縁側に続く窓から、西日が差し込む。綺麗な橙色はさっきよりも濃くなっていた。

「まあ、いっか」

 明日にでも聞いてみよう。毎日の様に景ちゃんは遊びに来ているのだから。

「でも驚いたわ」

「何が?」

「一回帰った後、縁側から慌てて飛び込んできたから、何事かと思ったわー」

「誰が?」

「景ちゃん」

「え? 大丈夫だったの?」

 暗くなってきた室内で、テレビの明かりが少しきつい。液晶の中でよく観る人達の笑い声がよく響く。

「ランドセル、忘れたんですって」

「なんだ」

 この間みたいに、変質者でも出たのかと思った。良かった。

「暗い」

 言葉とは反対に、室内はパッと明るくなった。上下灰色のスエットを着込んだ弟が、扉横のスイッチをカチリと鳴らした。

「お母さん、お腹が空いた」

「お父さん遅くなるらしいから、先に食べましょうか」

「ん」

 のそりのそりと歩いて、敬は私の横でピタリと止まる。

 見上げた敬の顔は、眠たそうだ。

「敬?」

「換気?」

「ああ。窓、閉めるね」

「違う。姉ちゃんの部屋、ドアが開けっ放しだったから閉めておいた」

「あ、有り難う。助かった」

「ん」

 また、のそりのそりと弟は歩き出す。


 キッチンから、カレーの匂いがする。

 そういえば、私は制服のままだった。私も着替えに自室に戻る事にした。

 階段を上って直ぐに見えた三年前に引っ越してきた時に貰った私の部屋は、きちんと扉が閉められていた。

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